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2021.1.3主日礼拝説教「時代に捨てられる覚悟」(ルカ17:20-37)


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1.
 今日の聖書箇所は、特徴のある組み立てになっています。はじめと終わりに注目してください。
最初のところで、パリサイ人が神の国について「いつ来るのですか」とイエス様に尋ねるところから始まり、それにイエス様が答えられる。
そして終わりのほうでは、今度は弟子たちが神の国は「どこで起こるのですか」と質問し、それにイエス様が答えられる。
みなさんは「神の国」という言葉から、何を連想しますか。光輝く天国でしょうか。救われた者の心に生まれる、神の平安でしょうか。
どちらも間違いではありません。しかし正しい答えでもありません。
神の国は、いまの罪の時代の中でも、信じた者たちの中に生まれているもの。そして静かに成長を続け、やがて完全に現れるもの。
神の国は、信者の心の内側にある目の見えないものであるとと同時に、いまは見えなくてもやがて万人に見える形で世に現れるもの。
そして神の国は、ハゲタカが腐肉に集まる光景に重ねられた、あらゆる罪のさばき、それに先立つ苦しみと争いを経て、現れるもの。
 イエス様は、「神の国は、目に見える形で来るものではない」と言われました。
ところがその一方で「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にある」とも言われています。
見えないものなのに、見なさい。肉眼ではなく心の目で見るのかと思えば、それは稲妻のように、すべての人に明らかに見えるものである、と。
考えれば考えるほど、わからなくなる。それが神の国だ、と言うことさえできるかもしれません。
しかし大事なことは、神の国の到来について、「いつ」「どこに」「どのようにして」、そんなことに目を留めるのはやめなさい、ということなのです。
神の国は、人間の努力や、社会や科学の発達によって生まれるものではありません。ただ父なる神のご計画により、現れるものなのです。


パリサイ人たちは「いつ神の国は来るのか」と尋ねました。それに対してイエス様は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言いました。
イエス様のおこころはこうです。「いつ」と必死で探している、その目線の外側に、神の国はすでに来ているのだ。
パリサイ人よ、あなたがたが罪人として見下している人々のなかに、すでに神の国は来ている。しかしあなたがたはそれを見ようとしない。
だが、いまは信じた者の心に起きている小さな変化にすぎなくても、それはやがてこの世界を飲み込むほどの大きな流れとなるだろう。
だからイエス様は弟子たちにもこう語られました。「あそこだ」とか「ここだ」と誰かが言っても、言ってはいけない、追いかけてはいけない。
神の国は、自分こそ特別な霊的知識を持っていると高ぶっている者たちの中にはない。
それは自分自身の弱さと小ささを自覚する、あらゆる人々の中にある。そして静かに、しかし確実に成長を続けているのだ。
しかし神の国が生みだされ、成長するその過程には、苦難が満ちあふれている。むしろあなたがたはそこに目を向けて、耐え忍びなさい、と。

2.
 私たちは神の国をどのような態度で迎えるべきなのでしょうか。それは「いつ」「どこで」「どのように」といったことはすべて神にお任せすること。
それは知らなくてもよいこと、知るべきではないことです。私たちは神の忠実なしもべとして、日々与えられたわざに励んでいくことが大切です。
神の国は、イエス様が宣教を開始した日から始まりました。そして信じる者の心の中、また生活のわざを通して常に成長を続けています。
天に昇られたイエスは、やがて稲妻がひらめき、世界じゅうの人がわかるかたちで地上に戻ってこられます。
それが「人の子の日」と呼ばれる、イエスの再臨の日です。それは世界じゅうに死人とはげたかが群がるような苦難の後にやってきます。
私たち教会、クリスチャンはその苦難に備えなければなりません。ここで注目していただきたいみことばは、25節です。
「しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。」
人の子はイエス・キリストです。では「この時代」とはどの時代でしょうか。それは決して二千年前のイエスが生きた時代のことではないのです。
何千年も前のノアの時代、ロトの時代、そして今の私たちが生きる現代、さらに未来へ、あらゆる時代を指しているのです。
ノアの時代も、ロトの時代も、イエスの時代も、初代教会の時代、中世の時代、近代、現代、そして未来、あらゆる時代において、
人々はいつもみことばを聞こうとしません。神から警告の言葉を聞いているのに信じようとせず、この世の事柄のことしか考えていません。
食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたり、めとったり嫁いだり。もちろん、生きること、子孫を残すことは大事なことです。
しかしこの世界、この人生が、神の忍耐の中で支えられていることを忘れてしまうなら、ロトの妻のように財産のゆえにいのちを失うのです。
 クリスチャンが世の人々の生き方にならい、その考え方に合わせ、人々に愛されることを願うならば、それはキリストが語ったことの真逆です。
この時代の人々に捨てられることを恐れてはならないのです。時代に捨てられてこそ、本当にキリストの弟子となります。
この世の価値観と、聖書の価値観はまったく対立することを知っているはずです。だからこそ私たちは救われなければならなかったのです。
イエスは言われました。33節、「自分のいのちを救おうと務める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」。
時代に捨てられることを覚悟のうえで、たとえどれだけ人々が聞こうとしなくても、福音を語り続ける。
たとえそれによってこの世の財産、人間関係、いのちさえも失ったとしても、私たちが召されたのは、みことばを伝えることです。
神だけを主人として生きていこうとすることは、時代に捨てられることなのだということを、ノアやロト、またイエス様の姿を教えています。

3.
 主のさばきの日は、ノアの時代のように、ロトの時代のように、人々が平和だ、安全だと言っている時代に突然やってきます。
そのとき、いのちを得ることができるのはどのような人々でしょうか。クリスチャンという肩書きや洗礼証明書そのものは何の力もありません。
自分の罪深さを心から悔い改めて、ただイエス・キリストだけを救い主と信じ、この方と世の栄光を天秤にかけるようなことをしない者たちです。
私たちは、主のさばきの日がいつ来るか、知る必要はありません。知ったところで、やるべきことは変わりません。
イエス・キリストのしもべとして、礼拝をささげ、みことば、祈り、交わりを大切にし、人々にキリストを証ししていくことがそれです。
それによってたとえ時代からは捨てられたとしても、それでもなお人々の罪を語り、その罪からの救いを語っていかなければなりません。
この罪を認め、取り除かれた者だけがいのちを得ることができるのだ、ということを混ぜ物なしで、伝えていかなければなりません。
クリスチャンが罪を語っても、人々は聞かないかもしれません。ノアの時代の人々や、ロトの時代の人々もそうでした。
しかしだからといって私たちが罪に対して沈黙を続ければ、彼らは終わりの日に、なぜ語ってくれなかったのか、と責めるでしょう。
しかし罪を語ることでほとんどの友が離れ、時代から捨てられたとしても、それでも一人でも救われるならば、その人はこの世界よりも重いのです。
イエス様の言葉に聞きましょう。「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」
あらゆる人が、いのちを得るのと命を失うのに二分される。
そしてその日には人々のなきがらが世界じゅうにあふれ、ハゲタカがその腐肉をつつくというおぞましい光景を、イエスはあえて語られました。
その日が来る前に、悔い改めて、いのちを得るために。そしてひとりでも多くの人に、罪を悔い改めていのちを得よと語るために。
これからの一年間も、イエス・キリストの弟子として、救いを宣べ伝えていく働きに臨んでいく教会として歩みたいと願います。

posted by 近 at 18:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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