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2020.10.11主日礼拝説教「なりふり構わぬ愛」(ルカ15:1-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今回の説教は、私が今まで語ってきた約二千篇の説教(祈祷会含む)の中でもとくに物議を醸すものかもしれません。
何しろ、99匹の羊を野に置いて1匹の羊を捜しに行ったのは、羊飼いではないと言い切ってしまっているからです。
はるか昔から、このたとえ話は「良い羊飼い」という解釈が定着していますので、世が世なら異端審問にかけられても不思議ではありません。
おそらくオリゲネスかクリュソストモスあたりが「これは羊飼い」と語って以来、イメージが定着してしまったのではないでしょうか。
説教では説明を割愛しましたので、このたとえが羊飼いを表しているのではないという根拠をいくつかの点からまとめておきます。

1.「羊飼い」を「羊を持っている人」と表現している例は、新約聖書の他の箇所には見られないこと。
当時の羊飼いは貧しい人々であり、羊の所有者ではなく、羊をゆだねられていたに過ぎません。
「持っている(ギリシャ語エコー)」には「飼う」という意味はなく、その意味では羊飼いは一匹も羊を持っていません。
またギリシャ語で羊飼いを表す言葉は「牧する(ポイマイノー)」の分詞形である「ポイメーン」であり、これは「牧者」とも訳されます。
「飼う」を意味するギリシャ語は他にも「ボスコー」がありますが、ルカは「持っている」という言葉で明らかに差別化を図っています。
たとえ話とはいえ、聞き手であるパリサイ人・律法学者こそ富裕層であり、「羊を百匹持っている人」という表現に当てはまります。

2.ルカの場合、明らかにパリサイ人・律法学者に対する文脈のなかで「あなたがた」と呼びかけていること。
マタイの場合は、弟子たちに語りかけている文脈ですが、代わりに銀貨と放蕩息子は出てきません。
パリサイ人たちは職業的な羊飼いではありませんが、旧約聖書では王・祭司・長老・預言者などは「イスラエルの牧者」と呼ばれていました。
ルカの意図は、パリサイ人たちが本来、イスラエルの牧者として社会的弱者を彼ら自ら牧会すべきはずなのに一切交わろうとしなかったこと、
そしてこのような人々と食事を共にしていたイエスへの批判に対するアイロニー(皮肉)がこめられています。
パリサイ人たちがイスラエルの宗教的・政治的指導者を自任するのであれば、彼ら自身が失われた羊を捜しに行くことが求められているのです。

3.第一のたとえを「よき羊飼い」とした場合、第二のたとえとの繋がりが生きてこないこと。
古来より多くの説教者・画家・讃美歌作者がこのたとえ話を、イエスがヨハネ伝で語られた「良い牧者」と重ね合わせ、混同してきました。
しかしここで良い牧者が羊を捜す理由が慈しみだとすれば、次のたとえ話で女性が銀貨の金銭的価値を惜しむという文脈は逆行します。
女性は銀貨を人格的に愛しているわけではなく、むしろここは、羊の所有者もこの女性も、財産の一部として惜しんでいるのです。
それでも、そのように愛を動機としていなくても、人はこれほどまでに失われたものの回復を喜ぶ。
だとすれば、ましてや神が愛とあわれみをもって失われたものを取り戻すとき、どれほどの喜びが天にはあるのだろうか。
そのようなメッセージのクライマックスとして、第三のたとえ話として語られた、放蕩息子の帰還が生きてきます。

4.羊を取り戻した後、近所の人を呼び集めて一緒に喜ぶという姿は、当時の羊飼いの状況とはそぐわないこと。
前述したように、当時の羊飼いは、経済的だけではなく、社会的にも低い位置にありました。
彼らは町や村で一般的な生活をしていたのではなく、もっぱら荒野で生活しながら、独特のコミュニティを築いていました。
「友だちや近所の人たちを呼び集め」る姿は、現実の羊飼いの生活とは繋がらないものであり、聞き手は違和感をおぼえたことでしょう。
もっともそれを言うならばパリサイ人たちが「一緒に喜んでください」と言うことのほうが違和感満載と言われるかもしれません。
しかし彼らでさえ一匹の羊を取り戻したとき、いつもの木で鼻をくくるような態度を忘れ、喜びを共有しようとするではないか。
ましてや、天での喜びはいかほどであろうか、というメッセージとして解釈するほうが自然に思われます。

