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2021.2.7主日礼拝説教「裏切りと愛が出会う場所」(ルカ22:47-53)


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序.
 今日も私たちは、神さまが人間に与えられたみことばをタイムマシーンとして、二千年前の弟子たちが見たものを体験することができます。
いま私たちは、エルサレム郊外のオリーブ山上、ゲツセマネの園にいます。
空にかかる月の光が、園の中央にたたずむイエスの顔を照らし出しています。そしてその傍らには、11人の弟子たちの姿があります。
しかし彼らは、大きなオリーブの木の、ごつごつした太い幹によりかかったまま、いまだにとろんとしたまどろみの中にいるようです。
そんな彼らの上に、力強くもどこか温かい、言葉が注がれます。「まだ眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
しかし彼らが、自分たちが見事に眠り込んでしまったことを恥じるひまもなく、木々のあいだから剣や棒を手にした群衆が現れました。
そしてその先頭には、彼らが三年半ともに過ごした仲間のひとり、イスカリオテのユダの姿がありました。
ユダは笑みを浮かべながらイエスのもとに近づいてきたのに対し、イエスはこわばった表情のまま、ユダにこう尋ねました。
「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」。そのとき、ぼんやりと夢の続きを見ているようだった弟子たちにもようやくわかりました。
ユダこそ、主が語られていた、裏切る者だったのだ!ユダが裏切ったのは、師であるイエス・キリストだけではありません。
仲間だと信じて、ともに一緒に歩んできたはずの、彼らの三年半の記憶もすべて含めて、彼は裏切ったのです。

1.
 このユダが、イエスを信じた弟子だったのに悪魔に魂を売り渡した者なのか、それとも最初から信じていないが十二弟子に選ばれていたのか。
これは、教会の二千年の歴史の中でも、解釈が真っ二つに分かれてきた事柄です。
ユダが十二弟子の一人であったことは確かなことです。そしてその十二弟子は、イエスが祈りをもって選ばれたことも確かなことです。
しかし十二弟子は、イエスを信じた先着12名が選ばれたのではなく、とくに信仰の優れていた者たちが選ばれたわけでもありません。
能力や人格、信仰が基準ではなく、イエスが父なる神に祈り、みこころによって選ばれたのが、その十二弟子です。
イエスは、その十二人のひとりがやがて旧約聖書に預言されているとおりに裏切ること、そしてそれがユダであることを知っておられました。
裏切りという言葉は、親しい友人関係だからこそ成立する言葉です。イエスは他の弟子と分け隔てなく、ユダを友として扱いました。
他の十一人と同じように励まし、他の十一人と同じように悪霊を屈服させる権威さえユダに与えました。ユダを決して排除しませんでした。
もし三年半のあいだに、イエスがユダを避けたりするようなそぶりがわずかでもあれば、他の弟子たちは、彼が裏切り者だと悟ったでしょう。
しかし他の11人と同じように、イエスはユダを愛しました。たとえ彼が裏切る者であると定められているとしても、イエスは見捨てなかったのです。

 口づけは、当時のイスラエルにおいては、弟子が師匠に尊敬を示す挨拶でした。
ここでは、口づけをしようとして近づいた、とありますが、他の福音書では、実際に口づけをしたと書かれています。
そしてそこで使われているギリシャ語は、一回限りの口づけではなく、何度も何度も口づけをした、という意味の言葉です。
ユダはイエスに何度も唇を重ね、そしてイエスはその裏切りの口づけをすべて受け止められました。
ですからここは、最もおぞましい裏切りが描かれていると同時に、ここほどイエスの愛があふれている場面はないと言えるでしょう。
ユダの裏切りは、彼を十二弟子として選んだときから、父なる神からイエスにはっきりと示されていたことでした。
しかしそのユダさえも、最後まで友と呼びかけ、毒蛇のかみつきのような口づけを拒むことなく、愛し続けた無償の愛が、ここに記されています。
最後の最後まで、人を悔い改めへ招かれるお方がイエス・キリストです。そしてその愛が私たちひとり一人に向けられているのです。

2.
 続けてもう一人の人物、剣で大祭司のしもべの右耳を切り落としてしまった人物に目を留めたいと思います。
ここでは名前が明らかにされていませんが、この人物は何を隠そう、十二弟子のリーダー格であるシモン・ペテロその人です。
ルカがあえてペテロという名前を記さなかったのは、この行動がすべての人間に潜んでいる共通の罪から出ていることを示すためでした。
怒りにまかせて剣を振るったのはペテロ個人の問題ではない。同じように剣で道を切り開こうとする思いが、私たちひとり一人にもあるのだ、と。

 剣を握りしめ、敵に斬りかかっていくことを正しいとする思いが、あらゆる人間の中に、そしてすでに救われた私たちの中にも存在します。
私はその事実を認めたくないし、みなさんも自分自身にあてはめたくはないでしょう。しかし次のことを考えてみましょう。
なぜペテロは自分たちを裏切ったユダ本人ではなく、剣と鎧で武装した兵隊でもなく、大祭司のしもべに斬りかかったのか。
彼は恐れていたのです。目の前でニヤニヤと笑っている裏切り者ユダの姿は、彼が認めたくない、自分自身の内面を表していました。
ペテロは、「鶏が鳴く前に私を三度知らないと言うだろう」というイエスの言葉におびえていました。鶏が鳴く時はもう目の前に迫っていました。
自分自身に斬りかかることを恐れた彼は、自分より弱そうな人間である、このしもべに斬りかかることで、自分の強さを誇っているだけなのです。

 自分より弱そうな人間、自分を傷つける心配のない人間を本能的に選んで攻撃を加えるのは、獣も人間も同じです。
しかし人間の場合、同じ攻撃をするにも、いかにももっともらしい理由をつけるという意味で、獣よりもはるかにたちが悪い。
具体例は出さなくても、思い当たるようなことはいくらでもあるでしょう。信仰者でさえ、感情にまかせて、いともあっさりと剣を振るいます。
しかし実際のところ、私たちは自分より弱い者たち、立場上口答えができない人たちに対して容赦なく剣を振るうのに、
あらゆる問題の本質、本丸である自分自身に向けて切り込もうとはしません。
私たちは肉の剣ではなく、霊の剣であるみことばを自分自身に対して向けることを忘れてはなりません。
かたくなな自分の心は、この世の剣ではなく、ただ祈りとみことばだけが砕くことができるのです。

結.
 イエスは、どんな時もこの世の剣を用いませんでした。イエスが手にした剣は、みことばの剣だけです。この時もそうでした。
このみことばの剣を通して、主はサタンに勝利し、ひたすら父のみこころに服従する決意をもって、弟子たちの先頭に立っておられました。
このみことばの剣によって、あらゆる人々の罪のさばきの身代わりとして、ご自分をささげる恐れを克服されました。
イエスは群衆に向かって語ります。確かに、今はあなたがたの時、暗闇の力。だがすでに私は暗闇の支配者に勝利した。
あとはこのわたしの子どもたちが、暁の光が輝くように、この世界を変えて行くだろう、と。
ユダは裏切りの口づけをもって自らを誇り、ペテロは怒りにまかせて剣を振り回して、活路を開こうとしました。
しかし私たちはキリストが、十字架という苦しみの杯を飲み干すことで神の栄光の冠をいただこうとしていたことを忘れないでいきましょう。
剣を構え、無難な敵を選んで斬りかかるようなマネは、神の子どもたちにはふさわしくありません。
前に立ちはだかる敵に対し、この世の剣を用いて闘う誘惑に陥ることなく、ただみことばの剣をもって進んでいきたいと願います。

posted by 近 at 16:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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