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(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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2021.1.10主日礼拝説教「すべてを見通すイエスの目」(ルカ22:1-13)
週報のPDF版はこちらです
1.
いま、私たちの生きている社会は、先が見えない混乱の中にあります。政策は二転三転し、住む所や食べる者を失った人々も多くいます。
しかし私たち、神を信じる者たちの励ましは、この世界がどんな混乱の中にあっても、イエス様にはすべてが見えているということです。
1節をご覧ください。過越の祭りが近づいていました。イエス・キリストの地上での最後の一週間が始まろうとしています。
イエス様の時代からさらに1300年ほど前、ユダヤ人はエジプト人の奴隷となっていましたが、モーセに率いられて、エジプトから解放されました。
過越の祭りは、その解放を記念する国民的な祭りであり、わずか一キロ四方の小さな都エルサレムに、なんと200万人が集まります。
イエス様はローマ帝国からの解放者として群衆に期待されていましたので、うかつに群衆の前で捕らえるとたいへんな騒ぎになります。
そこで祭司長たちは、ねたみからイエスを殺そうとしていたにもかかわらず、この祭りのあいだはイエスには手を出さないことを決めていました。
そこに、イスカリオテのユダが、イエスを売り渡す話を持ってきたのです。彼らは喜んで、銀貨30枚を報酬として渡すと約束しました。
しかし私たちは、これらのできごとの本質を見失ってはなりません。
もともと祭司長、律法学者たちにも、これからどうなるかは見えていなかったのです。しかしイエス様には、すべてが見えていました。
ユダにサタンが入ってイエスを売り渡すことも、ご自分がこの過越の祭りのあいだに十字架にかかることも、イエス様にはすべてが見えていました。
祭司長や、ユダには、もともと先のことは見えていませんでした。彼らはその場の流れに乗っかって、ことを進めているだけです。
しかしイエス様にはすべてが見えていました。そして十字架への苦しみの道を選び取り、裏切られる悲しみさえも乗り越えていかれたのです。
じつはこれこそ、私たちにとって、本当の平安です。たとえこれから、私たちにどれだけ苦しみが待っていても、神にはすべてが見えています。
だから苦しみの中でも、私たちには平安があります。なぜならば、イエス・キリストだけが、これからのすべてのことを見通しておられるからです。
イエスに従う道は、この世ではむしろ失うもののほうが多いかもしれません。しかしその分、天には見えない宝が積まれていきます。
この世で宝を積むことと、天で宝を積むことのどちらを願いますか。両方とも受け取ることはできません。どちらかを選ぶのです。
願わくは、一人でも多くのクリスチャンが、この世で苦しみを受けてでも天に宝を積むことを選び取る信仰を与えられますように。
2.
ユダはイエスの十二弟子のひとりであるにもかかわらず、なぜイエスを裏切ったのでしょうか。多くの人々がそこに想像力を働かせます。
しかし3節をご覧ください。ルカは、わざと「弟子」という言葉を避けて、「十二人の一人」と記しています。
ユダはイエス自身によって、あの十二人のひとりに選ばれてはいましたが、決して弟子ではない。そんな響きさえ感じられる、言い回しです。
ユダは弟子のひとりであったが堕落してしまったのではありません。彼ははじめからイエスを信じていなかったのです。
でも、ちょっと待ってください。イエス様は確かにユダも十二人のひとりとして選ばれたのではなかったでしょうか。
それでも弟子ではないのでしょうか。そうです。彼は十二弟子の一人に名を挙げられていながら、弟子ではありませんでした。
他の弟子と同じように、いやしの賜物を与えられ、二人組になって宣教旅行にも従事しました。しかし弟子ではありませんでした。
なぜサタンはユダの中に入ることができたのでしょうか。その理由は単純です。彼がもともと弟子ではなかったからです。
イエスを救い主として信じた者だけが弟子になることができます。イエスの弟子は、永遠に神のものとされた者たちです。
だからサタンは、決して弟子の中に入ることはできません。サタンはイエスの弟子を誘惑することはできても、内側に入ることはできないのです。
銀貨30枚は、当時の労働者の一ヶ月分の収入にあたります。またこれは、奴隷一人分の値段でもあります。日本円に直すと、約20万円。
ユダにとって、イエス様のいのちの価値はそれだけでした。たったそれだけの金額のために、彼は永遠のいのちへの門を自らたたき壊したのです。
ユダにあったのは、金銭に対する執着だけです。金銭欲が、彼の中にサタンが入ることを許し、滅びの穴へ飲み込まれていったのです。
クリスチャンも気をつけなければユダのようになってしまう、というのは的外れな適用です。
ユダのような生き方から永遠に訣別できたのがクリスチャン、すなわちイエスの弟子です。
ユダのようになってしまう、ではなくて、ユダのような終わり方から、ただ神の恵みを受け入れたことでとこしえに解放されたのが私たちです。
キリストの十字架によって贖われた者の中に、サタンは決して入ることができません。もし入れたら、救いそのものが無意味です。
今もユダのような欲望のとりこになっている、まだイエス・キリストを信じていない、数え切れない人々がいます。
私たちはイエス様の弟子として、人々をユダのような終わり方にさせないために、福音を伝えていくということを改めて心に刻みましょう。
3.
他の十一人の弟子たちは、だれ一人としてユダの裏切りに気づいていませんでした。
ユダは、外側はうまく偽善によって隠し、人々からは十二弟子のひとりとして知られていました。
弟子のように見えて弟子ではなかったユダの姿と対照的に、弟子として知られていなくても、弟子として主にささげていた人が最後に登場します。それは、過越の食事のために、客間どころか、二階の大広間をイエス様に提供することを決めていた、この主人です。
その大広間はイエスと十二弟子が最後の過越を過ごすには十分すぎる場所でした。この主人もまた、無名の弟子のひとりであったのです。
この最後のできごとは、イエス様が、ペテロやヨハネの知らないあいだに、この主人と連絡をとって用意させていたということなのでしょうか。
そうではないでしょう。この主人は、主であるイエス・キリストのために、自分に用意できるものをささげた、まことの弟子のひとりだったのです。
「主がお入り用なのです」という言葉を聞き、ロバの子を提供した弟子や、高価なナルドの油をイエス様の頭に注いだ女性と同じです。
とりわけこの主人が大広間を用意していた行為は、もしかしたら無駄になるかもしれないことでした。しかしイエス様はすべてを見ておられます。
当時、水がめを運ぶのは女性の仕事であり、男性が水がめを運ぶのは極めて珍しいことでした。
しかしペテロとヨハネが町へ出て行ったちょうどそのタイミングで、主のことばのとおりに水がめを運ぶ男性が見つかったのはまぎれもなく奇跡です。
主のために備えるものは、一切が無駄になることはありません。私たちが弟子として仕える一切のことは、神の前におぼえられています。
イエスが向かって行かれる道は、過酷な十字架への道でした。この大広間の主人も、そのことははっきりとわからなかったことでしょう。
それでもイエスのために何かをささげるならば、イエス様はそれを見ておられ、ご自分の働きのために用いてくださるのです。
イエス様は、すべてを見通しておられます。だからこそ、私たちには平安があります。主のために失うならば、それは主のために与えたものです。
ご自分のいのちさえも十字架でささげてくださったイエス様をおぼえながら、一人ひとりが自分の生活を主にゆだねて歩んでまいりましょう。
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