外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
当教会では、4月以降、聖餐式を行っておりません。もちろん衛生上の理由からです。
集会は人数制限をかけたうえで何度かに分けて行ってきましたが、聖餐に関しては再開を保留してきました。
先日の役員会にて、11月も聖餐式は自粛することを決めたのですが、いよいよその後は待降節が始まります。
せめて12月は聖餐式を行いたいという希望もあり、新潟のいくつかの教会の状況を聞いているところです。
すでに通常どおり行っているところもあれば、当教会のようにずっと自粛しているところも少なくありません。
個包装のクラッカーや紙パックのジュースを使ったり、海外のセルフ式カップを使っている教会もありました。
最後の商品に関しては、アメリカのキリスト教用品の通販サイト、CBDでは送料込みで単価30円といったところです。

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ただ「ウェハースが薄い」「ぶどう液がかき氷シロップ」「外観が安っぽい」といった使用者の声もあり、いまいち購入に躊躇していました。
しかし数か月ぶりに改めてCBDのサイトを覗いてみたら、それらの欠点をカバーしていると思われる新商品が入荷されていました。

単価は送料込みで約60円となり、従来の製品の倍くらいしますが、今までのものとは頭一つ飛び抜けた高級感があります。
かたちからはいるって大事ですよね。聖餐は「安かろう悪かろう」では困るのです。とはいえ、お味はどうでしょうか。
12月に実際の礼拝でこれを使うかどうかはまだ未定ですが、とりあえず少し取り寄せて試用レポートを挙げたいと思います。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』15章11-32節
1.
このたとえ話は「放蕩息子のたとえ」と言われますが、羊、銀貨に続く、失われたものを神が取り戻す三部作の最後にあたるものです。
この物語は、まず二人の息子のうち弟のほうが、父親にこう頼むところから始まります。「お父さん。財産のうち私がいただく分をください」。
現代であっても、もし私が自分の父にこんなことを言ったら、「お前、俺に早く死ねと言っているのか」とたいへん怒られるかもしれません。
ましてや当時の、絶対的な家父長制度であった社会では、まず考えられないことでした。しかしこの父親は、そのままあげちゃうのです。
息子はこうして得た金を手にして遠い国へと出て行きました。しかしもともと金銭感覚ゼロなので、あっというまに没落してしまいます。
豚のエサで空腹を満たしたいと思うまでに落ちぶれ、そこでようやく彼は我に返りました。そしてこうつぶやくのです。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。
それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」
一方この父親は、息子が家を出て行って以来、毎日、息子が今日は帰ってくるだろうか、と探しに行っていたことが行間からわかります。
というのは、この息子がまだ家から遠いのに父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした、とあるからです。
兄息子が、家に帰ってから騒がしいことに気づき、使用人に聞いて弟の帰還を知ったのとは、まるで対照的な姿です。
弟が帰ってくるのを予想せず、望んでもいなかった兄に対し、父親のほうは一日千秋の思いで、息子の帰還を待ち望んでいました。
これらの登場人物がいったい何を表しているのか、言うまでもないことですが、改めて説明を加えるならば、
父親は神、弟息子は取税人や遊女など悔い改めた罪人、そして兄息子はパリサイ人や律法学者を表しているわけです。
2.
