外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
今、礼拝説教はルカ福音書の講解説教を行っておりますが、ルカを語るうえでどうしても避けることのできないのがこの一冊。
今から約30年前の1991年、「日本同盟基督教団百周年記念出版」として世に出されたものです。
ルカ福音書の全編を当時の正教師139人で分担して、ひとり約3000字程度の説教集となっています。
1991年の百周年記念大会のときにはまだ新米クリスチャンだった私は、この説教集によって育てられたと言っても過言ではありません。
そしてこのところ私が扱っているルカ15章以降は、ちょうど当時の新潟ブロックの先生方が書いています。
先週の箇所は、この豊栄の前任牧師である若月先生、そして来週の箇所は、私の母教会の長谷部先生が記しています。
これから礼拝説教で取り上げていく聖書箇所は18章のはじめまで、新潟の先生方が書いておられます。
30年前ですから、それらの先生方は今の私(49歳)よりも若いか、同世代という方がほとんどです。
当時は信徒であった自分が、いま当時の先生方よりも年上となり、同じ聖書箇所と取っ組み合っている。なんだか不思議な感覚です。
この30年で世の中も教会も変わりました。これからも変わっていくのでしょう。
しかし聖書のことばだけは変わりません。私たち牧師は、これからも粛々と語ってゆくのみです。
来年、同盟教団は130周年記念大会を開催する予定です。そこでもう一度、説教集という記念事業を行うのも面白いかもしれません。
新型コロナウイルスという未曾有の経験の中で私たちが拠っていくべきものは、やはりみことばしかないのですから。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』16章14-18節
1.
今日は11月1日ですが、昨日10月31日は、プロテスタント教会においては「宗教改革記念日」とされております。
今から約500年前のこと、ドイツにマルティン・ルターという修道僧がいました。彼は優秀な人で、大学で神学を教える教授でもありました。
彼が、自分が所属するカトリック教会の堕落した姿に対して95項目に渡る質問状を張り出した日、それが1517年10月31日のことでした。
95項目という膨大な質問状の中でルターが最も問題としたことは、教会が免罪符というものをドイツ全土で販売していたことに対してでした。
免罪符とは、これを買えば、洗礼を受けた後で犯したすべての罪が赦されて、天国へ行けるというお札のようなものです。
聖書では、イエスの十字架は、洗礼を受ける前も後も、あらゆる罪を赦すと教えていますが、当時はそれがうやむやにされていました。
罪の赦しを金でやりとりするとは何事か。しかも販売の目的は教会の借金返済のためだという。これは見過ごすわけにはいかない。
これがマルティン・ルターによる宗教改革の始まりでした。そしてそれをきっかけにプロテスタント教会が生まれ、私たちの教会もその一つです。
教会は人々を富の力から解放するはずですが、教会そのものが富に踊らされる。歴史を学ぶ者は、人の闇をのぞき込む覚悟が必要です。
聖書もそうです。最初から最後まで読んでみるとわかりますが、人間について、美しい部分よりも汚い部分のほうが取り上げられています。
今日の箇所も、イスラエルの宗教的リーダーであったパリサイ人が金銭を好んでいた、と身も蓋もないことが書かれてあります。
しかし聖書は真実を記します。このパリサイ人の姿は、私たちも含めた、あらゆる人間の姿です。
それでもなお、彼ら、いや私たちに向けられたイエスの言葉を耳で味わい、心に刻むならば、私たちは貪欲の奴隷から解放されるのです。
2.
