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2020.9.6主日礼拝説教「保留の代償」(ルカ13:31-35)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 先日また一人、俳優が違法薬物所持の容疑によって逮捕されました。その代償はあまりにも大きいと言えるでしょう。
しかし薬物はじめ、あらゆる依存症は本人の努力だけでは決して回復できず、周囲の理解と励ましが不可欠です。
心ない言葉で責めるよりも、本人が贖罪を果たし、周囲が回復を支える方向を目指すことができるようにと祈ります。
 彼の逮捕に関連して、上岡龍太郎氏のこんな言葉が間接的に紹介されていました。
「芸人になって一度でも爆笑をとったことがあるヤツはドラッグなんかに手を出さんでしょう。
満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感はドラッグ以上ですよ」
「ドラッグ以上」と言ったら失礼ですが、クリスチャンが誰かと関わり続け、その方が信仰へと導かれたときの経験は、まさにそのものです。

 同盟教団の教師試験は、補教師であれ正教師であれ、理事会との最終面接が待ち受けています。
補教師のグループ面接のとき、当時のA江理事長から「あなたがたは人を導いた経験がありますか」と質問されたことがありました。
思わずびびってしまい、「人を導いたこともないような奴が牧師になるな」ということかと意気消沈したものです。
しかし牧師として二十年近く歩み、いま振り返ってみると、あの言葉の真意は、
人を導く喜びを味わったら、もうやめられないよ」ということだったのかもしれないと思います。
多くのクリスチャンは、自分には聖書知識もなく、経験もないと怖(お)じてしまい、人を導くこと(伝道)を避けます。
しかし人を導く喜びを知らなかったら、その人がいくら「信仰生活は喜び」と強調したところでおそらくむなしいだけです。
 伝道(証し)は、ポーカーや麻雀に似ています。配られた手札から始めなければなりません。
与えられた賜物を使い尽くす覚悟で、ひたすら冷や汗を流しながら、人と関わっていきます。その意味では恋愛にも似ていますね。
そしてやがて目の前の人がイエスを受け入れる、その喜びは「満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感」さえ及びません(たぶん)。
 「伝道の賜物」など存在しません。どんな賜物も伝道に繋がるのです。
どんな賜物も、本人には大したことがないように映るものです。だから新しい賜物を求めるクリスチャンが多いのは確かです。
しかし今あるものをフル回転させて人と関わるとき、神がその人の心を開いてくださる時がやってきます。
一人でも多くのクリスチャンの方が、人を導く喜びを味わうことができたらよいですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章31-35節


序.
 ちょっと前に、教会で「親分はイエス様」という映画を上映したことがありました。ヤクザがクリスチャンになった実話がもとになっています。
そのもとヤクザのクリスチャンを演じたのが、数年前に亡くなられた渡瀬恒彦さんでした。
彼がこの役に選ばれた理由は、「芸能界の中で一番けんかが強い男は渡瀬恒彦」という伝説があるからだそうです。
芸能界で彼に勝てるのは渡哲也だけ。そのお兄さんも先日亡くなられましたが、渡瀬さんにイエス様ご本人の役もしてほしかったです。
パリサイ人を使って汚い脅しをかけてくるヘロデに対して、「行って、あの狐にこう言いなさい」。言葉は丁寧ですが、さぞドスが利いていたでしょう。
「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければならない。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」。
これをかっこいいと言わずして、何をもってかっこいいと言えるのか。真の男と書いてイエスと読む。アニキと呼ばせてほしい。なあいいだろアニキ。

1.
 少し冗談めかして語ってしまいましたが、この物語で注目すべきところは、イエス様のカッコヨサではなく、最初のことばにあります。
「ちょうどそのとき」。何気ない言葉のように見えますが、じつは聖書のことばの中に何気ないというのはなく、すべてに隠された意図があります。
「ちょうどそのとき」。これは、その直前に語られていたイエス様のメッセージの適用として、入念にルカが選んだ、言い回しです。
「多くの人が、神の国に入ろうとしても入れなくなる時がやってくる」という警告を思い出してください。その実例が、このヘロデなのです。
このヘロデは、いわゆるヘロデ大王ではなく、その息子にあたるヘロデ・アンティパスを指します。
父ヘロデに比べると、彼は小物と言わざるを得ません。ローマ帝国に次々と領地を削られ、ガリラヤとペレヤの領主に落とされてしまいました。
また彼は、自分の兄弟ピリポの妻であったヘロデヤを強引に奪い、それを告発したバプテスマのヨハネも殺してしまったことでも知られています。
小物のうえ、小悪党か。しかし同時に彼はヨハネの語る、激しいさばきのことばを当惑しながらも喜んで聞いていたと記されています。
またヨハネを処刑してしまったことを悔やみ続けた彼は、イエスをよみがえったヨハネだと考え、恐れつつも会ってみたいと願っていた、ともあります。
じつは福音書から断片的に見えるヘロデ・アンティパスという人間は、イエスを殺そうとする人物像とはまるでかけ離れているのです。
ではパリサイ人が、ヘロデの名を騙ってイエスを脅したのでしょうか。しかしイエス様が言われた「狐」とは、明らかにヘロデその人を指しています。