第一のたとえをよき羊飼いとして教えられてきた身にとって、穿ちすぎた解釈に聞こえるでしょう。私自身がそうでした。
しかし聖書を読む喜びは、それまで学んできたことさえも白紙に戻して、目の前にある神のことばに教えられることに尽きます。
そして「これは羊飼いではない」と考えたからといって、決して神の愛を矮小化するのではなく、むしろさらに恵みにとどまらせます。
羊や銀貨でさえ、人がこれほど「なりふり構わず」取り戻そうとするのであれば、
神はいったいどれほどの情熱をもって、私たちを取り戻そうとしておられるのだろうか、と。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』15章1-10節



1.
 今日のたとえ話は有名かつたいへんわかりやすいものであり、あえて説明を付け加えることさえも必要ではないか、と思われました。
ここでイエスは二つのたとえ話を語っておられますが、とくにそのはじめのほうのたとえをモチーフとした絵や讃美歌が多く作られています。
たとえば絵で言えば、みなさんもどこかでご覧になったことがあるのではないでしょうか。
高い岩山の断崖絶壁の小さなくぼみに一匹の羊がうずくまっています。そして傷だらけになった羊飼いが、必死に手を差し伸べている絵。
あるいは、ようやく助け出した羊の前足、後ろ足をそれぞれ優しく握り、まるで襟巻きのようにして連れ帰っていく、羊飼いの絵。
絵だけではなく、この新聖歌の中にも、このたとえ話から生まれた讃美歌がふたつ収められています。ひとつは217番、こんな歌です。
「九十九匹の羊は檻にあれども/戻らざりし一匹はいずこに行きし/飼い主より離れて/奥山に迷えり/奥山に迷えり」
五番まで続きますので、続きは省略しますが、代わりにもうひとつ、子ども向けに作られた485番の3節を紹介します。
「情けの深い羊飼いは/この小羊のあとをたずね/遠くの山々 谷底まで/迷子の羊を捜しました」

 このたとえ話は「失われた羊のたとえ」と呼ばれることもありますし、「よき羊飼いのたとえ」とも言われることがあります。
それは、私たち、たったひとりの罪人を、あらゆる犠牲を払って、捜し、取り戻す、という神の驚くべき愛をあらわしていることは間違いありません。
しかし今日改めて、このたとえ話が話されたシチュエーション、そしてたとえ話そのものを注意深く味わってみると、
もしかしたら私たちは、先に挙げた絵や、讃美歌といった伝統的なイメージに影響されてしまっているのかもしれないのです。
どういうことでしょうか。じつはこのたとえ話のなかで失われた羊を探し求めている人は、羊飼いではないのです。
 イエス・キリストは、別の箇所で「私は良い羊飼いです」とご自身をたとえられました。
罪人、すなわち迷える羊を探し求めて救う方がイエスです。そしてこのたとえ話に出てくる人も、死に物狂いで羊を捜します。
だからいつのまにか、本来別々の意味で語られていたものがごちゃ混ぜになってしまいました。
では、このたとえ話のなかで羊を探し求める人が羊飼いではないとしたら、いったい誰なのか。それはパリサイ人や律法学者なのです。