聖書のことばに聞きましょう。14節、「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた」。
なぜ彼らはイエスをあざ笑っていたのでしょうか。それはイエスが、富は悪しきものである、とはっきりと語ったからです。
それはパリサイ人の旧約聖書の読み方ではあり得ないことでした。いや、パリサイ人だけでなく、あらゆるユダヤ人にとってそうでした。
彼らが信じていたことは、「富とは、良い行いに対する神の祝福である」ということです。実際に、旧約聖書に登場する人々を見よ。
アブラハム、イサク、ヤコブといったユダヤ人の祖先にあたる族長たち、ダビデやソロモンといった王族、また義人ヨブ。
多くの信仰者たちが、その信仰の報いとして、地上では多くの財産を得て、さらに天での祝福も約束されているではないか。
またモーセもこう語っている。もしあなたがたが神の与えた律法に従って生きるならば、台所のこね鉢に至るまであなたがたは祝福される、と。
ですからパリサイ人だけではなく、あらゆるユダヤ人は、この地上の人生で受ける富は、神の祝福であると考えていました。
金持ちはその信仰により祝福を特別にいただいている者。そして貧しい者はその不信仰によって祝福をいただけない、のろわれた者。
パリサイ人が金銭を愛したのも、どれだけ富を持っているかということが、より信仰的な人間かどうかのバロメーターであったからでした。
だからこそ、富が祝福であるという伝統的な教えを否定し、富を悪であると断罪したイエスを、彼らは腹の底から軽蔑したのです。
しかしイエスは、はっきりとこう語られました。15節、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」
ここで「尊ばれるもの」「忌み嫌われるもの」は人間を指している言葉ではありません。文法的に、人間ではない別の「何か」を表しています。
人々のあいだで尊ばれる「何か」。神の前では忌み嫌われる「何か」。それは何でしょうか。富です。あるいは、富を愛する本性です。
すべての人間は、たとえ口ではどう取り繕おうと、富に引きつけられます。「お金がすべてじゃない」と言いつつも、富の力にはあらがえません。
信仰を持っていれば、富も与えられる。パリサイ人が陥っていた、この誤った刷り込みに私たちは踊らされてはならないのです。
「信仰があれば富も与えられる」。そんな先入観をもって旧約聖書を読めば、神が約束する祝福は物質的、地上的な祝福に見えます。
でもそういう人が新約聖書でイエスが語られた視点、つまり、神の祝福とは消え去る物質ではなく、いつまでも残る、目に見えない祝福、
その視点をもって旧約聖書を読めば、地上の祝福のように語られていることは霊的祝福をさしていたのだ、ということに気づかされるのです。
3.
だから刷り込みを捨てなければなりません。パリサイ人が民衆にすり込み、イエスが否定した偽りの教えがいまも鎌首をもたげています。
彼らの教える律法は、本来の神のみこころとは反し、この世での賞賛や富、祝福を得るためのハウツー本になってしまっていました。
16節で、イエスはこう語られています。
「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。」
パリサイ人の都合良い律法解釈から福音によって目覚めた人々が、いま神の国に入るために、激しい情熱をもって押し寄せています。
確かに、救いを求める者はまさに扉を打ち壊すほどの情熱をもって、神の国の扉をたたきます。それは喜ばしいことのように思えます。
「しかし、律法の一角が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです」。人間の救いへの情熱が、救いを与えるのではありません。
パリサイ人が自分たちの都合のよいように変えてしまった律法、そのすべての正しい解釈が、イエス・キリストのうちにあります。
ただ情熱や感情の高ぶりだけを救いのよりどころとしてはならないのです。
私たちは聖書を通し、まことの律法を行わなければなりません。イエスのことばに聞き従うことが、まことの律法を行うことなのです。
旧約聖書の中には、イエスという言葉は出てこなくても、イエスが私たちに伝えようとしたことが確かに表されています。
新約聖書の中には、イエスがどのようなお方であるか、イエスご自身の口から、また弟子たちの筆から確かに語られています。
パリサイ人たちは、律法を行えと人々に命じていながら、じつは律法を自分たちの都合の良いように緩めていました。
その例として、結婚について語られています。結婚は、人間が人間を選ぶのではなく、神が二人の人間を引き合わせたものです。
神が二人を決して離れることがないように結び合わせたという真理を否定する者たちが、パリサイ人の中にも現れていました。
彼らは、たとえば料理をこがした、という大した理由でなくても、夫が望めば離婚できる、と教えるようになっていました。
だからイエスは、富について語っていた教えの中で、突然、結婚について語っています。
しかしそれは、どんなに小さなことでも、律法を歪めてはならないということ。そして律法のまことの意味は、イエスの中にある、ということです。
イエス様のみことばを心の中によく刻みつけましょう。あなたを生かすいのちのことばが、あなたのために、聖書の中にすでに記されています。
これからの一週間も、この聖書をそれぞれがよく味わいながら、歩んでいきたいと願います。