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2021.4.4主日礼拝説教「みことばを取り戻した日」(ルカ24:1-12)


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1.
 名探偵・明智小五郎と少年探偵団。今の小学生にも読まれているのかわかりませんが、昭和生まれの人たちには懐かしい名前です。
彼らの生みの親である小説家・江戸川乱歩が、そのペンネームをアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーにちなんでつけたのは有名な話です。
このエドガー・アラン・ポーの作品に「盗まれた手紙」という短い小説があります。舞台はポーの生きた時代と同じ、19世紀のフランスです。
ある日、国の政治を左右するほどの重要な、ひとつの手紙が盗まれてしまいました。
犯人はひとりの大臣、隠し場所は彼の執務室であるということもわかっています。ところが警察がその部屋をどんなに捜索しても見つかりません。
それこそ壁紙の裏を剥がし、机の引き出しが二重になっていないか、何ヶ月も、何十人の警官を動員して徹底的に捜索しました。
しかしまるで見つからない。困った警察が、名探偵デュパンに助けを求めてきます。さあ、消えてしまった手紙はどこにあるのでしょうか。

 この小説は約200年前に書かれたものですが、この二千年間、消えてしまったイエスの遺体の謎は人類史上最大のミステリーでした。
十字架にかけられたイエスの亡骸は、ゴルゴタの丘のすぐそばにある、洞窟を掘り抜いて作られた新しい墓に収められました。
ガリラヤから付き従ってきた女たちは、その墓の場所を確かに心に刻みつけて、安息日が空けた日曜日の朝に、墓にやってきたのです。
しかし墓のふたは開いており、中にはイエスの遺体はありませんでした。遺体が横たわっていた場所には、遺体を包んでいた亜麻布がありました。
その亜麻布は、よみがえったイエスがぺりぺりと剥がしたような形では置かれていなかった、と別の福音書では記されています。
まるで中身の遺体が一瞬で蒸発してしまったので、くるんでいた亜麻布がそのままぺしゃ、となったように、人の形を残して巻かれていた、と。
 この二千年間、イエスがよみがえったという、この最大のミステリーを信じたくない人々が、じつにさまざまな説明を考えだしてきました。
たとえば、ある人はこう言いました。「女たちは、となりの墓と間違えたのだ」。(だとしたら、亜麻布はどのように説明すべきでしょうか?)
別の人は、「イエスはじつは死んでいなかったので、自分で墓から出てきた」。(墓のふたは堅く閉じられ、番兵が見張りに付いていた)
また当時のユダヤ人たちは、弟子たちが墓からイエスの遺体を盗んだのだ、という噂を流しました。(見張りと封印をかいくぐることは不可能)

 Amazon商品紹介ページより引用(1059円)
江戸川乱歩が編んだ世紀の必読アンソロジーが全面リニューアル!
欧米では、世界の短編推理小説の傑作集を編纂する試みが、しばしば行われている。本書はそれらの傑作集の中から、編者江戸川乱歩の愛読する珠玉の名作を厳選して全5巻に収録し、併せて19世紀半ばから1950年代に至るまでの短編推理小説の歴史的展望を読者に提供する。第一巻は巻頭に編者の「序」を配し、推理小説の祖といわれるポオ「盗まれた手紙」に始まり、コリンズ「人を呪わば」、ドイル「赤毛組合」、フットレル「十三号独房の問題」など8編を収録し、最初期の半世紀を俯瞰する。新解説=「短編推理小説の流れ1」(戸川安宣)

