最近の記事

2021.1.31主日礼拝説教「勝利への処方箋」(ルカ22:39-46)


週報のPDF版はこちらです

1.
 イエス様は十字架にかかられる前、「いつものように、いつもの場所に来られた」。今日の聖書箇所の冒頭で、ルカはそのように記します。
イエス様は、いつも、祈りをもって始められました。祈りなくしては、何も始められませんでした。
それは、祈りが、霊的な戦いの準備運動だからではありません。祈りそのものが、霊的な戦いの場所そのものでした。
この「いつもの場所」は、他の福音書の説明によれば、オリーブ山の頂きにある、ゲツセマネの園であったことがわかっています。
イエス様は、いま、サタンに魅入られたイスカリオテのユダが、兵隊や群衆を引き連れてここに近づいてきているのを感じておられたことでしょう。
イエス様の敵は、ユダでも群衆でもありません。この世界と、この世界に生きる人々を、いつまでも罪の鎖の中に引き留めようとするサタンです。
このゲツセマネの園で、イエス様は、サタンと彼が支配しているこの暗闇の世界に対して、たったひとりで戦いを挑みました。
弟子たちは、だれ一人として、このイエスの霊的戦いについていくことができず、瞬く間に眠り込んでしまいました。
地上のだれもがイエスに加勢することができない、この世離れした霊の戦いのさなか、天の御使いがイエスを力づけました。
イエス様は祈ります。イエス様は苦しみます。体中のその毛穴からはまるで血のしずくのように、汗が地にしたたり落ちる、激しい祈りでした。
 祈り終えてイエスは、悲しみの果てに眠り込んでいた弟子たちに近づきました。
そしてまるで何事もなかったかのように、祈る前と同じ言葉を繰り返しました。「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」
しかしイエスがサタンに完全に勝利したからこそ、あたりはまるではじめから何もなかったように静まりかえっていたのでした。
やがてこの園に、ユダと群衆たちがなだれこんできます。しかしイエス様の心は穏やかでした。すでに勝利したからです。
ここに聖書は私たちに教えています。祈りは厳密に言えば、勝利をもたらす力ではない。祈りそのものが勝利なのだ、と。
どんなに小さな祈りであっても、私たちはイエス様の祈りの姿を模範としながら、祈りましょう。
祈り終えたとき、いや、むしろ、祈り始めたとき、すでに勝敗は決しているのです。祈りはイエス様が見せてくださった、勝利そのものです。

2. 
イエスは、弟子たちに繰り返し、こう呼びかけました。「誘惑に陥らないように、祈っていなさい」と。
誘惑という言葉を聞くと、人は特定の誘惑を連想します。性的誘惑、金銭的誘惑、名誉・名声への誘惑。
しかし人生で何らかの選択を迫られるとき、それがどんなものであろうとも、誘惑になり得るのです。
じつは聖書で「誘惑」と訳されているギリシャ語は、別の箇所では「試練」と訳されている場合もあります。
つまり、それが「誘惑」か「試練」かを決めるのは、私たちが、その選択を迫られた出来事の背後に何を見ているかで決まるのです。
選択を迫られるとき、その背後に神の計画を認めなければ、それは誘惑になります。逆に神の計画を認めるならば、それは試練になります。
そして誘惑はその人の信仰を歪め、しぼませてしまいますが、試練はその人の信仰をまっすぐにし、成長させてくれます。
今、あなたに降りかかった出来事は、神のみこころが関わっているのでしょうか。それとも神とは無関係な出来事にすぎないのでしょうか。
はっきり言います。この世界に、神と無関係な出来事など、ひとつもありません。すべてのことが神から発しているのです。
それは私たちを殺すためではなく、生かすためです。だから改めて、こう問います。選択を迫られるとき、あなたは何を基準としますか。
自分にとって益になるか、家族によって益になるか。教会にとって益になるか、社会にとって益になるか。それらを選択の基準にしてはなりません。「神にとって」。それが私たちにとって、唯一の選択基準です。神を認めなければ、常に私たちは誘惑にさらされ続けるのです。
しかし神を認めるならば、苦しみのたびに、それは私たちの信仰を強めていきます。信仰はそうして成長していくのです。

