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2020.11.8主日礼拝説教「救いはみことばを聞くことから」(ルカ16:19-31)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 二週間前のブログ記事で、マンガ「ブラックジャック」のセリフが、子どもの頃に読んだ記憶と違っていることについて触れました。
ところがネットを探しても、それを裏付ける記事が見つかりません。自分の記憶が果たして正しいのか不安になりました。
雑誌に掲載されていたのがいつなのかはわかるのですが、40年前のものなのでヤフオクでも見つかりません。
また仮に見つかったとしても今では何千円もするものをこれだけのために購入するわけにもいきません。
 ところがさらにネットで情報を検索していると、十年前に出たある雑誌に「変更箇所を網羅したリスト」が掲載されているというのです。
その雑誌とは、レトロ商品の販売買い取りを専門に展開している「まんだらけZENBU」51号。
発行日は2011年6月なので、やれやれまたヤフオクかと思いきや、今でも普通に新品を定価で買えました。
表紙はアレですが、内容はなかなか面白かったです
 肝心のリストは見開き14ページで、全241話の変更箇所が豆粒みたいに小さな字で掲載されています。
さっそく問題の箇所があるかどうかを調べてみると、ありました。許可を得ていませんが、スキャンしたものをあげてみます。
163751_001.jpg
 院長のセリフも変更されたと思っていたのは私の記憶違いでしたが、ブラックジャックのセリフはほとんど記憶通りです。
(私の記憶)「あんた、あの富士見病院がその最先端の機械を使っていたことくらいは知ってるだろう?」
(実際)「おまえさん富士見産婦人科であの機械を使ってたことを知ってなさるんだろ?」
 これが秋田書店の「週刊少年チャンピオン」で掲載されていたのが1980年12月ですから、私が9才のときになります。
当時は少年サンデー・マガジン・チャンピオンは中学生以上、小学生はコロコロ・ボンボン・少年ジャンプという棲み分けがありました。
ですから「ブラック・ジャック」のこの話は、おそらく歯医者か床屋の待合室でたまたま読んだのだろうと思います。
しかし言葉の意味もわからない、たった一度限りのセリフが40年ぶりに思い出されるという今回の経験は、正直驚きました。

 いま、私たちの教会では、幼児や小学生が、大人に混じって礼拝に出席しています。
そして私の説教は大人にも難しいくらいなので、子どもたちにはまるでちんぷんかんぷんかもしれません。
しかしいま彼ら、彼女らの耳から入ってくるみことばは、私がそうであったように、何十年も心で保管され続けるのです。
わかりやすいお話しをする努力ももちろん必要ですが、みことばそのものの力に信頼するほうが重要です。
そしてひたすら語り続けること、また今は意味はわからなくても聞き続けること。それを忘れないでいきたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』16章19-31節



序.
 先週11月3日にアメリカ大統領選挙の投票が行われました。
普通は投票当日に結果がわかるそうですが、今回は新型コロナウイルスのために郵便投票が多く、結果はまだ動いていく可能性があります。
どちらが選ばれるかで、今後の経済や国際関係も大きく影響されるため、日本のメディアでも大きく報道されていました。
そのなかで、「大どんでん返しがあるかもしれない」というコメントが目立ちました。
「どんでん返し」。この言葉の意味を知らない方はまずいないでしょうが、なぜこのような名前がついているのかは、私も知りませんでした。
もともと歌舞伎から生まれた言葉で、舞台に置いてある衝立が後ろに倒れると、今度は裏底の絵が現れて、場面が切り替わる。
どんと倒れてでんと現れるのでどんでん返しとも、あるいは倒れるときに太鼓が叩かれて、どーん、でーんと音がするのでこう呼ばれているそうです。

