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2021.3.28主日礼拝説教「きょう、始まるパラダイス」(ルカ23:38-49)


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1.
 今からおよそ140年ほど前、日本では明治時代の中頃にあたりますが、アメリカのある監獄で、ひとりの死刑囚が号泣していました。
看守が驚いて理由(わけ)を訪ねると、囚人はその朝配達されたばかりの新聞の号外を指さしながら、大声をあげて泣き続けました。
そこにはこう書いてありました。「グローバー・クリーブランド、第24代合衆国大統領に選出される!」そして死刑囚は看守に話し始めました。
「このクリーブランドは、若い頃、俺としょっちゅうつるんでいたチンピラだったんだ。だがあいつがある日、教会の前で立ち止まった。
「どうした」と聞いたら、「賛美歌が聞こえてきた。おれは今日この教会に入ってみたい」。「おいおい、今更おまえが教会とかいうくちかよ」。
やがて俺たちはけんかをはじめ、それっきりになった。だがそれから30年の間、おれは何度も罪を犯して死刑囚、あいつは大統領だ。
あの日、おれも教会に行っていたら人生が変わっていたんだろうか」。

 このクリーブランド大統領に関するエピソードが実話かどうか、定かではありません。
ただ、このエピソードは、私たちにこの二人の犯罪人の姿を思い起こさせるものであることは確かです。
この犯罪人は、別の福音書では「強盗」と書かれています。
もともとイエス・キリストがかけられる十字架はバラバがつくはずであったことを考えると、この二人はそのバラバの仲間であったのかもしれません。
だとしたら、彼らは両方とも、バラバと同じように殺人にも手を染めた、まさに十字架にかけられても不思議ではない者たちだったのでしょう。
彼らはイエス・キリストを真ん中に挟むように、一人は右に、もう一人は左に十字架にかけられました。右と左という違いはあります。
しかし彼らはクリーブランドとこの死刑囚のように、同じところに立っています。ともに十字架にかけられるほど重い罪を犯した者たちでした。
そして、右からも左からも、イエス・キリストの頭上に掲げられている文字も同じように読むことができました。「これはユダヤ人の王」と。

 この二人の強盗の出発点は、同じでした。事実、別の福音書では、最初ふたりは一緒になってイエスを嘲っていたとさえ書いてあります。
しかし教会の前でクリーブランドと友人の人生が分かれていったように、イエスの前でこの二人の強盗の道も見事に分かれていきました。
片方の強盗は、「あなたはキリストではないか」と言いながらも、神への恐れもなく、十字架にかけられている自分の罪を見つめようとしません。
しかしもう一方の強盗はキリストを罪を犯したことのない方として恐れ、そして十字架に至った自分の罪を自覚していました。
そのふたりの行き先を変えていった力は、彼ら自身ではありません。ひとりはキリストを嘲り続け、ひとりはキリストを王として受け入れた。
それはただ神の恵みとしか言いようがありません。しかし神の恵みを求める者、そして神の恵みを受け入れる者は生きるのです。
キリストは、自分の罪を自覚していた強盗に対してこう言われました。「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいます」と。

2.
 「パラダイス」という言葉は死んで迎えられる天国を表す言葉ではなく、ユダヤ人にとっては、この世の終わりに現れる神の御国を表します。
「私を思い出してください」。この言葉から、彼が十字架にかけられるほどの自分の罪を悔い改め、謙遜を手に入れていたことがわかります。
だから彼は、いま助け出してくださいとは求めませんでした。「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」。
しかしイエス様は、「今日、私とともにパラダイスにいます」と答えられました。ここに、私たち信じた者に対する大きな励ましがあるのです。
キリストを信じた者は、いつかではなく、今日、すなわち信じた今、たちどころに救いの中に入れられるのです。
十字架刑というのは一週間以上苦しみ続ける刑罰です。人間を最も長い時間、最も苦しい痛みを与えるための刑罰、それが十字架です。
「今日、わたしとともにパラダイスにいます」。
その言葉の意味は、十字架の上で苦しみ続ける数日間の始まりである今日、あなたはすでにパラダイスにいるのです、ということなのです。
今日、3月28日はクリーブランドにも面会したことがあった明治時代のクリスチャンのリーダーであった、内村鑑三の命日にもあたります。
内村鑑三は有名な言葉を残しました。「私は天国に行くためにクリスチャンになったのではない。人として生きるためである」。
信仰というのは天国へ行くことではありません。生きている残りの日々を、永遠への希望を携えて力強く歩んでいくことができる、それが信仰です。この悔い改めた強盗は、「きょうパラダイスにいます」という言葉によって、十字架につけられた中でも神とともに生きる、という信仰を得ました。
ならば十字架につけられておらず、口も手も足も自由に動く私たちに対して神様は、一分、一時間、一日をどれだけ期待しておられるでしょう。
私たちを愛し、身代わりとして十字架にかかってくださり、そしてよみがえられたイエス・キリストを救い主として信じましょう。
そのときに、私たちの人生は死んでいるようで生きているものとなります。悲しみが詰まっているようで希望にあふれたものと変えられるのです。

