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2020.9.27主日礼拝説教「いま、目線を1度上げて」(ルカ14:15-24)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 半沢直樹、終わってしまいましたね。全10回、一回も見てませんが。実家の父に言わせると「大仰な芝居が面白い」のだそう。
でも私自身が、日曜日は一日三回、大仰な説教をしていますので、夜9時になると、くったくた。
愛妻に「(今日は)おしまいDEATH!」とオヤスミの挨拶をして、先に寝てしまいます。←これだけ知ってる
しかし先日、気になる記事がありました。
「半沢直樹」のリアルタイム視聴は日本全国で推計6658.8万人、ビデオリサーチから
日本国民の二人に一人が「半沢」を見ていたということになりますね。本当?
しかしこれはあくまでも「推計」です。視聴率調査は、全家庭のテレビに発信器が取り付けられているわけではありません。
ビデオリサーチ社が無作為に抽出し、かつ契約を行った世帯に設置された機器によって測定されます。
その世帯の内訳は以下のようになっているそうです。
area_1.gif
トータルすると11,000世帯。日本の平均世帯員数が2名なので約2万人ちょっとでしかありません。
つまり約2万人のうち半数以上が全10回のうち一回は見たから、全国民に換算すると7千万人!という、ものすごいどんぶり勘定。
このブログも教会員約30名のうち5人くらいは見てくれているそうなので、全国に換算すると2千万人くらいかな?みんな、ありがとう。
冗談はさておき、視聴率を気にしすぎて制作現場が萎縮することがないようにしてほしいと思います。
確かに民放では、視聴率重視のスポンサーに逆らえないかもしれません。「もっとわかりやすい説教をしてください」という役員みたい?
だからNHKには大衆に迎合した番組ではなく、もっと骨太の内容をどんどん作ってほしいものです。
まさか「進撃の巨人」をNHKが放送することになるとはびっくりしました。別の意味で骨太ですが。巨人に骨までかじられそう。
あれ、半沢の話だったのにどうしてこうなった?週報はこちらDEATH!

聖書箇所 『ルカの福音書』14章15-24節


序.
 小学校の算数の授業で、先生が巨大な分度器や三角定規を使いながら、黒板に大きな絵を書き、こんな話をしてれたことがありました。
人間は、いま自分が見ている目線が、地面と平行な、つまり0度だったら、子どもから大人に成長しても、結局、同じものしか見えない。
だけど子どものときに、たった1度でもいい、目線を少しだけ上げるだけで、それは長い人生の中でどんどん広がっていって、大空にまで達する。
逆に子どもの時に、わずか1度でも下向きになってしまったら、やはりどんどん広がっていき、それまで見えていたものさえ見えなくなってしまう。
人生を前向きに生きるためには、目線を1度上げるだけで十分だ。というお話しでした。当時の私たちにとっては難しすぎる人生論でした。
しかし40年経った今でもしっかりと覚えているということは、難しすぎても早すぎるということではなかったのでしょう。
 この先生の話に当てはめるならば、パリサイ人は0度の人たちでした。地上での報いを期待し、いつも同じものしか見えていない人たちです。
そのパリサイ人のひとりは、義人の復活ということばをイエスから聞くと、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と叫びます。
彼らは、自分たちがその神の国の食事に加わることのできる者たちなのだと信じ込んでいました。彼らには自らの高慢な心が見えていません。
だからイエスは、改めて新しいたとえ話を語られました。神の国の祝宴は、もはやパリサイ人から取り上げられ、別の者たちが招待されている、と。席はまだ余っていても、彼らが自分たちの心を変えようとしない限り、そこに入ることはできない。1度目線を上げる。それが心を変えることです。
しかし、たかが1度、されど1度。この1度を変えられないがゆえに、パリサイ人と同じように神の国に入れない人々が多いのです。

1.
 当時のユダヤでは、誰かを正式な宴に招くときは二回に分けて招待が行われました。
最初の招待は、宴よりずっと前に行われ、そこで招待に応じた人たちの数をもとに、宴の主人は食事や席を時間をかけて用意します。
そして当日、その宴の準備が整い、まさに始まろうとするときに改めて使いが送られ、人々が集まってきます。
ユダヤでは、一日は朝からではなく夕から始まります。そのため、宴も日中ではなく、まさに夕暮れ時から始まりました。
このたとえ話も、夕闇の帳が降りる頃、それぞれの招待客の家にしもべたちが遣わされ、宴への招きが呼びかけられる情景が想定されています。
しかしここに出てくる三人の人々は、最初の招待には同意していたにもかかわらず、当日の招待に対して理不尽な言い訳をして断ったのです。最初の人は、「畑を買ったので見に行かなければならない」と言います。日が落ちる今頃になって、買った畑を見に行く人などいません。
二番目の人は、「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです」と言いました。ペアで一くびきですので、牛十匹ということになります。
牛十匹は、当時でも大変高価な買い物です。これだけの高い買い物を今になってようやくためす、ということはあり得ません。
そして最後の人は、「結婚したので行くことができません」と言います。ユダヤでは結婚は一年以上の準備期間をおきます。
最初に招待されたときに断るべきでした。いや、そう考えることさえ無駄でしょう。彼らはただの苦しまぎれの言い訳をしているだけなのですから。
 イエス様がこのふざけた三人の姿にたとえたのは、一体誰のことでしょうか。それは、パリサイ人に代表される、当時のユダヤ人そのものです。
神ははるか昔、ユダヤ人の先祖であるイスラエルを選び、そこで契約を結びました。その契約とは、次のようなものです。
わたしはやがてあなたがたに救い主を与える、だからあなたがたは、救い主がやがて来られる、という良い知らせを世界に語り告げよ。
それは神からの一方的な命令ではなく、神とイスラエルが結んだ契約でした。ユダヤ人は、神の宴への最初の招待に同意したのです。
しかしいざ救い主であるイエスが来られたのに、ユダヤ人、とくにその宗教的指導者であるパリサイ人はこのイエスを受け入れませんでした。
イエスこそ神が約束された契約の完成であるのに、パリサイ人はまるで揚げ足をとるかのような批判ばかりをして、イエスを拒みました。
その姿こそ、この取るに足りない言い訳をして、神の招きを今頃になって拒んでいる人々そのものなのです。