2.
 まず、このたとえ話が語られたくだりを読んでみましょう。
取税人、遊女、罪人、パリサイ人や律法学者から差別されていた人々がみな、イエスの話を聞こうとしてみもとにやって来ていました。
しかしそれを見たパリサイ人たちはイエスをこう批判しました。「この人は罪人たちを受け入れるだけでなく、しかも一緒に食事をしている」と。
パリサイ人や律法学者といった指導者たちこそが、本来、このような弱く傷ついた人々を受け入れるべきでした。
だからイエスは、この批判を聞いたとき、パリサイ人・律法学者たちに向けて、このたとえを語られました。
「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」
ここでイエスが「あなたがた」と呼びかけているのは、パリサイ人たちです。羊飼いではありません。
そして「羊を百匹持っていて」という言葉は、貧しい羊飼いを表す言葉ではなく、羊を所有し、羊飼いに世話を任せていた富裕層を表します。
しかし「あなたがた」と語りかけられている富裕層、パリサイ人や律法学者が、羊飼いにゆだねていた100匹の羊のうち、1匹でもなくしたら、
「99匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」。そんなことがあり得るのでしょうか。
長いふさを衣につけて誰が偉いかという背比べに興じているパリサイ人が、一匹を探して野山を探し回るなど、現実には想像もできません。
しかも、それは失われた一匹に対する愛情などではなく、羊という財産が1%でも減ってしまうことに対する「もったいない」というものです。
ここに、イエスのたとえ話の巧みさがあります。もしそうなったらあなたがたは他人に任せておけず、「なりふり構わず」取り戻そうとするだろう。
そして見つかったら、あまりのうれしさに近所の人々を呼び集めて、「いっしょに喜んでください」と言わずにはいられないだろう。
 そうしてイエスは彼らの心に問うのです。自分のすぐ近くにいる取税人、遊女、罪人を、救われることのない者と切り捨てている、あなたよ。
しかしもしあなたの財産である羊が一匹でも失われたら、なりふりかまわず探し回るだろう。この「なりふりかまわず」こそが、神の愛なのだ、と。
あなたにとっては羊以下としてみなされ、罪人として切り捨てられている人々、神は彼らをかけがえのない者として愛しておられるのだよ、と。

3.
 パリサイ人や律法学者たちが信じ、教えていた神は、たとえ山々が揺れ動いていても決して動くことのない神でした。
常に天の御座にどっしりと腰掛け、そこから地上を見つめながら、律法を行う者は祝福し、律法を守らない者にはのろいを与える、不動の神。
しかしイエスがこのたとえ話で語られた、父なる神は彼らの神理解とは真逆でした。
ひとりの悪人を取り戻し、救うためには、御座から立ち上がり、探し回るお方です。それはパリサイ人にとって、あまりにも軽く、薄っぺらい神。
そしてその軽く、薄っぺらい神のイメージを強調するように、銀貨1枚をなくして、家じゅう死にもの狂いで探し回る女の人のたとえが語られます。
怒らないで聞いてほしいのですが、当時の社会において、女性は愚かで無知、恥知らずで粗野、と差別されていました。
銀貨10枚のうち1枚だけをなくして、あかりをつけて家を掃いて見つかるまで探し回り、見つかったら近所の女友だちを呼び集める。
パリサイ人は「だから女というのは・・・」と眉をひそめたでしょう。しかし一枚の銀貨を取り戻すために、体面や人の都合なんか構っちゃいられない。
そのなりふり構わぬ姿の中に、罪人を捜し求める神の熱心が込められています。

 このたとえ話は、パリサイ人や律法学者にとって、とうてい受け入れがたいものであったことは間違いありません。
律法を守らない罪人がひとり救われることのほうが、悔い改める必要のない九十九人のためよりも、天で喜びがあるだと?
それは、正しい者を祝福し、罪人をのろう、正義の神に対する侮辱である。パリサイ人たちは聞きながら拳を握りしめたかもしれません。
しかしイエスは、父なる神を、彼らが教えるような動かない神ではなく、ひとりの罪人の救いのためになりふり構わず探し回る方として語りました。
あなたがたが羊を100匹所有していて、そのうちの1匹が失われたならば、あなたがたはなりふり構わず探し回るだろう。
ましてや神が、失われた一人を取り戻すために、なりふり構わずに走り回ることに何の不思議があるだろうか。それがこのたとえの神髄です。
そしてこのふたつのたとえは、あの有名な放蕩息子のたとえに繋がっていきます。
そこにも父としての威厳をかなぐり捨てて、なりふり構わず探し回り、走り回る神の姿が描かれています。しかしそれは来週に回しましょう。
使徒パウロは、ピリピ教会にあてた手紙の中でこう記しています。「イエス・キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」。
「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」。それはまさに、私たちの罪の身代わりとなるために、なりふり構わずと言い換えることができます。
神は私たちをご自分のもとへと取り戻すために、なりふり構わず、というお方です。だから私たちはスマートさとか求めなくてもよいのです。
なりふり構わず、がむしゃらに、人から笑われ、嘲られても、喜びを心に抱き、感謝しつつ、今週も歩んでいきたいと願います。

posted by 近 at 17:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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