外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
このところ、親しく交わらせていただいていた方が、次々と天へ召されていきます。
新潟で長く奉職されたTEAMの引退宣教師、リース先生ご夫妻とマクダニエル先生ご夫妻の四人の方々のうち、
とうとう最後の一人であったペギー・マクダニエル先生が先日、天へと旅立たれました。
以下、TEAMジャパンからのメールを一部引用します。
ペギー・マクダニエルは2020年9月1日に主のもとに旅立ちました。彼女と亡くなった夫のH.チャーマーズ(別名ダン)は、1951年から1986年まで日本で奉仕しました。彼らは主に日本の新潟での教会開拓に従事しました。ダンは英語のクラス、日曜学校のクラス、伝道の配布などを教えていました。ペギーは家で料理教室を主催することで、日本人女性との関係を築きました。彼女は彼らに西洋料理の作り方を教えたと同時に、そこでの関係は福音に繋がるものでもありました。ペギーは日曜学校も教え、子供たちを育てる手助けをしました:ロバート、ジャニー、ケン。彼女は夫が日本で奉仕した35年間、夫をサポートしました。彼らは1986年に引退しフィラデルフィアに引っ越しました。ペギーは人々を知る素晴らしい賜物があり、彼女は謙虚でした。彼女は人との関わり方に親切を示し、神は彼女を35年間日本人女性とキリストを分かち合うために用いました。2015年にペギー先生の夫、ダン・マクダニエル先生が召天されたとき、新潟山形宣教区の有志で記念文集を作りました。
ペギー先生や、ご存命のリース先生ご夫妻にも英訳版を送らせていただいたところ、喜んでいただけたと聞いています。
二ヶ月ほど前にリース先生に対する問合せがあり、それを機会にリース先生の記念文集をPDF版でアップしましたが、
今回、2015年に発行したマクダニエル先生の記念文集も同じようにアップしました。お手製のバナーも作成しました。


トップページにも、リンクバナーを貼っておきました。マク先生たちもマンガ風にできたらよかったのですが。
リース先生ご夫妻、マクダニエル先生ご夫妻、ありがとうございました。天国で会いましょう。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』14章7-14節
序.
お笑い芸人と売れっ子女優が結婚したとき、「格差婚」と呼ばれることがあります。
良い言葉ではありませんが、私と妻も「格差婚」でした。
妻は7人きょうだいの三番目、すでに結婚しているきょうだいの家族を含めると、それだけで開拓教会がひとつできそうな大家族です。
また妻自身も、首都圏にある大きな教会で何年も働いていて、そこの牧師や教会員たちにもかわいがってもらっていました。
なんとその教会は、わざわざ観光バスをチャーターして、何十人もの方々が、呼んでない人も含めて、神奈川からやってきました。
私の方は、親族郎党、かつての上司、友人、地元の牧師たち、懸命にかき集めましたが、妻の招待客の半分にも届きません。
負けた、と思いました。しかし披露宴は立食形式にしたので、招待客の席順に悩まずに済んだのは幸いでした。
なぜなら、結婚式の席順ほど、人間のプライドが反映されるところはないからです。
ある牧師が経験したことですが、自分が司式した結婚式の披露宴で、席順を巡って、目の前で招待客が殴り合ったそうです。
1.