 ヘロデ・アンティパスの、定まらない人物像。まさにこれこそ、「神の国に入りたいと願っているのに入ることができない多くの人々」の姿です。
ある時はヨハネの言葉を当惑しながらも喜んで聞く。またある時はイエスの姿に怯えながらも会ってみたいと願う。
そしてまたこの時には、自分の領地内に入り込んだイエスのもとへパリサイ人を送り込み、ここから退去しなければ捕らえて殺すと脅かす。
悔い改めを拒絶し続けるならば、救いにあと一ミリまで近づいていたはずの心もかたくなにされてしまい、入りたくても入れなくなるのです。
「神の国に入りたくても入ることができない」。それは先週語ったように、地上の死を迎えた後では悔い改めの機会はないだけではありません。
何度もあなたの心の中に神様がみことばを語り、悔い改めに導こうとしてくださっているのに、それをなんやかんや拒絶し続ければどうなるか。
自分でも気づかないあいだに、どんなに福音を聞いても無反応、無感覚になってしまう、かたくななものになってしまうのです。
あなたの心をかたくなにするのはだれでしょうか。あなた自身でしょうか。最初はそうです。自分で決断した結果です。
しかし恐ろしいのは、それを何度も繰り返しているうちに、どんなに自分でも求めていても、神ご自身があなたの心をかたくなにされてしまうのです。

2.
 ヘロデ・アンティパスと同じような道をたどった人の姿が聖書の中にいくつか登場します。たとえば、エジプト王パロ、別名ファラオがそうです。
神がモーセをパロのところへ遣わし、イスラエル人を奴隷から解放せよと命じたとき、彼はどんな奇跡を見ても応じようとしませんでした。
そこで神は、パロが支配するエジプト全土に、十の災いを与えます。ナイル川が血に変わったり、大きな雹で作物がだめになったり、
パロはそのたびに泣きついて民を行かせると言うのですが、災いが過ぎると手のひらを返します。
そして恐ろしいのは、最初の何回かはパロ自身が自分自身で心をかたくなにするのですが、
そのうちに聖書のことばは「神が彼の心をかたくなにされたので」と変わっていってしまうのです。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、夫婦共謀して、献金を虚偽申告したクリスチャンであるアナニヤとサッピラなどもそうです。
何度もイエスはユダに悔い改めを促しておられました。アナニヤ夫婦は、聖霊の語りかけを欺いて、クリスチャンでありながらさばかれて死にました。
人が救われるのは100%神の恵みです。そして人が神を求めることができるのも、100%神の恵みなのです。
私たちが生きている限り、いつでも神を求めることができると考えるべきではありません。
もし心をかたくなにし続けるならば、どんなに救われたいとたましいは願っても、神ご自身が心をかたくなにされてしまうことが確かにあるのです。
聖書は語っています。神は決して侮られるようなお方ではない、と。拒み続けるならば、それは聖霊を欺くことにほかならないのです。

 この数か月後、イエスがゲツセマネの園で捕らえられると、総督ピラトは、沈黙を続けるイエスに困り果て、ヘロデのもとへと送りました。
そのときヘロデにはイエスに対する殺意は消えていました。むしろイエスから話を聞きたいと願っていたので、喜んでイエスを迎えました。
しかしもうそのときには、イエス・キリストという狭き門は、ヘロデの前からは永久に閉じられてしまっていたのです。
イエスは、ヘロデの前でいっさい何も語ることはありませんでした。そしてヘロデもまたイエスをあざ笑い、そのままピラトのもとへ送り返しました。
ヘロデには、悔い改める猶予も、みことばを聞く時間も与えられていたのです。
もしヘロデが、しじゅう彼を苦しめていた罪悪感をイエスのもとにそのまま下ろしていたならば、何かが変わっていたかもしれません。
しかし彼はその機会を永遠に逃しました。もちろん救いには定められた時があります。
しかし聖霊が心の扉を叩いておられるのに、世のしがらみや恐れのゆえに聖霊の御声を拒み続けるようなことがあってはなりません。
最初は自分の意思で決断を保留していたとしても、それを繰り返し続けるならば、神があなたの心をかたくなにされることさえあるのです。
それは未信者の方々だけではありません。アナニヤとサッピラ夫婦の哀れな最期は、悔い改めへの招きを拒み続けるクリスチャンへの警告です。

結.
 最後に、イエス様が神の都エルサレムのために流された涙、吐き出された嗚咽を聞きましょう。しかしもはや多くの説明は必要としません。
ああ、エルサレム、エルサレム。イエスは、人としてのイエスではなく、神ご自身、子なるキリストとして、この神の都に語りかけます。
「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
エルサレムには、何十万人ものヘロデやユダやアナニヤ、サッピラがひしめいていました。
神に最も愛された者たちでありながら、神の差し出された御手を拒み続けたことで、都もろとも、永遠の滅びの穴へと落ちていこうとしています。
しかし、それでも神が最後の最後に差し伸ばされた御手を、今日つかむならば、あわれみはまだ残されているかもしれません。
あなたを救い出すために、イエス・キリストが叫ばれた、救いへの御声は、二千年前のエルサレムを突き抜けて、いま私たちの心を貫きます。
御声が自分の心のとびらを叩いているのがもし聞こえるようであれば、キリストの前にすべてを下ろして、永遠のいのちをいただきましょう。
そしてともに叫びましょう。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と。

posted by 近 at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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