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2020.10.25主日礼拝説教「神か、富か」(ルカ16:1-13)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 「鬼滅の刃」の大ヒットが社会現象となっておりますが、例によってまったく見ておりません
代わりに最近、就寝前に聖書の次に読んでいるのが手塚治虫の名作「ブラック・ジャック」。
いくつかの話は、小学生の頃にリアルタイムで読んでいましたが、最近読み直してみて新しい発見がありました。
blackjack.jpg
(第236話「されどいつわりの日々」より コピーライトマーク手塚治虫・手塚プロダクション・秋田書店)

じつは小学生の頃に読んだ記憶では、3コマ目の院長とブラック・ジャックのやりとりは、上のものとはまったく違っていて、こんな感じでした。
院長「うちの病院では最先端のCTスキャンを使っているんだ!
ブラック・ジャック「あんた、あの富士見病院がその最先端の機械を使っていたことくらいは知ってるだろう?
小学生にはいったい何のことを言っているのかわからなかったのですが、さすが小学生、言葉だけはその後もよく覚えていたのです。
大人になってから知ったのは、このやりとりが連載当時(1980年)に起こった「富士見産婦人科病院事件」を指していたということ。
この事件の詳細はリンク先で読めますが、結審したのは2004年、被害者にとってはじつに四半世紀にわたる戦いとなりました。
単行本に収録するにあたってセリフが変えられたのでしょうが、たかがマンガと侮るなかれ、社会を映す鏡でもあると改めて思わされます。
 ましてや教会で語られる説教はどうでしょうか。
かつて福音派では「説教で時事問題に触れたりするのは普遍性が失われる」と敬遠されていた時期がありました。
しかし信仰者が、その時代・世界の中でどのように考え、戦うべきかを指し示すのも説教の使命です。
その時代・世界の中で移り変わっていく事柄から目を背けず、そのうえで決して変わることのないものを提示する。
そのような説教を語っていきたいと願わされます。まずは喰わず嫌いの「鬼滅の刃」を受け入れることから始めるべきでしょうか。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』16章1-13節



1.
 「ワシントンと桜の木」という話をご存じでしょうか。
アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンが子どもの頃、斧の切れ味を試そうと、父が大事にしていた桜の木を切ってしまいました。
父親はまさか幼い息子が犯人とはつゆ知らず、怒り心頭、「誰だ、桜の木を切ったのは!」「お父さん、すみません、ボクがやりました」
「おお、ジョージ、お前は何と正直者なのだ」。ふつう怒られるところ、むしろほめられたというお話しです。
この話を真に受けて、同じようなことをやって怒られてしまったという人も多いのではないでしょうか。
 今日、イエス様が話された話は、ワシントンの桜の木以上に、私たちを混乱させます。なぜ主人は、この不正な管理人をほめたのでしょう。
しかしイエスのいろいろなたとえ話に出てくる「主人」が、常に神さまのことをたとえているわけではありません。
この主人も、この管理人も、この債務者たちも、すべてこの世に属している者であって、彼らはこの世の論理で考え、生きている者たちです。
だからこの主人は、たとえ不正な方法で自分の財産が損失を被ったとしても、感情を抜きにしてその賢い行動をほめたのです。
ここにあるのは誠実や真心ではありません。この不正な管理人は、解雇されても生き抜いていくために証文を書き換える。
債務者たちはそれが不正であると知りながらその話に乗っていく。それを知った主人も、ビジネスで生き残る術としてこの行動を評価する。
しかしこれらは神の国が私たちに求めている生き方とは違うはず。それでもなお、イエスがこの話を弟子たちに語られたのはなぜか。
この世の人々によって繰り広げられるできごとの中にある唯一の教訓、それは「終わりを知った者が、貪欲なまでの真剣さ」を教えるためです。