1.
 今日の聖書箇所を、私は三つのポイントからお話しをさせていただきます。
まずひとつめは、私たちがこの地上で受け取った人生は、死んだ後に現れる新しい世界では、どんでん返しになる、ということです。
この貧しい人ラザロは、この世では最も不幸せな人でした。この地上で生きているあいだ、彼はだれからも認められず、必要とされていません。
彼が唯一必要とされていたのは、彼の全身のおできをなめ回す犬たちだけでした。
いや、犬たちにとっても、ラザロは必要な存在というよりは、人とは扱わず、あめ玉のようにもてあそんでいるだけだったのかもしれません。
やがてラザロは死にました。誰からも看取られることのない死であり、「葬られた」という言葉はありません。しかし神は見ておられました。
御使いたちが彼をアブラハムの懐に連れて行き、そして彼は地上では受け取ることのなかった安らぎをそこで手に入れました。
一方、金持ちも死にました。その葬儀は、きっと盛大なものであったに違いありません。しかし彼は次の瞬間には、よみで苦しんでいます。
 イエス様は、アブラハムがこの苦しみ金持ちに語った言葉を通して、この大どんでん返しの真理を次のように教えています。
25節、「子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。
しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある」と。
私たちがこの地上の人生で受け取ったものの反対のことが、次の新しいステージでは待っているのです。
そしてこの大どんでん返しは、もう一度逆転することはありません。逆転した者、逆転された者を永遠に隔てる大きな淵が存在しているからです。
この世で良いものを受けた者は、次には悪いものを受けます。この世で良いものを受け、次の世でまた良いものを受けるということはありません。
 しかしそれにあてはまらないように生きている人たちがいます。だれでしょうか。キリストを信じた者、クリスチャンがそうです。
ろくにお金を持っていないのに、不足を感じることはありません。病気を抱えているのに、健康な人間よりも生きる気力に満ちています。
自分の家庭の中にさえ問題を抱えているように見えるのに、他人の問題をほっとくことができずに自分のほうから問題を引き受けようとします。
それでも懲りることもなく、もっともっと、とまるで楽天的です。あえて皮肉っぽく語っていますが、尊敬をこめていることはわかっていただけるでしょう。なぜ信仰を持つとそのように生きることができるのか。それはすでにたましいの安息を得ているからです。
ラザロはアブラハムの懐に迎え入れられて、逆転の安息を得ました。しかしイエスを信じる者は、この世にあってすでにあの世を生きています。
クリスチャンは、すでに大どんでん返しを経験しています。信仰とは、この地上で人々が求める良いものを受け取ることではありません。
良いものは、この次の人生で神さまが用意してくださっています。しかし私たちはそれをすでに受け取っているかのように生きられるのです。

2.
 二つ目のポイントです。誤解を受けることを覚悟の上で語りますが、この話は、実際の天国と地獄を伝えるためのものではありません。
イエス様が嘘を語っているということでしょうか。もちろんそういうことではありません。
しかしイエス様がここで語られている、よみでの苦しみ、アブラハムの懐というのは、パリサイ人たちが想像する死後の世界についてなのです。
天国・地獄というのはこういう所だよということを私たちに正確に伝えるためではなく、パリサイ人の高ぶりと間違いを指摘するためのものなのです。
クリスチャンの方にはイジワルな質問になりますが、このイエス様のお話を聞いて、聖書の他の所が語ることとなんか違うな、と感じるかどうか。
それがある人は、最初から最後まで聖書をしっかりと読んでおり、最後の審判といった教理をよく理解しているというテストになるでしょう。
 この話のなかで、金持ちは死んだ後、よみで激しい炎に焼かれて苦しみます。これがパリサイ人の考えていた死後の世界です。
しかし聖書の至る所に証しされていることですが、私たち人間は、死んだあと、すぐにさばかれるのではありません。
あらゆる人間が同じようによみにくだり、やがてキリストの再臨とともに起こる最後の審判の日まで眠りにつきます。
この「よみ」、ヘブル語ではシェオル、ギリシャ語でハデスと言いますが、どういうところなのか、聖書ははっきりと語っておりません。
ただ断片的にわかるのは、闇に覆われた世界です。数え切れない人間がそこにいるはずなのにお互いを認識することができない、孤独の世界。
麻酔にかけられた者のように無感覚なまま、神に放置され、捨てられた世界。しかし神は、信仰者をそのよみに捨て置かれないと言われます。
すべてが闇と無感覚に包まれたよみにおいて、信仰者は神との交わりを与えられるだけでなく、同じ神を信じる者たちにも再会するでしょう。
 ただ、人は死んですぐに天国・地獄に行くわけではありません。死んですぐにお花畑に囲まれたとか火に焼かれて苦しむというのはありません。
それは幼い時から仏教や神道の影響を受けてきた私たちによる、死後の世界のイメージであって、聖書が語っていることとは異なるのです。
人がさばかれるのは、いつなのかは父なる神しか知りませんが、やがて必ず来る、イエス・キリストが地上に再臨されるときです。
そのとき、信者も不信者も関わりなく、死者がすべてよみがえります。そして生きている者たちも含め、あらゆる人が審判に立たされます。
すべての人間は、その行いに従って、永遠のいのちか、永遠の滅びかにさばかれます。しかしキリストの十字架を信じている者はさばかれません。
彼らは、用意されている新しい御国において、キリストとともに永遠に王となります。
しかし信じなかった者たちは、悪魔や悪霊、さらによみや死と一緒に炎の池へと投げ込まれ、永遠に苦しみ続ける、
それが、聖書がそれぞれの書を通して、全体として語っていることです。

