外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
新型コロナウイルスのおかげで、クリスマスの諸集会も軒並み中止。せめてクリスマスらしさをということで燭台を新しくしました。

▲カメヤマローソクの直営ショップで税込み10450円でした。届いたらけっこうデカかったです。
ただ、キャンドルから出るススや、気化したロウが冷やされて床が滑りやすくなるといったことも頭を悩ませる今日この頃。
そこで今回、燭台に合わせて、LEDキャンドルも四本購入しました。やはりカメヤマローソクさんが取り扱っている製品です。
一本、税込み1980円なり。4本で約8000円。燭台と電池を含めると約2万円ちょっと。トホホ
でも!割高のように思えますが、何と単三電池2本で320時間連続点灯します。
初期費用はかかりますが、一回一回取り替えなければならないローソクに比べても経済的。
問題は、どれだけ本物のローソクの輝きに近づいているか、ということ。さっき撮影した動画をご覧ください。
さすがに近くで見るとLEDとわかるのですが、昼間でも遠くからだと気づかないほどです。
ただ、あくまでも人工の光なので、聖書的にはどうなのか、ということについては、また今度。
週報はこちらです。
聖書箇所 『エゼキエル書』16章1-8節
1.
いまはずいぶんと下火になりましたが、かつていろいろな市町村で「ミス何とか」という美人コンテストが行われていました。
昭和30年代頃の話と聞いておりますので、ずいぶんと昔のことになりますが、ミス青森というコンテストでKさんという女性が優勝しました。
そのコンテストにはKさんと同じ会社に勤める、彼女の親友も出場しており、彼女の方は惜しくも入賞を逃していました。
コンテストの翌日から会社ではKさんの噂で持ちきりになりました。最初はその友人もKさんを祝福していたそうです。
しかしねたみが昂じてノイローゼになり、なんとある日、会社のトイレで一緒になったKさんの顔めがけて、硫酸を浴びせたのです。
なんとか一命はとりとめたものの、Kさんの顔の半分の皮膚は焼けただれ、思わず目をそむけてしまうような醜い傷跡が残りました。
友人は逮捕され、数年間の懲役に服することになりましたが、人生を完全に狂わされてしまったKんの絶望と怒りは決して消えません。
一年間、警察病院に入院して治療することになった彼女は、その友人が刑務所から出てきたら必ず殺してやる、と思い詰めるようになりました。
しかしKさんの担当になった看護士さんがたいへんよくしてくださったそうです。そしてその看護士さんはクリスチャンでした。
入院して治療にあたる一年間、Kさんは日曜日になると外出許可をもらって、その看護士さんと一緒に、東京のF教会に通いました。
あの忌まわしい事件が起きてから一年が経ち、いよいよ退院という時期になり、Kさんは洗礼を受けたいと考えるようになりました。
当時、富士見町教会の牧師であったのがS先生という方でした。この先生がKさんにこう聞きました。
「Kさん、洗礼を受ける前には、基本的な信仰についていろいろと勉強するのですが、あなたに対しては、それはもう十分でしょう。
しかしひとつだけ、確認しておきたいと思います。あなたは、あの人のことを赦せますか。」
彼女の顔に硫酸をかけて、人生をめちゃくちゃにしてしまった、かつての親友のことです。
Kさんは、一瞬顔をゆがめましたが、やがて唇を震わせて「はい、赦します」と答えました。するとS牧師がさらにこう語りかけました。
「Kさん、よく言ってくださいました。今のあなたの告白は、神さまがあなたに与えてくださったものだと私は信じます。
そして、あなたがたったいま、お友だちの罪をはっきりと赦したように、イエスさまも、あなたの罪を赦してくださっているのですよ」。
そのとき、KさんはS牧師の言葉をにはっとさせられ、こう考えました。
「そうだ、たった今まで、私は自分のことを世界で一番あわれな者だと思っていた。そう思わなければ自分を保つことができなかったのだ。
だが私はあわれな者ではなく幸せな者だ。神さまが私を赦してくださったと知らなければ、一生かかっても彼女を赦すことはできなかっただろう」。
数年後、彼女の友人は刑を終え出所しました。しかし世間からの批判に苦しんだ家族や親戚からは関係を切られてしまいました。
Kさんはその友人を探し出し、一緒に生活しながら、この友人が看護士の免許を取るまで経済的にも援助したということです。
2.
