外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
「日本三大祭り」と言えば、京都の祇園祭・青森のねぶた祭・そしてヤマザキ春のパンまつりとだれもが答えるでしょう。
祭りとは関係ありませんが、日本の福音派教会の中にも「三大ディボーション月刊誌」があり、シノギを削っております。
『マナ』(いのちのことば社)、『リビングライフ』(ツラノ・ジャパン)、そして『日々のみことば』(同出版委員会)です。
もうひとつ、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの『クレイ』もありますが、今月で廃刊だそうです。
このうちの一つ、『日々のみことば』から依頼されて、昨年から私もその月の聖書箇所のディボーションガイドを執筆しております。

↑日々のみことば出版委員会のホームページが見つかりませんので、クリックすると教文館のネット書店につながります
現在、上記10月号が全国キリスト教書店で発売中ですが、この中の10/14〜31までの『詩篇』の解説を私が担当しています。
解説といっても、「読者より先にその箇所を黙想して、教えられたことを抜粋して書いているだけでしょ」(妻・談)と思われがち。
しかし!公の目に触れるものですから、聖書だけを読めばよいというわけではなく、注解書などで学びは欠かせません。
一度礼拝説教で取り上げた箇所だと準備作業も半減するのですが、この二年間で私が担当した箇所を振り返ってみると、
『雅歌』『ヨハネの手紙 第二・第三』『ユダの手紙』『ハバクク書』『詩篇(一部)』。来年は『箴言』を担当します。
詩篇以外は、まず礼拝説教で取り上げないものばかり。ナントカハラスメントでしょうか。
一頁書くのに数時間かかるのですが、原稿料をその時間で割ったら、なんと。新潟県の最低賃金を下回りました。
それでも日本の教会全体に仕えるわざのひとつとして引き受けているので、別にいいですけど。売れたら上がるのかな。
むしろ廃刊にならないように、どうか一家に一冊。あわよくば贈呈用にもう一冊。ついでに保管用としてもう一冊。税込499円です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』14章25-35節
1.
イエス・キリストの後ろには、常に数え切れないほどの人波が生まれていました。
イエスの生まれ育ったナザレ村、ガリラヤ湖畔の商業都市カペナウム、イエスが行かれる所どこででも、人々が黒山のように集まって来ました。
その人気は、エルサレムに向かって歩み続けているこの時も決して衰えないどころか、むしろ数を増していました。
12弟子を筆頭に、自分の生活を捨ててまで従ってきたイエスの弟子たちにとって、この人波こそが自分の選んだ道が正しいという証明でした。
このように数え切れない人々がイエスの前、後ろ、回り、あらゆるところに群がっている。この光景こそが、イエスが救い主であることの証しでした。
しかし実際にイエスのまわりを囲んでいた群衆たちの目的は、当の弟子たちが考えるほど単純でもないし、一枚岩ではありませんでした。
ある者たちは、イエスが数千人の人々にパンを与える奇跡を行った、ということを聞き、彼についていけば食いっぱぐれがないと考えました。
また別の者たちは、ユダヤの国をローマ帝国の支配から解放してくれる革命のリーダーとしてイエスを仰ぎ、彼の後ろに従っていました。
群衆が求めていたのは、これまでイエスがさんざん批判してきたパリサイ人と同じでした。あくまでも地上のこと、現実の生活のことでした。
イエスは、彼らの求めを知っていました。そして自分の方からこの大勢の追従者を切り捨てるかのような、厳しいことばをあえて語られたのです。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と。
なんと厳しい言葉でしょうか。家族はもとより、自分のいのちさえ憎まないならば、わたしの弟子になることはできない、とは。
イエスを救い主として信じた者は、だれであっても「弟子」です。信者の中に「弟子」と言われるエリートグループがいるわけではありません。
実際、マタイの福音書の最後には、キリストが天に戻られる前、弟子たちに語られた言葉が次のように記録されています。
「あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」と。イエスを救い主として信じた者は弟子です。
信じてしばらく修行したら弟子になるのではありません。信じた者は、たとえ自分では弟子たり得ないと思っていたとしても、紛れもなく弟子です。
しかしもう一度言います。なんと厳しい言葉でしょうか。「憎まないなら」「十字架を負ってついてこないなら」弟子になることはできない、とは。
これが弟子になる条件だとしたら、あまりにも極端、あまりにも困難。否、不可能。それだったら弟子になれなくてもよい、と思う方もいるでしょう。
しかし見落としてはならないのは、「わたしのもとに来て」という言葉です。26節をもう一度ご覧ください。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」
27節はこう補足されます。「(わたしのもとに来たうえで)自分の十字架を負ってついて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」。
2.