 以下は聖書ではなく、教会に残された言い伝えからの引用ですが、この悔い改めた強盗について面白い話が残っています。
彼はイエスを信じた後、十字架の上からユダヤ人と兵士たちの罪を責め続けたので人々は怒り、この男を苦しみ抜かせてやると誓いました。
そこでイエスが絶命した後も、もう一人の強盗はすねを折って殺しましたが、この者は数日間苦しませるために骨を折らなかった、というものです。
ヨハネ福音書には二人の強盗もすねを折られたとあるので、聖書の記録とは矛盾しています。
しかし当時のクリスチャンたちが、イエスを信じたこの強盗が十字架の上でも信仰を証しし続けたと考えたことを示しているのかもしれません。
この話は想像でも、私たちが信じたときに起こる新しい人生は想像ではありません。たしかに生きることには苦しみが伴います。
しかしイエスを信じ、この方とともに生きる人生は、苦しみをはるかに越えた喜びがあります。どうかそのすばらしさを味わってください。

3.
 イエスが十字架につけられたのは朝9時頃でした。そして正午から全地が暗くなり、それは午後3時まで続いた、と聖書は記録しています。
これは日食ではありません。過越の祭が始まる前は、天文学的に満月も、日食も起こりえないのです。これは、説明のつかない奇跡でした。
しかし間違いなく、そこにいたユダヤ人たちは思い出したはずです。旧約聖書に、これと同じことが記されていたことを。
出エジプト記にこうあります。かつてイスラエル人がエジプト人の奴隷にされていたとき、神はエジプトを三日間、闇で覆うさばきを与えられました。
しかしイスラエル人がいるところだけは光があったと言います。神がともにおられるならば、闇の中であっても光があるのです。

 イエスが十字架の上で絶命されるまでの三時間、闇が全地を覆った三時間、しかし十字架だけは光輝いていただろうと確信します。
すべての人間は、生まれながらに罪をもって生まれてきます。その罪は、人間の富や努力では、決して取り除くことができません。
しかしイエスが私の罪の身代わりとして十字架にかかってくださったことを信じるとき、あらゆる罪は未来永劫、完全に赦されます。
神殿の幕が真っ二つに裂けたのは、完全な赦しのしるしです。イエスを信じた者たちは、父なる神に何の仕切りもなく近づくことができます。
イエスをあざ笑った兵士たちの長である、百人隊長はすべての出来事を通し、神をほめたたえました。「本当にこの方は正しい人であった」。
またイエスの十字架を心の中であざ笑い、偽りの涙を流していた、あの泣き女たちをはじめとする群衆もまた心変えられました。
今度は本当に悲しみの中で胸を打ちたたきながら、それぞれが家に帰っていきました。
でも百人隊長にせよ、この群衆たちにせよ、イエスを救い主として信じる信仰にまで至ったかはわかりません。
しかしガリラヤから従っていた女性たちは違いました。人々が帰っていった後も、彼女たちはみな離れたところに立ち、イエスを見つめていました。
そしてこの出来事から三日後には、さらに確かな光がやってきます。
イエス・キリストは死んで三日の後によみがえる、とあらかじめ預言していたとおり、確かにイエスはよみがえられたのです。

 イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れたとき、私たちは闇の中にではなく、光の中に生き続ける者へと変えられていきます。
どうか、ひとり一人が自分の罪を認め、イエス・キリストを私の救い主として受け入れることができますように。

posted by 近 at 20:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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