3.
 イエスは、パリサイ人が考えている、誤った死後の世界をあえて語ることにより、彼らの高ぶりを砕こうとされました。
永遠の慰めは、アブラハムの懐にではなく、神の懐にあります。しかしこの話の中では、アブラハムや御使いは登場しても、神は出て来ません。
パリサイ人は、自分たちはアブラハムの子孫であると誇っていました。だからよみに放置されることはなく、神の国に入れる、と信じていました。
この金持ちは、パリサイ人の象徴です。金持ちはアブラハムを「父」と呼び、アブラハムもこの金持ちを「わが子よ」と呼びかけてくれます。
しかし、それだけです。アブラハムには彼を救う力はありません。パリサイ人が誇りとした、ユダヤ人の血は、いっさい人を救えないのです。
人を救えないのは、ユダヤ人としての血だけではありません。人が地上で手に入れる、富や名声、あるいは家族愛や徳でさえも救えません。
 お気づきでしょうか。この金持ちは、ある一点を除いては、決して悪人として描かれてはいない、ということを。
彼は炎で苦しんでいる中、ラザロの指先の水で舌を冷やしてほしいと願います。まさに焼け石に水ですが、謙遜さの現れとさえ言えるでしょう。
自分は助からなくても、せめて兄弟たちはこのようなところに来ることがないようにという家族愛を、彼は苦しみの中で忘れてはいません。
しかしたとえどんな愛や徳を持っていても、ただ一点の悪しきことが、すべての良きことを霞ませています。その一点とは何でしょうか。
「彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい」という言葉に対し、即座に「いいえ」と答える、律法に対する不遜、不忠実です。
 これが三つのポイントの最後にして、最大のものです。イエスがこの話を通して語ろうとしたことは、死後の世界ではありません。
律法に聞き、律法を行わなければ、救いはないのです。先週の説教で語った、イエスのことばを思い出してください。
「しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです」と。モーセと預言者、それは神のことばそのものを表しています。
私たちが人生をいかにして生きるべきか、その答えはすべて聖書にあります。みことばを信じ、みことばを行うならば、いのちがあります。
ラザロは貧しかったから救われたのではありません。金持ちは金持ちだったから救われなかったのではありません。
ラザロが、「金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた」という言葉は、金持ちがラザロに施しをしていなかったことの証明です。
旧約聖書は、貧しい者を助けよと随所で命じています。また律法の要約は「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛する」ことでした。
しかし彼は目の前にいる貧しい者を愛しませんでした。家族愛をよみで宣言しても、隣人愛を地上では行いませんでした。
 それは私たちも同じかもしれません。しかし私たち罪人が律法を行うことができないゆえに、イエスは代わりに律法を行ってくださいました。
このイエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちは律法を完成した者とみなされ、最後の審判においてもさばかれることはないのです。
このイエスを信じましょう。イエスが語られたみことばを心に刻みつけましょう。そしてみことばを行う者となりましょう。
イエスが私たちの身代わりとなり、いのちと引き換えにして与えてくださった救いの恵みをかみしめながら、歩んでいきたいと願います。

posted by 近 at 17:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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