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2021.3.7主日礼拝説教「ペテロとピラト」(ルカ23:13-25)


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1.
 先日、7万円の接待を受けていた国家公務員が、激しい批判を受けた結果、辞職するという出来事がありました。
当初、7万円の接待の罪滅ぼしでしょうか、70万円を自主返上するという話だったのですが、それでは世間が納得しなかったようです。
霞ヶ関の中では、小さな風向きを見極めながら築いてきた地位と特権かもしれません、しかし外から吹いてきた大きな風を見誤りました。
それは先週、今週と聖書を通してその生き様を見つめてきたポンテオ・ピラトについても言えることです。
まず、聖書から離れ、実際のローマの歴史書、公文書に記録されていることからわかるピラトという人物をお話しします。
ポンテオ・ピラトは、生まれた年や場所はわかりませんが、家柄だけははっきりしています。ポンテオは、ローマの騎士階級、ポンティウス家。
騎士階級というのは当時のローマ帝国で勢力を強めていた人々で、ちょうど日本では平安貴族から生まれた源氏や平家のようなものです。
ピラトは西暦26年、第五代ユダヤ総督として就任し、西暦36年後に失脚して任を解かれるまでの約10年間、総督の地位にありました。
ピラトがユダヤの総督になれたのは、同じ騎士階級の出世頭であり、当時ローマ皇帝に次ぐ地位にあったセイヤヌスという人物の後ろ盾でした。そしてこのセイヤヌスは、あのアドルフ・ヒトラーのようにユダヤ人を憎んでいた人物でした。
だから彼の後ろ盾で総督になれたピラトも、セイヤヌスを満足させるために、ユダヤ人に対する高圧的な政策を行い続けました。
例えばこのルカの13章には、ピラトがガリラヤ地方の人びとを虐殺し、その血をいけにえの血に混ぜたという記録が残されています。
その他にもローマ皇帝の肖像がついた旗を神殿に持ち込んだり、水道の整備を建前に神殿からお金を奪うといったこともあったようです。

 しかしピラトが赴任して5年目にあたる西暦31年、後ろ盾であるセイヤヌスが皇帝への反乱容疑をかけられて処刑されました。
それまでセイヤヌスをバックに、ユダヤ人に対して高圧的な態度をとってきたピラトは、いまや自分の総督の地位も危うい所へ追い込まれます。
そのような状況のなかで持ち込まれたのが、このイエス・キリストの裁判であったと考えられます。
祭司長、律法学者、さらには民衆を敵に回してまでイエスを無罪とするならば、エルサレム中を巻き込んだ反乱が起こることも予想されました。
かといってもし無罪の人を十字架刑にかけてしまえば、それがローマ本国に知られたとき、彼の失脚を願う人々に材料を与えることにもなります。
このように歴史の記録も並べながら聖書を読むと、ユダヤ人に高圧的だったピラトがなぜこの裁判は控えめだったのかが見えてきます。
そしてそれは、まさに人の知恵や計画を越えて、神さまがこの十字架という出来事もしかるべき時に行われたことがはっきりとわかるのです。

2.
 裁判官としての良心を貫き、同時に総督としての地位を守る。それは不可能なことでした。どちらかを選ばなければなりません。
総督を罷免されることを覚悟のうえで「このイエス・キリストは罪が認められない。私は彼を十字架にかけることを認めない」と言い続けるか、
それともこのイエスには罪はないということをはっきりと認めながら、総督としての地位を守るために、イエスをユダヤ人へと引き渡すか。