2.
 神はユダヤ人のために宴をずっと準備しておられました。しかしそれを拒絶した者たちに代えて、神は新しい招待客を選ばれました。
21節、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。
貧しい者は、5くびきの牛など買えません。盲人は、買った畑を見に行くことはできません。先の三人のような言い訳はしません。
彼らは、正式な宴に呼ばれることなど一切期待することなく、もがきながら生きてきた人々です。しかし神はその彼らを正式に招待されました。
彼らこそ、イエスを救い主として受け入れた、取税人や売春婦、病や悪霊に苦しめられてきた人々、罪人と呼ばれていた人々でした。
しかし彼らもまた、こう言って宴を拒むことがあるかもしれません。「私はこんな宴にふさわしい礼服を持っていません。呼ばれても行けません」
心配することはありません。神の宴にふさわしい礼服は、神ご自身が用意した者を着させてくださるのですから。その服とは、イエス・キリストです。
新約聖書の『ガラテヤ人への手紙』3章に、こういう言葉があります。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。
なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

私の亡くなった母は、「もう少し立派になったら教会に行くよ」が口癖でした。
私が牧師になったら何回か教会に来てくれましたが、その口癖が「もう少し立派になったら信じてあげるよ」にしれっと変わっていました。
母が本気でそう考えていたかはともかく、自分は信仰の道に従えるほど立派ではない、と考えている方々は多いと思います。
しかし、私たちは立派になる必要などありません。救いに必要なあらゆるものは、すべて神様が用意し、イエス様が完成させてくださったのです。
私たちに必要なのは、「信じる」ということだけです。信じるとは、いま、1度、目線を上げることです。あとは神が終わりまで導いてくださいます。
どうかまだイエス様を信じておられない方は、今日受け入れるために目線を上げてください。そこには天にまで届く喜びがあるのです。

3.
 さて、今日の説教も終わりに近づきました。しもべたちは、手当たり次第に人々を招きましたが、それでもなお宴席には空席がありました。
そこで神はこう命じました。23節、「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
「街道」とは、エルサレムからサマリヤ、エジプトへと繋がっていた大きな幹線道路を、
そして「垣根」とは、ユダヤ人がさまざまな決まりによって、異邦人を差別していた、隔ての壁を表しています。
つまり、ここで神の国の宴を満たすために強いて連れてこられた人々とは、救いがユダヤ人から異邦人へと広がっていく姿を表しています。
私たちは、先の貧しい者や身体の不自由な人に象徴される者たちであると同時に、ここで招かれている異邦人のひとりでもあります。
そしてもうひとつ、信じたクリスチャンは、今や、この主人によって遣われていくしもべでもあるのです。
「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れてきなさい」という命令をクリスチャンみんなが受けています。
「無理にでも」とはいうまでもなく、嘘や方便を使って、という意味ではありません。人の都合や気持ちなど構わずに、という意味でもありません。
神は、すべての人をご自分の食事の席へと招いておられます。それは人が今まで経験したこともない、喜びの祝宴です。
とはいえ知らないがゆえに、経験したことがないゆえに、人々はこの祝宴への招きに対して、苦しい言い訳を使って拒むでしょう。
しかしそんな人々に、救われたクリスチャンは自分の体験を語ることができます。すでに宴の準備は始まっています。
毎週ささげる礼拝、毎日のみことば、絶え間ない祈り、兄弟姉妹との交わり、それは神の厨房に並んでいるさまざまな食材のようなものです。
今は不完全なかたちでしか見ていませんが、やがて私たちは完全なかたちでこの祝宴を味わうことになります。
やがて天で開かれる永遠の祝宴への希望を私たちはこの地上で語ります。一人でも多くの人々に、この祝宴にあずかっていただくために。
これからの一週間、私たちは人々にこう語りかけていきたいと願います。
「祝宴の席はまだ空いています。どうか来てください。あなたに用意されている神の恵みをどうか味わってください」と。

posted by 近 at 15:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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