2.
 多くの人々が、復活を受け入れようとしません。それは、はじめから決めつけているからです。死からよみがえることなど、あり得ないのだ、と。
この固定観念によって、いかに多くの人々が救いへの扉を見失ってしまったことか。ここで、先ほどの「盗まれた手紙」の正解が役に立つでしょう。
何十人もの警官がしらみつぶしに探して見つからなかった手紙は、執務室のどこに隠されていたのでしょうか。
なんと、そこに入るといやがおうにも目に入る、むきだしのレターラックに、無造作に投げ入れられていたのです。
警察が捜し回るような、大事な手紙をまさかそんなところに隠すはずがないと誰でも思う。だから、警察の誰も気づかなかったというのです。
一度死んだ者がよみがえるはずがない。私たち罪人も同じです。その固定観念に縛られて、死を打ち破り、墓から消えた方が見えません。
そしてそれは、あのガリラヤから付き従ってきた、信仰深い女性たちも同じだったのです。彼女たちは、香料を準備して、墓に向かいました。
イエスに対する愛情、死をも恐れない情熱、イースターにふさわしい人々に見えます。しかし彼女たちの心からはみことばが抜けていたのです。
彼女たちにかつてイエスは語っておられました。「わたしは十字架で殺され、三日目によみがえり、あなたがたより先にガリラヤに向かう」と。
しかし彼女たちは、その約束をすっかり忘れていました。もしおぼえており、そして信じていれば、墓ではなくガリラヤへ向かっていたことでしょう。
彼女たちが墓に向かう光景は、多くの画家がたいへん美しく描いています。しかし愛も情熱も、そこにみことばが欠けていたらむなしいのです。
どんなに私たちが愛、信仰、情熱をもって、これを神のために、と行ったとしても、みことばが抜けているなら見当違いの努力になってしまうのです。

 彼女たちが墓に近づいてみると、重い石の蓋が取りのけられていました。そして墓の中に入ってみると、イエスの亡骸は消えていました。
もし彼女たちがここでイエスが生前、ガリラヤで語られていたみことばを覚えていたら、このからの墓は彼女たちの喜びの舞台になったことでしょう。イエス様が約束された通りになった。ほんとうに主はよみがえられた。ハレルヤ!ところが今の彼女たちはとてもハレルヤと叫ぶ余裕はありません。
だれがイエスの亡骸を盗んでいったのか。彼女たちは墓の中だけでなく墓の周囲も、それこそ犯人捜しの刑事のように探したことでしょう。
しかし見つからない。途方にくれる。ああ、もし彼女たちがみことばをおぼえていたならば。空っぽの墓は、勝利と希望の証明になるはずでした。
しかし彼女たちは、目に見える世界はしらみつぶしに探すが、みことばを思い出すことができない。私たちももしかしたら同じかもしれません。
今朝、何を食べたか。昨日のお昼は何を食べたか。私たちは意識せずに、食べ、眠り、動いています。
同じように、今日のみことば、昨日のみことば、おとといのみことばをかみしめながら、歩んでいるかどうか。
イースターを描いているすべての福音書が、復活の喜びよりむしろ彼ら弟子たちがことごとく主のことばを忘れていたことを記しています。
イースターにふさわしいのは、みことばを思い出し、そのみことばに従って生きること。私たちは今日、その出発点にいます。

3.
 しかし彼女たちが墓の中で二人のみ使いに出会い、イエスのことばを思い出したとき、彼女たちにとっても祝福のイースターが始まりました。
8節、「彼女たちはイエスのことばを思い出した」。ここはむしろ「神が彼女たちにイエスのことばを思い出させてくださった」と訳すべきでしょう。
彼女たちはさっそく使徒たちにイエスがよみがえったことを報告します。しかしなんということでしょう。この話はたわごとのように思えた、と。
ここでペテロだけが走って行ったのは、彼もまたイエスを否んだとき、イエス様のみことばを思い出した、という経験をしていたからかもしれません。
人生の中で、私たちは耐えがたく思われるような苦しみをしばしば経験します。しかしそんな時こそ、みことばが本当にわかるのです。
現実がまるで自分を滅ぼそうとしているかのようなとき、神は私たちの心に働きかけて、みことばに目を留めさせてくださいます。
現実がどうあろうと、ただ神の約束だけを信じる。復活の意味はそれです。イエスがよみがえられた。
それはただ死を打ち破られた、というだけではなく、それは旧約聖書が、またイエスご自身が語られたとおりによみがえられた、ということです。
みことばは、必ずそのとおりになる。みことばは、イエスを信じる者はイエスと同じように死を打ち破ることを約束している。
このみことばを信じ、信じ続けるならば、私たちの人生には必ず勝利と平安がある。それを証明している、このイースターの日を喜びましょう。
このイースターの一週間、私たちはさまざまな現実の波に翻弄されるでしょう。しかし目に見える現実にこだわり、押し流されてはいけません。
目に見えない方、そしてよみがえられた主であるイエス・キリストを見つめ、約束のみことばをかみしめていきましょう。

posted by 近 at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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