今日の聖書箇所を通して、神は、反逆を繰り返すイスラエルの民をご自分がどれほど愛しておられるのかということを伝えています。
その愛は、イスラエルの民だけではなく、私たちすべての人間に向けられています。
神はどんな人であれ、わたしたち一人ひとりを愛しておられます。それは神こそが、ひとり一人の人間を造ってくださった方であるからです。
そして神は私たちひとり一人に向けて語りかけます。道ばたに捨てられた赤子のように、へその緒を垂れ下げて血だらけでもがいている姿。
それが私たちひとり一人の姿です。神は、その赤子が美しかったから目を留められたのではありません。道行く者がだれも目を背ける姿でした。
しかし神はこの赤子を抱きかかえ、そして語られたのです。「生きよ」と。叫ばれたのです。「生きよ」と。
神にとってはどれだけ美しい人であろうが、どれだけ幸せいっぱいに歩んでいる人であろうが、みんな血の中でもがいている赤子です。
そのままいけば、飢えと寒さでのたれ死にしてしまう、捨て子です。
神は何のために私たちに目を留めてくださったのでしょうか。神はなぜ私たちを拾い上げてくださったのでしょうか。
神は、私たちに与えたいと願っておられますのです。それは目に見えないがゆえに、自尊心で目がふさがれてしまっているときにはわかりません。
しかし私たちが人生につまずき、夢が壊れ、自分を支えていた誇りが打ち砕かれてしまったように思えるとき、逆にそれが見えてきます。
それは罪が完全に赦された確信であり、永遠のいのちであり、神の子とされる喜びであり、決して奪い取られることのない平安です。
神の子であるイエス・キリストがご自分のいのちをかけて、十字架の上であなたの罪を身代わりになって引き受けてくださいました。
イエスがいのちを捨てて与えてくださった永遠のいのちを信じる者は、過去、現在、未来、すべてにおいて揺るぐことがありません。
過去に受けた傷を忘れられない人。現在の生活に不安を感じずにはいられない人。将来に希望を持つことができない人。
しかし神は今日もあなたに呼びかけるのです。「生きよ」。このイエス・キリストがあなたの身代わりとなったことを信じ、「生きよ」と。
この「生きよ」という呼びかけを受け止めるために、私たちは自分が丸裸であることに気づかなければなりません。
これまでの人生で手にいれてきたもの、それはやがて私たちに用意されている王冠に比べれば、丸裸に等しいものです。
世の人々は、やがて朽ち果ててしまうものにいのちをかけ、愛情を注ぎます。しかしこの一年で私たちは気づいたのではないでしょうか。
そのようなものは、やがて崩れ、壊れ、押し流されてしまうようなものにすぎないのだと。
私たちは与えられた人生を朽ち果てるもののために費やすのではなく、いつまでも残るもののために生きるべきなのです。
3.
冒頭で紹介したKさんは、ミスコンテストで優勝するほどの美しい容姿を持っていた女性でした。
ミスコンで優勝するためには外見だけでなく、内面の美しさも必要です。そして実際に彼女はそれまでの人生の中で内面も磨いてきました。
しかし磨いてきたはずの内側は、外側の美しさが壊れてしまっただけで生きる価値がないと考え、絶望してしまう、頼りないものにすぎなかった。
そのことにKさんは気づきました。それを気づかせてくれたのは、友人から硫酸をかけられるという出来事でした。
しかし不幸としか言いようのない、その出来事を通して、Kさんはいつも変わることなく彼女を愛してくださる神さまを信じることができたのです。
私たちは裸でこの世に生まれ、裸でこの世から出て行きます。この地上の生活が終わるときには何も持っていくことができません。
ですから、自分が裸であり、血の中にもがいていた赤子であるのだと認めるところから始めましょう。
何もできない、無力な赤子。それでよいのです。しかし神の手に自分をあずけるときに、私たちは神さまによって立ち上がらせていただけるのです。
「生きよ」。神はあなたに向かって叫びます。「生きよ」。ただイエス・キリストの十字架だけが、あなたを生かすことができます。
一人ひとりが、このイエス・キリストとともに人生を歩んでまいりましょう。