 では私たちはその試練に対して、いかにしたら勝利を収めることができるのでしょうか。勝利のために必要なことばを教えます。
イエスさまと同じ、この一言だけです。42節の後半、「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」。
この言葉の前に、イエスさまはこう呼びかけています。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」。
しかしこの言葉をギリシャ語から直訳すると、興味深いことがわかります。「わたし」に関わる言葉が出てくるのは最後の最後なのです。
直訳、「父よ、もしあなたが願うなら、あなたが取り去ってください、この杯を、私から」。父、あなた、あなた、そして最後にわたし、です。
これが祈りの神髄です。祈りの主語は、私ではなく、神さまです。私は苦しいのです、助けてください、そう祈ることは人として自然なことです。
しかしその苦しみは、神が目的をもって与えているものだということを忘れないでほしいのです。
その目的は、あなたをいたずらに苦しめようとするものではありません。一時的な懲らしめがあったとしても、私たちを生かすためなのです。

3.
 私たちは何でも願うことができますし、祈るならば何でもかなえられます。しかし主語は常に、必ず神でなければなりません。
あなたはこう言うかもしれません。すでに私は神さまの栄光のために祈っています。
しかし私たちはただの人間的願望を、神さまのためにと言い張りやすいものです。
自分の欲望にすぎないものを「神の栄光のために」とか平気で口にします。しかし私たちは聖書から次のことを知っているはずです。
神は、十字架という死とのろいと苦しみの道を通らなければ、栄光をお受けになることができなかった、ということを。
いのちをも賭した犠牲という苦しみを経なければ、約束のものはいただけないのです。
「神のために」。あなたがそのことばを使って祈るなら、立派なことです。しかしそれに対して、内なる御霊はこう語られるでしょう。
「では、神のために、あなたは何をささげるのか。何を捨てようとしているのか。何を犠牲にするのか。」
おこがましくも神のためにと口にするのであれば、あなたは何をささげると言うのか。何を捨てると言うのか。
それが「みこころがなりますように。みこころをなしてください」と祈るときに私たちが心に呼びかけられることです。

 何かを手に入れるためには、必ず何かを捨てねばなりません。それは真理です。
人々のいのちを手に入れるためには、イエスはご自分のいのちを差し出さねばなりませんでした。
父なる神からのろわれるものにならねばなりませんでした。あらゆる者たちから見捨てられねばなりませんでした。
イエスが「ねばならない」という犠牲をもって進んで行かれたのであれば、その弟子もまた、「ねばならない」のなかを生きていくのは当然のことです。それはもちろん痛みも伴うでしょう。しかしどんな痛みも必ず過ぎ行きます。しかし痛みを通って手に入れたものはいつまでも残ります。
イエス・キリストも、痛みや恐れとは無縁ではありませんでした。しかし「あなたのみこころがなりますように」。その祈りがすべてを飲み尽くします。
私たちは、御使いの励ましだけではなく、いまこの心に住んでくださっている御霊、そしてイエス・キリストの励ましを持っています。
さらに私たちにはこのときはお互いに眠りこけてしまっていた弟子同士、いや兄弟姉妹同士で励ましあう交わりが与えられています。
私たちは生きているあいだ、常に誘惑にさらされています。神のみこころを求めず、自分に犠牲を求めない安価な生き方を選びがちです。
しかし私たちは一人ではありません。そしてイエス・キリストがすでにサタンに勝利されたことをはっきりと知っています。
ぜひ一人ひとりが、このゲツセマネの祈りの姿を心に刻みつけながら、人生をイエス様と共に歩んでまいりましょう。

posted by 近 at 17:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188378744

この記事へのトラックバック