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2021.1.17主日礼拝説教「最後の晩餐、最初の聖餐」(ルカ22:14-23)


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1.
 もし自分のいのちが残り一日しかないとわかったら、私たちはその24時間をだれと過ごすでしょうか。どんな言葉を残そうとするでしょうか。
まさにイエス様は、いまご自分が、この地上で十字架にかかられて死なれるまで、最後の24時間を切ったことを知っておられました。
十二弟子のひとりに裏切られ、違法の裁判で死刑に定められ、朝には十字架にかけられることもすべて知っておられました。
もう一度同じことを質問しますが、もしあなたの人生の残り時間があと24時間と知っていたら、何をしようと思うでしょうか。
イエス様にとって、その24時間で必ず成し遂げるべきこと、それは弟子たちと一緒に過越の食事をすることでした。15節をお読みします。
「イエスは彼らに言われた。わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」
 「切に願っていました」は、これ以前の聞き慣れた翻訳では「どんなに望んでいたことか」となっており、そちらのほうがしっくり来ます。
しかしここでイエス様が言う「願っていた」とか「望んでいた」という言葉は、聖書ではもっぱら悪い意味、情欲とか執念を指している言葉です。
つまり、それほどまでに、なりふりかまわず。まるでアルコール依存症の人がアルコールを泣きながら、暴れながら求めずには得られないかのように、
イエス様は弟子たちに対して、あなたがたと過越の食事をこうして一緒にすることを私はどれだけ願っていただろうか、と語っておられるのです。
 イエス様は、ご自分の33年の人生でやり残したことがあるとすれば、あなたがたと最後の過越の食事を迎えることだ、と弟子に伝えました。
それほどまでに、イエス様にとって弟子たちはただの弟子にとどまらず、愛すべき友であり、その友と過ごす、この過越の食事は特別のものでした。
今もイエス様は私たち、このイエス・キリストを信じて弟子になった者たちに、まるで叫ぶように、語りかけておられるのです。
わたしは苦しみを受ける前に、あなたといっしょに、この過越の食事を過ごしたいのだ。わたしを受け入れて、ともに味わってほしい、と。
しかしイエス様が使われている言葉は「あなた」ではなく「あなたがた」です。
もしあなたがいま、自分は一人だと感じ、自分は交わりから切り離されていると思う状況にあるならば、なおさらのこと、
イエス様は、「あなた」だけではなく、「あなたがた」全員と一緒に、私は過越の食事を守りたいのだ、と語りかけておられるのです。

2.
 先週の礼拝説教で、過越の祭りのときには、わずか1キロ四方のエルサレムの町に200万人のユダヤ人が殺到する、と話しました。
しかし200万人が大通りで花火を上げたり、踊り回ったり、というのが過越祭りではなく、むしろ家庭で静かに礼拝と食事を楽しむものでした。
過越の祭りのときには、各家庭には苦菜、種を入れないパン、子羊を焼いたもの、そして四杯のぶどう酒が用意されました。
ぶどう酒は、子どもでも飲めるように水を混ぜて薄めます。まず父親が感謝の祈りをささげてから一杯目を家族全員で飲み干す。
次に苦しみを象徴する苦菜を食し、詩篇を何章か朗読する。そして二杯目を飲み干したあと、食事をゆっくりと楽しむ。
食事の後、感謝の祈りをささげ、三杯目を飲み干す。それからまた詩篇を何章も朗読し、四杯目を飲み干す。
今日の聖書の中に、何度も感謝の祈りや杯をくりかえし手に取る場面があるのは、こういった過越の食事の手順が現れています。
 しかしじつはイエス様が本当に願っていたのは、過越の食事ではありません。イエス様の言葉がそれを現しています。
16節をご覧ください。「あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません」。
たしかにキリストの地上の生涯は、残り24時間を切っていました。しかしキリストは、永遠のいのちを持っておられるお方です。
「わたしが過越の食事をすることは決してありません」。それはもう死んじゃうから、ではなく、わたしが過越を完成させるから、という意味です。
18節も同じ意味です。「あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません」。
 そもそも過越とは何でしょうか。今から約3400年前、イスラエル人の先祖は、当時の大国エジプトで奴隷となっていました。
民をあわれまれた神は、指導者モーセを選び、エジプトの王ファラオにイスラエル人を解放せよと命じましたが、ファラオは聞こうとしません。
すると真夜中に神のさばきがエジプトを襲いました。王の子、奴隷の子、家畜の子に至るまで、長子が死んでしまうという恐ろしいさばきです。
しかしエジプト人とは違い、イスラエル人たちには、そのさばきの詳細についてモーセから事前に知らされていました。
彼らは命じられたとおり、あらかじめ家のかもいと門柱に子羊の血を塗っておいたので、神のさばきはそれを目印としてその家を過ぎ越します。
そしてエジプトのあらゆる家や家畜小屋から長子を失った嘆き声が聞こえる中、イスラエル人はエジプトを出ていきました。
これが過越について聖書に記されていることであり、ユダヤ人はモーセの時代から、この過越の祭りを大切に守ってきました。
しかしイエス様は、もうこの過越の祭りは必要ない、と言われたのです。
なぜならば、神の子羊であるイエス・キリストの血が、信じるすべての人々を救い出し、永遠のさばきを過ぎ越すからです。