2.
 この管理人が、主人から会計報告を求められたのは、それを見て解雇するか、しないかを主人が決めるためではありません。
すでに解雇は確定しています。会計報告は、主人が次の人に仕事を引き継がせるために必要なものでした。
つまり、この管理人は自分がこの主人のもとではもはや管理人として生きていくことはできない、すでに終わっていると悟りました。
だったら、他の仕事で生きていけばいい。彼はそう考えなかった。土を掘る仕事はできない。物乞いもしたくない。
だから彼は、まだ自分の手にある借用証書を利用してでも、主人にさらに損失を与えてでも、管理人の仕事で生き残ることを選びました。
まさに「なりふり構わず」です。彼は生き残るために、まさになりふり構わず、主人の財産をさらに失わせてでも、生き残ることを選びました。
それは、この仕事を取り上げられてしまう、という終わりが見えているからこそ、彼は知恵を働かせて、行動しました。
こざかしい。確かにそうです。しかしイエスは、この不正な管理人の、生き残るために手段を選ばない姿を弟子たちに語ったのです。
マタイの福音書11章12節に、イエス自身が語られた、このような言葉があります。
「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」
バプテスマのヨハネは、「神の国が近づいた、私の後に来られる方こそキリストである、その方にふさわしい実を結びなさい」と語りました。
そして救いを求める者たちがこぞって神の国の扉を叩き、壁を打ちこわし、城壁によじ登ってでも、神の国に入ろうとしているのだ、と。
そのみことばと併せて、この不正な管理人の姿を通してイエスが語られているのは、救いに対する、貪欲なまでの情熱です。
確かに私たちは恵みによって救われました。人の情熱が救いをもたらすのではありません。
しかし「別に必要ないが、信じてやろう」ということでもないことは確かです。自分の持ち物すべてを引き換えにしても、この救いをいただきたい。
あなたはそのような思いで、あなたに近づいてくださった神に答えようとしているでしょうか。

3.
 イエスは、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」と言われました。
ここで「富」と訳されている言葉は、ギリシャ語でマモーナと言います。マモーナとは、人格を持った富、つまり富という名の偶像です。
富を支配できると思ってはなりません。富の本質をつかんでいると思っている者は、逆に富に心臓を掴まれていることをわきまえるべきです。
富は中立ではありません。人にとって悪しきものです。なぜなら、人は富を手に入れたとき、必ず心を富に支配されてしまうからです。
しかし富を悪から善へと変える方法はあります。自分のためにではなく、だれかのために富を使う、いやむしろだれかのために富を失うときです。
ここで、イエス様がこの不正な管理人のやり方を真似しなさいと言っているのではないことに注意しましょう
借用証の数字を書き換えることによって彼が得たのは友ではありません。不正と知っていてそれを共有した、ただの運命共同体です。
そのような腐れ縁をどんなに作っても、私たちを永遠の住まいに迎え入れることなどはできません。むしろ私たちはイエスを真似るべきです。
イエスはご自分に与えられた力、時間、そして命さえも、自分のためにではなく誰かのために用い続けました。
このイエスの足跡にならって、私たちもあらゆるものをだれかのために用いるならば、私たちはまことの友を得ます。
今日の招きのことばを思い出してください。私たちが地上の人生を終え、イエスの前に立ったとき、こんなやりとりがあると聖書は教えています。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、牢にいたときに慰めてくれたからです」。
しかしそのとき、私たちは何のことかわからず、こう答えるでしょう。
「主よ、いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか」。
するとイエスはこう言われます。「あなたがたが、わたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」。
終わりの日には、私たちがこれらの小さな友のためにどう人生を使ってきたかということが、永遠の住まいに入るための推薦状となるのです。

結.
 ある人はこう言うでしょう。いや、私はだいじょうぶです。富に支配されるほどたくさん持っていませんから。しかし主はこう言われています。
「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です」
富の力は、私たちがふだん見向きもしない一円玉一枚にさえ働いています。そして「忠実」「不忠実」は「信仰」「不信仰」とも訳せます。
信仰をもって、わずかな金額さえ神と人のために用いることを惜しまない者は、それを補って余りある霊的祝福をいただけます。
しかし神と人のためにわずかな金額さえ惜しむような人は、大金を持っていなくても、富の魔力にからめ取られています。
持っているものがどんなにわずかであっても、例外はありません。富を自分のために用いるか、それとも神と人のために用いるか。
富を自分の豊かな生活のために使うのか、それとも自分以上に必要を抱える、だれかを支えるために使うのか。
 人は、神と富、ふたりの主人に仕えることはできません。私たちは、だれもが自分の主人を選ばなければなりません。
神を主人として、不正の富を、神を喜ばせるために使うのか。それとも富を主人として、富を得るための手段として神を利用するのか。
求められている答えは言うまでもありません。神を主人とせよ。富を神の働きのために、その使い方に対しても信仰を働かせて生きよ。
すでに答えは出ていても、その答えを実行していくのは容易ではありません。富の誘惑は、それほどまでに強いのです。
だから目を閉じて、イエスが与えてくださった救いのすばらしさを味わいましょう。そこからすべてが始まるのですから。

posted by 近 at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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