このたとえ話は、先週の失われた羊のたとえ、失われた銀貨のたとえに続く、三部作のたとえ話のクライマックスにあたります。
そしてイエス様は三つのたとえ話に共通する教えとして、「ひとりの罪人が悔い改めるならば、天には大きな喜びがある」と語っておられます。
ところが、じつはこの三部作のどのたとえ話も、悔い改めがはっきりと書いていません。
いなくなった一匹の羊は、メエメエ、ゴメエーンと、羊なりに悔い改めたから、探してもらえた、というわけではありません。
女の人がなくしてしまった一枚の銀貨が、タンスの裏とかで「奥さん、ごめんなさい、もういなくなりません」とかぶつぶつ言っていたら、怖いですね。
そしてこの弟息子にしても、確かに我に返って、悔い改めてはいるのですが、どうもしっくりこない。
というのは、まるで台本を読んでいるかのように、「そしてこう言おう」と口にした言葉を、一言一句そのまま父親の前で繰り返しているからです。
「悔い改め」を伝えるのに、人間ではない羊や銀貨を題材にしたり、決まり切った言葉を繰り返しているような姿で描くのはなぜでしょうか。
じつはここの中にもパリサイ人に対するメッセージが込められています。彼らは罪を悔い改めない人に神が近づくことはない、と教えていました。
実際、旧約聖書の中には、いけにえをささげる民に対して、神様がいけにえよりもまず悔い改めを求めている、というところが確かにあります。
しかしパリサイ人の間違いは、神の豊かさを、自分たちの考えの中に閉じ込めてしまったところにあります。
神は罪人が悔い改めることを求めている、しかし悔い改めることさえできない者たちのために、神自ら近づいてくださる、それが恵みなのだ、と。
羊や銀貨が自分からは悔い改めることのできない者であっても、神は失われた者をご自分の手に取り戻すためになりふり構わず探されるお方。
放蕩息子が、悔い改めの言葉を用意して彼の故郷に戻っていったとき、父のほうからその言葉を待たずに走り寄って、抱きしめ、口づけする。
この息子が用意した言葉を並べて、「雇い人のひとりにしてください」と言おうとしたとき、父はその言葉を制して、使用人たちに命じました。
「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい」。父親は、息子の悔い改めを確認してから、走り寄って抱き、口づけしたのでしょうか。
いや、帰ってくるのが見えたからです。私の失われた息子がいまここにいる。走り寄らずにはいられない。その帰還を祝わずにいられるだろうか。
悔い改めたからその愛をいただけるのではありません。このその無条件の愛に触れたとき、どんな罪人も悔い改めずにはいられないのです。
3.
そしてこの神の愛がパリサイ人たちにも注がれている、いや、むしろ彼らは神から誰よりも愛されているということをイエスは語られました。
先ほど言ったように、この兄息子の姿は、パリサイ人や律法学者を指しています。そしてイエスは彼らにこう呼びかけておられます。
あなたがたも、もともとは弟が帰ってきたことを祝う宴に欠かすことのできない、主賓のひとりなのだ、と。
財産を食い潰し、父や自分の顔に泥を塗った弟に対して、この父親が自分にもしてくれなかった宴を開いたことに兄は怒って宴を拒みました。
その兄息子に対して、父はどう答えたでしょうか。彼らパリサイ人たちの理解によれば、神に口答えするなど決して許されないことです。
しかしこのたとえ話のなかで、父親、すなわち神は驚くべき行動に出るのです。「それで、父が出て来て、彼をなだめた」と。
そればかりではありません。父は兄息子にこう呼びかけています。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」。
兄息子は、あまりにも多くのものに支配されていました。この家を自分が切り盛りしてきたというプライド。
弟をえこひいきしているように見える父への怒り。何事もなかったかのように真ん中に座っている弟への敵意。
それらはまさに現実のパリサイ人や律法学者を縛っていたものでもありました。しかし彼ら、つまり兄息子に、父である神はこう言われるのです。
「わが子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」。だからこそ、思い出してほしい。
弟と一緒に汗を流して畑を耕した昔のことを。兄弟二人で荷車を引いて家路に着いたあの頃を。
いっしょのテーブルで食事を分け合ったかつての日々を。振り上げている拳をおろして、代わりにたったひとりの弟の手を握ってあげてくれ。
いなくなっていた弟が帰ってきた喜びを、どうかいっしょに分かち合ってくれ。おまえがいなければ、この祝宴は完成しない。
どうかこの喜びの祝宴に笑顔で加わってくれないか。
このたとえ話の最後を、イエスはあえて兄の返事を語らない未完の物語としました。それはパリサイ人たちの実際の行動によって完成されます。
残念ながら、パリサイ人や律法学者たちはこの後もイエスへの殺意に駆られ、十字架へと追いやっていきます。
しかしこの物語は、彼らだけでなく私たち自身にも語られ、そのラストシーンを埋めるように求められているものでもあります。
神はすべての人が救われることを願っておられます。そしてすべての人がイエスを信じ、この祝宴に加わるまで、説得をやめないお方です。
まさに、なりふり構わず、です。あなたがキリストを信じて救いを受け入れなければ、神の祝宴の真ん中には席がぽっかりと空いたままだからです。
なりふり構わぬ父の愛は、神のひとり子であるイエスがあなたの罪の身代わりとして十字架にかかってくださるところにまで繋がっています。
神の祝宴に招かれているすべての者よ。喜びましょう。喜びを取り戻しましょう。
救い主イエス・キリストを受け入れて、罪赦されて、神の子どもとされ、永遠に神とともに生きる祝福をいただきましょう。