3.
 この最後の過越の翌日、イエス様は十字架にかかられました。それは私たちの罪の身代わりとなるためでした。
イスラエルに何千年と引き継がれた過越の祭りは、このまことの過越の子羊であるイエス・キリストを教えるためだったのです。
イスラエル人が家のかもいと門柱に子羊の血を塗って救われたように、イエスを信じる者はすべての罪のさばきから救われます。
イエスが十字架で私のために死んでくださった、イエスの流された血が、私の罪をすべて神の目から、しかも永遠に過ぎ越してくださった、
神のひとり子が、私のためにいのちを捨ててくださり、それを信じた私は、いま神の前にまったくきよくされたのだ、と信じてください。
毎年ユダヤ人が守っている過越の祭りは、その年限りの罪のきよめです。しかしまことの子羊であるイエス様が十字架で死んでくださいました。
このイエス・キリストこそ、私を永遠に罪から解放してくださった救い主だと信じるならば、私たちは生きるのです。
 過越はこのイエス・キリストによって完成しました。だからもうこれ以上祝う必要はありません。代わりにイエス様はこう命じられました。
「このパンは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。このぶどう酒は、あなたがたのために流される、わたしの血です」と。
私たちは、過越の代わりに聖餐を新しい契約として神と結び、そして主イエス・キリストの愛と犠牲をおぼえながら、ひたすら守っていくのです。
 聖餐には、奇跡的な要素は一切ありません。つまり、パンが本物の肉になったり、ぶどう酒が本物の血になるということはありません。
不思議だと思いませんか。地上での3年半の公生涯で数々の奇跡を行われたイエス様が、
最後の一日で唯一弟子たちに命じられたこの聖餐は、目に見えるかたちでの奇跡は一切含まれていないのです。
それは聖餐が、教会に分裂をもたらすためではなく、一致を与えるためであるからです。
今日の最後のところには、これだけ重要な教えのあとにかかわらず、弟子たちが互いに議論をし始めた、という言葉で終わっています。
イエス様のため息が聞こえてくるようです。これが弟子の姿であり、私たち信者の姿です。一致よりも分裂、謙遜よりも傲慢がついてきます。
もし聖餐の中に奇跡的要素が含まれていたら、私たちは自分こそ聖餐を受けるにふさわしいとか、この教会こそ正しい聖餐を行っている、
などと主張し始めていることでしょう。しかし聖餐は、教会籍の違いに関わらず、洗礼を受けている者はだれでも受けることができます。
しかしだからこそ聖餐を受けるたびに、自らをよく吟味し、罪から離れて生きる決意を新たにしていくことは言うまでもありません。
 教会は二千年間、イエスが最後の晩餐、いや、最初の聖餐で語られた言葉を代々守りつつ、歩んできました。
神の子羊が、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、血を流された、その恵みの中にとどまりましょう。
分裂ではなく、一致を。権力を求めるのではなく、弱さを受け入れる勇気を。周りと比較して高ぶるのではなく、むしろ謙遜を。
これからの一週間、一人ひとりが、主の聖餐に込められている神の願いと祈りをおぼえながら、歩んでいきましょう。お祈りします。

posted by 近 at 20:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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