 ルカは、ピラトが三回にわたって群衆を説得しようとしたことをはっきりと記しています。この数字に見覚えはないでしょうか。
ここは、あのペテロがイエスを知らないと三度言った場面と重なります。三という数字が重なっているだけだったら、ただのこじつけです。
しかしこのときピラトは、数時間前のペテロと同じく混乱の極みにありました。
ペテロが、イエスの一番弟子という自己評価に酔っていたように、ピラトは常に風向きを読むことを間違えずここまで来たという自負がありました。
しかしペテロの計画が名もなき召使いの女性に砕かれたように、ピラトの計画もすべてが裏目に出、かえって群衆の熱狂に火を注ぎます。
ユダヤの国主であるヘロデが無罪と判断すれば、総督である自分もそこに乗っかって無罪と言えば、そこで丸く収まるはずでした。
バラバという、彼らユダヤ人にとって憎悪と恐怖の対象である重罪人と並ばせれば、必ず彼らはイエスを解放するほうを望むはずでした。
そして、ローマ総督である自分が、「私が、私の権威によって釈放する」と力強く宣言すれば、群衆もしぶしぶ解散するはずでした。

 そのことごとくが打ち砕かれるたびに、ピラトはあのときのペテロのように混乱します。しかしペテロにはあって、ピラトにはないものがありました。
それは、ペテロは人間の思惑がすべて打ち砕かれた果てに、心に語られていたみことばを思い出しました。それが彼を悔い改めへ導きました。
しかしピラトは、最後までみことばを思い出すことがなかったのです。彼にも、イエス・キリストからのみことばがいくつか語られていました。
しかしそれは彼が心に留め、思い出し、行動を変えるには至りませんでした。そしてピラトは十字架につけるためにイエスを引き渡しました。
ペテロとピラトの運命を分けたものが、みことばを思い出したかそうでなかったかにあるとすれば、私たちはそこから何を学べるでしょうか。
クリスチャンであるか、求道者であるかにかかわらず、私たちがみことばを聞く態度について問われているのではないでしょうか。

3.
 昨年の秋くらいに、ある牧師と話したときのことです。おたがいの教会の状況についての話題になりました。その先生がこう言いました。
「豊栄教会は、愛餐会や交わりに熱心な教会だから、こうして集まれなくなると、教会から火が消えたようではありませんか?」
その先生に悪気があったわけでもないし、責めるつもりも一切ないのですが、私は少し悲しくなりました。
もし教会を支えている力が愛餐や交わりにあると、外の人々からも、内側の教会員からも声が出たとしたら、それは違うと言いたいのです。
教会を支えているのは、みことばの力です。自分がみことばによって恵まれたかではなく、ここでみことばが語られたか、ということが大事です。
毎週毎週、このみことばを語ることで何が起こるか、私にはわかりません。二十年近く語り続けても、何も起こらないようにさえ見えます。
しかしみなさんが、みことばを恐れながら、生きる力として受け取り続けていくならば、それは必ずいつか実を結び、力となるはずです。
教会が、愛餐や交わりを奪われてもそこは教会です。しかし教会から、みことばを恐れながら聞くことがなくなったら、もはや教会ではありません。
そして私たちは、このコロナの状態が続く中でも、みことばを恐れながら聞く群れとして歩んでいることを心から感謝します。

 ピラトは、今日この世界に生きるほとんどの人々と同じように、妥協しました。無実の人を十字架に追いやり、良心の声をふさぎました。
キリストのみ声を待ち望むかわりに、声が届かないところにまで主を追いやりました。神を喜ばせるよりも、群衆のきげんをとろうとしました。
どうかこのポンテオ・ピラトと、彼に続き二千年間、永遠のいのちを拒絶して世を去っていった数え切れない人々の道を選ばないでください。
なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。それは、後の時代の人々への警告です。ピラトのようになってはならぬ、と。
福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。
ではバラバについてはどうでしょうか。彼のその後については、使徒信条にも、聖書にも、歴史書にも一切触れられていません。
彼がその後クリスチャンになったという伝承もありますが、大事なことはバラバはイエスが身代わりになり処刑から逃れた人であるということです。
それは、私たちに与えられた恵みを証ししています。バラバがその恵みを信仰に変えたかどうかはわかりませんが、
私たちはイエスが身代わりになってくださったことをはっきりと信じて、いま、永遠のいのちをいただいて生きています。
この恵みの中に留まって、これからも歩んでいきましょう。

posted by 近 at 09:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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