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2021.3.21主日礼拝説教「誰もイエスを見ていない」(ルカ23:27-38)


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1.
 27節をご覧ください。「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った」。
苦しそうに息を吐きながら、むちでえぐられた体中の傷口から血を流し、ゴルゴタの丘へ向かって行くイエス・キリスト。
そしてこのむごい仕打ちに怒りと悲しみをたたえながら、心配そうにイエスの後をついていく善良な人々を、私たちはここから想像するでしょう。
しかしつまずかせることになりますが、事実はまったくの逆だったのです。彼ら、彼女らは、イエスを慕ってついていった人々ではありません。
確かにイエスを愛し、見捨てず、十字架を遠くから追いかけ、見つめていた、マグダラのマリヤのような女性たちも別の所にいました。
しかし彼女らは「ガリラヤから付き従っていた女たち」です。それに対してこの女たちは「エルサレムの娘たち」と呼ばれています。

 この女性たちは、聖書の中にたびたび出て来る、「泣き女」でした。「泣き女」とは、葬式のときに雇われて号泣する女性のことです。
彼女たちは葬儀のときに、遺族の代わりに故人を悼み、大声をあげ、時には独特の節をつけて、一斉に泣きじゃくります。
これは昔のユダヤだけではなく、世界中に共通する習慣だそうです。雇われて泣くこともあれば、近所の人がわずかのお礼で行うこともありました。
日本では「五合泣き」とか「一升泣き」という言葉も生まれました。一升泣きは本気で泣く場合、五合泣きは半分手を抜いて泣きます。
ここでイエスの後ろについていった民衆も、女性たちも、イエスを慕って泣き悲しんでいた人々ではありませんでした。
野次馬根性でついていった民衆たち。偽の救い主イエスへの葬儀の歌として叫び、あざける女性たち。ここには悲しみではなく悪意がありました。

 私は今回の説教を準備するなかで、この女たちが泣き女だったという解釈に最初、つまずきを感じずにはいられませんでした。
その時の私と同じように、いや、そうではないだろう、この人々はイエスを悲しみ、ついていった人々ではないのかと考える人もいるかもしれません。
しかしもしそうだとしたら、イエスは誰からも尊ばれずに死んでいった、という聖書のメッセージを忘れてしまっているのではないでしょうか。
イエスの十字架を700年前に預言した、預言者イザヤはこう語っています。「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと
」。(イザヤ53:8)

2.
Pieter_Bruegel_d._Ä._007.jpg
 今日の週報の表紙に、16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの作品、「ゴルゴタの丘への行進」を載せました。
現物はウイーンにある美術館に所蔵されていますが、横が1.7mある大きな絵です。小さすぎて見えづらいことはご容赦ください。
人物の服装や建物などは16世紀に合わせていますので、聖書どおりではありません。
しかし本質的なところにおいては、これほど聖書に忠実に描かれた、イエスの悲しみの道、ヴィア・ドロローサは見たことがありません。
その本質とは、「だれもイエスを見ていなかった」ということです。
画面の中央に、気づかないほど小さく、十字架を背負ってへたり込んでいるイエスがいるのですが、その周りにいる人でさえイエスを見ていません。
画面の中には、これでもかというくらいにたくさんの人が描かれているのですが、やはりだれもイエスと十字架を見ていないのです。
画面の一番前、周りから切り離された高台の上に、母マリヤや弟子ヨハネを思わせる人々が描かれていますが、彼らもイエスを見ていません。
じつは画面の隅に、唯一イエスの十字架を見ている人物がいます。これは作者ブリューゲルだろう、というのが、多くの研究者の意見です。

 ブリューゲルは気づいていました。イエスが十字架を背負って歩んで行かれた道のなかで、だれもイエスを見ていなかったのだということを。
イエスの十字架というものは、多くの人々が悲しんだけれどもローマ兵が怖くて、だれも声を上げられなかった、というものではありませんでした。
あらゆる人々が、これは救い主を詐称した人間がその報いを受けているのだと考えたのです。
もちろん、イエスの母マリヤや、来週の説教で取り上げる、十字架につけられた強盗のひとりなど、ごく一部の例外はいました。
しかしその人々はブリューゲルのこの絵で言えば、画面から切りとられた高台や、はるか先に待ち受ける十字架のそばにいます。
画面のなかにひしめくあらゆる人々は、十字架を目の前にしながら、それが自分のための十字架であることを見ていなかったのです。

 ユダヤの祭司長や律法学者は、「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」と嘲りました。
兵士たちもまた、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲りました。耳を覆いたくなるあざけりの連呼、連呼!
しかしそれでも彼らはイエスを単純に嘲っているだけましなのではないかとさえ思えてきます。
イエスの十字架に対して大声をあげて泣き悲しんでいるように見えて、それは彼女たちが今まで繰り返してきた職業的涙だとしたら、
その寒々しさは、祭司長や兵士たちの嘲りの比ではありません。あからさまな悪意や、演技に飾られた悪意。ここには悪意だけが満ちています。

3.
 しかし私たちは次のことを忘れません。これが世の人々の姿であることを知りつつ、イエスはあえてこの十字架から逃げ出さなかったのです。
この十字架こそ、イエスがこの世界に人として生まれてこられた理由でした。見えない神のかたちであった受肉前から持っておられた願いでした。
逃げようと思えばイエスはいつでも逃げることができました。兵をけちらそうと思えば百万のみ使いたちを呼び集めることもできました。
しかしイエスは逃げなかった。代わりにこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかがわかっていないのです」。
彼らは、十字架のイエスを眺めてはいても、実際には見ていません。だれのための十字架なのか。彼らは、いや私たちは、わからなかったのです。
しかしそれでもイエスは、最後まで人々を愛した。嘲り、釘を打ちつける人々のために代わって、イエスは父なる神に赦しを祈りました。
それはただの願望ではなく、必ずかなえられるとイエス自身が約束しておられる、父のみこころにかなった祈りでした。
私たちの罪のために、イエス様は十字架にかからなければならなかった。そしてイエスの祈りのとおりに、私たちに赦しの恵みが与えられています。

 泣き女たちに対しても、イエスの言葉はなんと穏やかで、慈愛に満ちていたのか、ということを改めておぼえます。
エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」。
今日の箇所を通して、嘲り、悪意、冷笑といった人の罪に対して、どこまでもあわれみをもって答えられる、イエスの姿を心に刻みましょう。
生木であるイエスに対して行った仕打ちは、やがて枯れ木である罪人たち自身と、その生きる世界の上に必ずふりかかってくるのです。
しかしイエスの十字架を見つめ、悔い改めてこの方のもとに帰ってくるならば、そこにはどんな人であっても救いが与えられます。
十字架の重みにおしつぶされそうになりながら、それでもなお罪人に手を広げておられるお方、それが私たちの救い主イエス・キリストです。
十字架にかけられながらも、世の罪人たちのためにとりなし続けておられるこの方を信じて、永遠のいのちをいただきましょう。

posted by 近 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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