パリサイ人や律法学者は、自分がどれくらいの地位にある人間なのかということを、着物につけたふさの長さで示していました。
お互いにふさの長さを気にしながら、自分のほうが上座にふさわしいとか心の中でつぶやいている姿をイエスは見つめておられたのでしょう。
しかしパリサイ人にとって、自分がどう評価されているかは、ふさの長さの数センチの違いでわかるような、浅いものでしかありません。
そんな評価に左右される人生は、やがて私たちが永遠の御国の祝宴に座るときには、まるで逆転します。
そのときには、この世では先頭の者とみなされていた者はしんがりとなり、逆にこの世ではしんがりとして蔑まれていた者はかえって先頭となる。
しんがりでも神の国に入れるならばそれでもよし、しかし入りたくても入れない者が出てくる。イエスはそのように繰り返し警告して来られました。
この世界は、いま持っているもので人は評価されます。自動車、不動産、現金や通帳の金額はどれくらい持っているか。
どんな仕事をしており、そこでどのような肩書きを持っているか。夫、妻、子どもたち、友人はいるか。健康な身体を持っているか。
「持っている」者は幸せなものとされ、「持っていない」者は持つために努力をしなかったことを諫められ、これから努力して持つことを求められる。
そして「持っている」者の中でも、パリサイ人のふさの長さのように、小さな違いでしかないものを巡って、お互いを比べます。
しかし実際のところ、この世界で持たなければならないものはひとつしかありません。
それさえ持っていれば、財産、地位、知識、家族、健康、あらゆるものを持っていなくても私は幸いであると心から感謝することができます。
それこそが、イエス・キリストを信じた者たちが持つ、永遠のいのちです。この人生は、来たるべき永遠の御国に向けた助走台にすぎません。
もしあなたが、この世で多くを持つことへの執着をやめ、たったひとつの永遠のいのちを握りしめながら、この世では末席でも構わぬとするならば、
来たるべき永遠の祝宴においては、主ご自身があなたを上座へと案内してくださることでしょう。
この世での順番にこだわって、本質が見えなくなっている生き方は、神の子どもにふさわしいものではありません。
この世では何の報いも受けることができなくても、やがて来たるべき世にて報いを受け取る、あえて持たないことを恥としない生き方があるのです。
イエス・キリストも、この世では一切報いを受け取ることのない方でした。パウロは、ピリピ教会にあてた手紙の中で、こう語っています。
「キリストは神の御姿でありながら、神のあり方を捨てることができないとは考えず、仕える者の姿をとってこの地上に来られたのです」。
私たちがみことばをいつも味わいながら、このイエス・キリストのように仕える者として歩んでいくとき、そこにこそ幸いがあるのです。
2.
12節からのたとえ話は、今度は招かれた者たちではなく、招いたパリサイ人に向かって語られたものです。
しかしメッセージの本質は、やはり、私たちが受け取ることのできる報いについてです。
イエスは、「昼食や夕食をふるまうときは友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけない」と言われています。
ここで「呼んではいけない」という言葉は、「呼び続けてはいけない」という意味であり、人間関係を切り捨てよということではありません。
イエスは、パリサイ人たちの食事の交わりが、いつもお返しを期待する、損得勘定に支配されたものになっていることを警告されたのです。
イエスさまが繰り返し語られたことのひとつに、人は報いを受けるのは、地上と永遠を通して一度きりであるということがあります。
パリサイ人たちは、いつも人々から尊敬を受けとることを求めていました。彼らが衣のふさを長くしていたのもそのひとつでした。
しかしイエスはパリサイ人について別の聖書箇所でこう語っています。「彼らは地上ですでに報いを受け取ってしまっているのである」と。
だれであれ、何回も神から報いを受け取ることはできません。いや、一度きりです。
地上で報いを受けるならば、来たるべき永遠の御国での報いはありません。
しかし地上で報いを受けることがなくても、来たるべき御国では、神からの報いが確かに待ち受けています。だからイエス様はこう勧めました。
食事に招いてもお返し、つまり報いを与えることができない、「貧しい者、身体の不自由な者、足の萎えた者、盲人たち」を招くように、と。
地上では侮られ、蔑まれ、軽んじられている者たち、どんな小さなお返しもできないような人たち。
しかしイエス様はこう語られました。「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」。
お返ししてもらえないことは、パリサイ人の論理ではちっとも幸いではありません。
しかし地上での報いは一切求めず、いささかも期待するな。そうすれば、来たるべき日に、神ご自身があなたを報いてくださる。
イエス・キリストのように生きたいと願う者たちにとって、この地上の世界が与えることのできる報いは、あまりにも小さすぎます。
地上で報われない生き方こそ幸いなり、と主は言われます。
なぜならば、そのような人こそ、やがて来たるべき永遠の御国において、神様からの正当な報いが約束されているからです。
結.
持つことを美徳とするこの世において、持たざる者となれ。報われることを当然とするこの世において、報われざる者となれ。
しかしそれこそが本当に幸いな生き方なのだと語られたイエス様こそ、まさに持たざる者、報われざる者でした。
裏切られ、唾を吐きかけられ、十字架で殺された救い主イエス。しかし三日目によみがえり、高く挙げられて、神の右の座に着かれました。
私たちは、このイエス・キリストを模範として歩んでいきましょう。地上での生活はウォーミングアップ、準備運動にしかすぎません。
本当の報いはやがて来たるべき永遠の御国の中にあります。
そのとき、イエス様が私たちを諸手をあげて迎え、私たちをご自身の右に座らせてくださることでしょう。
地上での苦しみ、痛み、傷、それもすべて来たるべき祝宴での勲章になります。喜びをもって、これからの一週間を歩んでいきましょう。