イエス・キリストのもとに来たとき、人はこの世のどんなに麗しい関係も霞のように感じられるほどの、切り離されることのない絆を受け取ります。
一見、人と人の絆というのは確かなものに見えます。「おかげさまで」という挨拶は、人の絆を大事にする日本人を表す言葉と言われます。
しかし親子関係、夫婦関係、家族関係、また友人関係、地域、社会での関係、
その絆はたった一つの言葉やたった一回の行動で、簡単にもろく壊れてしまうものなのです。
人と関わることがなかったら、それを知ることはないでしょう。
しかし人と関われば関わるほど、人と人の絆の大切さを味わうと同時に、それはいとも簡単に切れてしまう脆いものだということを経験します。
どんなに愛に満ちた家族であっても、そこは私たちが盤石の信頼をもって身をゆだねることのできる場所にはなりません。
晴れの日にはよいでしょう。傷つける言葉を出さなければ保たれることもあるでしょう。しかしほんの些細なできごとで壊れてしまうものです。
イエスを信じるとは、神のご計画の中でイエスのもとに導かれ、この方のもとにたましいを安らわせることのできる恵みを味わうことです。
父の背中よりも広く、母の胸よりも温かく、兄弟姉妹、妻、子、あらゆる人間同士が結ぶことができる絆よりも太い、
私たちを捕まえて決して放すことのない、神の御翼の下に身も心も休めることのできる恵み。
それを本当に知った者は、神と誰かを天秤にかけようとは思いません。
この永遠の父なる神、救い主イエス・キリスト、聖霊の神のふところに安らうとき、どんなものも比べられない、圧倒的な恵みがあります。
自分の父、母、うんぬんを憎めというイエスの言葉は、むしろ人の絆にいつのまにか依存してしまっていることを憎めということにほかなりません。
この世のもののなかでもっとも気高く美しい、家族の絆。しかしそれに依存して、神と人との絆を取り戻すことができなかったら、人生は無駄です。
イエス・キリストを信じる。それはイエスの弟子になることです。そして弟子は、ただその師との絆に生きます。
今まで自分を育み守ってきた世界と別れることには勇気がいります。
しかしそれゆえにキリストを信じることができないとしたら、それはもはや信頼関係ではなく依存関係です。
イエスのもとに来てください。そこで神との関係を回復してください。そうすれば家族との関係にも、依存ではなく信頼が生まれるのです。
3.
最後に、塔、戦争、塩について簡単にまとめて終わりたいと思います。
ここで「塔」と訳されている言葉は、ただの高い建物ではなく、戦いに備えて建てられる「やぐら」を意味します。
また「塩」は古代において、兵士の給与として用いられました。「給料」を意味する「サラリー」は、もともと「ソルト」つまり塩から生まれました。
戦争のためにやぐらを建て、兵士を調達するために塩を必要とする。
イエスはこのように戦争をイメージする言葉を繋げることで、「弟子に求められているもの」を人々に思い起こさせています。
私たちはイエスを信じて、イエスの弟子とされました。それは神の戦いのために召し出された兵士という意味でもあります。
33節で、「あなたがたが自分の財産すべてを捨てなければ、わたしの弟子になることはできない」とイエスは語られます。
ここで「財産」と訳されている言葉は、直訳すると「持っているもの」という意味であり、金銭や不動産だけではありません。
「あなたが持っているものすべてを捨てなければ」、そこには人間関係はもちろん、自分の実績、才能、他人からの評価も含まれます。
この世界で手に入れた、誇りにできるものはすべて捨てよ、否、憎め。
むしろイエスを信じ、イエスのものにされたことを喜び、イエスの御名だけを誇れ。
しかし私たちは、キリストの弟子になることを必要以上に恐れないようにしましょう。信仰は、努力ではなくて神からのプレゼントです。
私たちは、後のことを考える必要はありません。イエスからの招きを聞いたならばそれに答えてください。あとは神が導いてくださいます。
たしかに私たちは、やぐらを建てるために計画を練り、戦いの行く末を冷静に判断し、塩気を失わないように気をつけるべきです。
しかしそれもまた人の努力ではなく、信仰によって、私たちを通して、神が完成させてくださることです。
私たちがイエスのもとに行くならば、神は私たちを弟子とし、ご自分の御国を完成するための兵士として整えてくださいます。
主に自分の道をおゆだねし、ただこの方だけに信頼していきたいと願います。