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2020.12.27主日礼拝説教「感謝せずにはいられない」(ルカ17:11-19)
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序.
まず12節の前半をもう一度お読みします。「ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。
「ある村に入ると」とありますが、実際には「ある村に入ろうとしたら」と訳すべきでしょう。
なぜならツァラアトに冒された人は、自分の町や村からも追い出されて、外側に隔離されて暮らさなければならなかったからです。
ツァラアトという病気は、別の翻訳では「重い皮膚病」と訳されていますが、実際にはただ皮膚だけが冒されるものではなかったようです。
それが正確にはどんな病気であったのか、今ではわかりませんが、少なくともそれにかかった人は社会から締め出される、恐ろしい病でした。
同じ村の人々と一緒に住むことも許されず、「私は汚れている、汚れている」と叫びながら、生きていかなければなりませんでした。
このツァラアトに冒された10人が、遠く離れた所に立ち、声を張り上げてイエスに叫んだのも、そんな厳しいきまりがあったからです。
1.
しかしどんな病気も、それは神が与えるのろいではありません。
どんな重い病気にかかったとしても、これは私を成長させるための賜物なのだと信仰をもって受け止めれば、それはその人を生かします。
逆に、命を奪うには至らない病であったとしても、それすら神ののろいのように考えるならば、その人の心は曇り、からだは力を失います。
彼ら十人にとってはどうだったのでしょうか。彼らはすでにイエスに出会う前から、ひとつの幸いを受け取っていました。
それは、彼らの中にサマリヤ人が含まれていた、ということです。通常、ユダヤ人とサマリヤ人は憎み合い、言葉をかけることさえもしませんでした。
しかし彼らは、同じツァラアトを抱えていたがゆえに、疎外された痛みを共に担い、わずかな食事を分け合っていたのです。
この十人はツァラアトを通して、もともとユダヤ人とサマリヤ人の間にあった対立から解放されていました。
信仰は忍耐を生みだし、忍耐は希望を生み出します。彼らは本物の希望を、このツァラアトという苦しみを通して、養われていました。
「希望は目に見えない」。これはサン・テグジュペリの名作「星の王子さま」の登場人物のセリフですが、彼らにぴったり当てはまります。
彼ら十人はイエス様にあわれみを求めました。イエス様は彼らから遠く離れたまま、「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と言われました。しかし14節の最後には「行く途中できよめられた」と書いてあります。つまり、このとき、彼らはまだきよめられていなかったのです。
しかし彼らは、自分たちの身体に起こる、目に見える変化によって行動したのではありません。
からだには何のきよめられた兆しも起きていなくても、ただイエス・キリストのみことばに、神が与えたもうた約束にだけ、信頼したのです。
これが信仰です。目に見える希望や保証があるから動くのは、信仰ではありません。
信仰とは、みことばを通して与えられる約束を、ひたすら信じる、信じ通すことです。
彼らは、まだきよめられていないからだで、しかしイエス様が行きなさいと言われた祭司のところへ向かいました。
そしてその道の途中で、彼らはたしかにきよめられたのです。
2.
しかし今日の物語の本当のテーマは、ここから始まります。
確かに、彼らの信仰はすばらしい信仰でした。この10人みなが、その信仰によって、ツァラアトからきよめられました。
しかし救われる信仰は持っていませんでした。救われたのは、イエス様のもとに戻ってきた、たった一人のサマリヤ人だけだったのです。
イエス様は三年半の公生涯のなかで、数え切れないほどの病人を直し、悪霊につかれたたくさんの人々から悪い霊を追い出しました。
しかし三年半の後、イエス様の十字架のもとに立っていたのはわずかな者たちだけでした。
イエス様がよみがえって、天に上って行かれた後でも、エルサレムの弟子たちは120人程度でした。
三年半のあいだに、病気をいやされ、悪霊を追い出され、食べ物を与えられていた人々は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
ここに聖書は、厳しい事実を私たちに突きつけるのです。
病がいやされ、悪霊から解放され、パンを与えられても、救われる者はその中のごくわずかであり、ほとんどの人は恵みを忘れてしまいます。
彼らツァラアトからきよめられた十人のうち、イエスのもとに戻ってきたのはわずか一人のサマリヤ人だけでした。
彼もほかの九人と同じように、祭司のもとへからだを見せにいく道の途中で、きよめられました。
それは彼ら自身にもはっきりわかる、変化でした。このサマリア人も、他の九人とともに、祭司のもとにそのまま向かうこともできたでしょう。
だって、イエス様は祭司に自分の身体を見せなさい、と言われたのだから、そのまま祭司のもとへ行っても、何もまちがっていません。
しかしこのサマリヤ人の中には、きよめられた喜びだけではなく、内側から爆発するような衝動が起きていました。
それは、自分をきよめてくれた神を、大声でほめたたえたくてたまらない、という思いでした。
たしかに、祭司のところに行って、きよめられたからだを見せなさい、と確かにイエス様は言われた。
だが、それでよいのだろうか。いや、それだけではとうてい自分を収められそうにない、あふれる情熱が彼の中に生まれていました。
彼は、イエス様のもとにとって返し、ひれ伏して感謝をささげました。救いとは、この燃えさかるような喜びと感謝が伴います。
3.
救いには喜びが伴います。感謝が溢れます。しかしそれは自分を責めたり疑ったりするためのものではありません。
喜びと感謝がなければ救われていないのだということではなく、救いという恵みの中には、必ずそれが含まれている、隠されているのです。
私たちはみことばを信じたことによって救われました。ですからいま喜びと感謝が欠けていても、だから救われていないということはありません。
しかし、なぜいま、救われている私の中に、神に叫ばずにはいられないほどの喜びと感謝が欠けているのだろうか、と問いかける人がいたならば、
それはあなたが今日聞いたこのみことばを通して、あなた自身の心の中に聖霊が語りかけておられることの証しです。
そして聖霊は、私たちの心の中を探ってくださいます。もしかしたら、感情を口にすることなど恥ずかしい、というプライドがあるかもしれません。
救われても、自分は変わることなどできないというあきらめ、あるいは私はこのままでよいという割り切りもあるかもしれません。
私はこれだけ神さまのために、教会のために、がんばっている、だが十分に評価されていない、という思いもまた感謝をそぎ落とします。
イエス様は言われました。
「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか」。
まことに、人は問題が解決されれば、苦しみの中で研ぎ澄まされた良きものも、すべて忘れ、失ってしまう、弱い生き物です。
それは、ユダヤ人だけでなく、クリスチャンでさえ例外ではありません。
救いや恵みという言葉に慣れてしまい、かえってわからなくなることさえもあるのです。
神が、罪人の私をあわれみ、身代わりになって死んでくださったこと。そしてそれを信じた私を、決して見捨てないと約束してくださったこと。
改めて救い、恵みをかみしめていくときに、私たちの中には、必ず救いの結ぶ実である、喜び、感謝が溢れてくることでしょう。
それは今すぐではないかもしれません。そして今すぐでなくても構いません。しかし、救いはいつかそのような実を結ぶことは忘れないでください。
今年も、神の恵みの中で守られて歩んできました。喜びと感謝が、私たちの中で燃え立たせられて行きますように。
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