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1.
今日の週報の表紙には、17世紀のオランダの画家ヤン・ワイルデンスが描いたものを印刷しました。

ほかにも多くの画家が「エマオへの道」と題した作品を残していますが、共通するのは、極めて人間を小さく描いているということです。
それは、まさにちっぽけな人間の、まさにそのちっぽけさの最たるものである不信仰、そこにイエスは寄り添ってくださるということなのでしょう。
13節にはこうあります。「ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから60スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた」。
60スタディオンは、現在の距離に直すと約11キロメートル。エルサレムからふたりで歩きながらちょうど二時間くらいでしょうか。
夕暮れが迫る中で、互いにああでもない、こうでもないと言い合いながらエマオへと向かうふたりの姿が目に浮かびます。
彼らの目に映る空は、すでに夕日が傾きかけていました。それはまるでこのふたりの心を象徴しているかのようです。
彼らはその日の朝、墓で御使いに出会った女たちから、イエス様がよみがえられた、というすばらしい報告を受け取っていたのです。
しかし喜びに満たされるはずの報告なのに、一日が終わろうとしている今も、彼らの心には喜びがまったくありません。
イエス様がよみがえった?それが本当だったら、どんなにすばらしいだろう。だが死んだ者がよみがえるなどということがあるわけがない。
彼らもまた、あの真っ先に墓に向かった女性たちのはじめの姿と同じです。みことばが心の中にとどまっていませんでした。
彼らはイエスが十字架にかかられる何ヶ月も前、ガリラヤにいた頃からイエスが語っていた、復活の約束をまったくおぼえていません。
わたしはエルサレムで人々に引き渡され、十字架にかけられ、殺される。しかし必ずよみがえり、再びあなたがたの前に現れる。
みことばを忘れてしまっているからこそ、彼らの議論はいつまでも堂々巡り。不毛な話し合いになっていました。
しかし感謝すべきは、たとえ私たち弟子がそうであっても、キリストは私たちを見捨てることはない、ということです。
みことば不在のまま、終わりのない議論を続けている二人に、イエス・キリストはにいつのまにか近づいて、一緒に歩いていてくださいました。
よみがえられたキリストは、よみがえりを信じることができない弟子を後ろから追いかけて、一緒に歩んでくださるお方なのです。
彼ら二人には、この不思議な旅人がイエスだとはわかりませんでした。しかしイエスのほうは、私たちのすべてを知っておられます。
その心のすべて、みことばを忘れてしまっているという不信仰さえ知りながら、イエス様は私たち弟子とともに一緒に歩んでくださいます。
それは私たちにもすばらしい励ましを与えます。弟子としてふさわしくないと思うような自分であっても、主は決して見放さないお方なのだ、と。
2.
17節をお読みします。「イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」
イエス様はもちろん全部知ってらっしゃるのですが、彼らから言葉と思いを引き出すために、あえて二人の弟子にこう聞かれました。
そこでふたりはこのおのぼりさんの旅人に説明してあげました。今までさんざん語り合ってきたからでしょう、たいへん理路整然とした説明です。
このナザレ人イエスは、ことばにも行いにも力のある預言者だった。私たちはこの方に望みをかけていたが、十字架にかけられ殺されてしまった。
それから三日たった今日、女たちがみ使いの幻を見た、そして自分たちも行ってみたが女たちの行ったとおりだった。
しかし彼の言葉からただよう違和感は何でしょうか。それは言うまでもなく、まるで突然起こったハプニングのように語っていることです。
イエスが十字架につけられることも、よみがえることも、すでにイエスは彼らに繰り返し語ってきたことだったはず。
しかし彼らはそれを心の中にとどめていない。まるで何も聞いたことがない子どものように、次から次へと驚き、さらには疑ってさえいる。
私たちの信仰生活に、できれば避けたいと思うような事柄は起こります。しかしそれは予想もしていなかったことではありません。
キリストを信じた弟子は、師であるキリストが背負った十字架を自分の背負っていく者たちなのだ、とすでに私たちには語られています。
「あなたがたは世にあっては患難がある」とイエスは語られました。しかし同時にこうも語られました。平安あれ。わたしはすでに世に勝ったのだ、と。
イエス様だけでなく、多くの使徒たちが、その手紙の中で、あなたがたの試練をまるで突然火でも降ってきたかのように受け止めてはならない、
信仰の試練は、はじめからわかっていたことである。それは私たちを滅ぼすためではなく、キリストにふさわしく精錬するためのものなのだから。
もし私たちの中からみことばが忘れられてしまっていたら、あらゆる困難に、この世の人々と同じ方法で戦うしかないでしょう。
しかしそれは、相手によって対策を切り替えていく対症療法です。根本的解決ではなく、苦痛を和らげるための効果しかありません。
キリストの弟子は、どんな困難においても、まず「イエスならどうされるだろうか?」と考えます。
そしてイエスが語られ、聖書に記され、自分が学んできたみことばを思い起こして、イエス様が選ばれるであろう方法を選びます。
私たちがとるべき道は、この聖書66巻にすべて記されています。どうかこのみことばによって、あなたの人生を豊かなものにしてください。
3.
最後に、25節をご覧ください。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それは叱責のようで、叱責のままでは終わりません。そこからイエス自ら、旧約聖書から語ってくださる恵みにつながっていったのです。
「世界一受けたい授業」という番組がありますが、まさに私にとってこれは、「世界一聞きたい説教」です。
「モーセ」とは、最初の預言者モーセが書いたと言われるモーセ五書、すなわち創世記から申命記までの聖書を指します。
「預言者」とは、預言者サムエルが書いたと言われる歴史書を含め、最後の預言者であるマラキに至るまで、つまり旧約聖書のすべてです。
アダムとエバの堕落のあとに語られた回復のみことばからイエスは語り始めたのだろうか。
イサクのいけにえ、エジプトに売り飛ばされたヨセフ、イザヤが書き残した受難のしもべ、あらゆる聖書の記録を語ってくださったのでしょう。
いずれにしてもそれは熟練したどんな説教者も及ばない、余計なことは一切足さず、必要なものは一切引かない、究極の説教でした。
ただ知識として聖書を語るのではなく、いのちを流し込むために聖書を語りました。
それがイエスがよみがえられる前も、よみがえられた後も、変わることなく語られたメッセージでした。
神を求めていない者の心には反発を与えますが、求める者の心には打てば響くような、命を与えるメッセージ。
もし私たちがみことばに冷めてしまっているならば、それを熱くするのもまたみことばでなければなりません。
クリスチャンであろうが、そうでなかろうが、今この「私」に語られている招きとしてみことばを聞くのです。みことばによって行動するのです。
みことばを最も必要としているのは私の親でもなく子どもでもなく隣人でもなく、私自身であって、まず「私」が、みことばがなければ死んでしまう。そのような信仰のうめきが、私たちの出発点です。ぜひ一人ひとりが、みことばに根ざし、キリストとともに、歩んで行かれますように。