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2021.5.2主日礼拝説教「現状をよく考え、主にゆだねる」(ハガイ1:1-15)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
本日の礼拝説教は、遅ればせながら、今年度の教会目標からのメッセージです。会堂建設が具体的に始まる年度の目標聖句は、このみことばしかあり得ないと数年前から考えていましたが、いよいよ今年の総会で建設準備委員会が発足しました。ただ会堂建設そのものが目標ではありません。教会の普遍的な目標は「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)という大宣教命令にあります。主イエスから付託されたこの使命をこれからも続けていくための通過点としての会堂建設です。ですからこの目標聖句は、目に見えるものだけを含んでいるのではありません。困難はこれからも予想されますが、困難があるほどに報いも多くあります。期待して歩んでいきたいと思います。
 週報はこちらです。





1.
 今日の説教題は、今年度の教会目標をそのまま引用させていただきました。その背景にある、ハガイ書から語らせていただきます。
預言者ハガイについては、この2章からなる短い預言書以外には、エズラ書でわずかに触れられているだけです。
彼が現れる約20年前、民はバビロンでの捕囚から解放されて、エルサレムに帰ってきました。
そして神のことばに動かされて、エルサレム神殿の再建工事を始めました。しかし神殿の礎を築いたあと、17年間工事は中断してしまいました。
政治的リーダーである総督ゼルバベル、宗教的リーダーである大祭司ヨシュアの二人からも、神殿再建を再開する気力は失われていました。
しかしその中で現れたのが、この預言者ハガイ、そしてもう一人の預言者ゼカリヤでした。ハガイは激しい言葉でこう叫びました。
2節、「万軍の主はこう言われる。「この民は「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は」と言っている」。

 みことばは、人々の隠れた罪をえぐり出します。このハガイの言葉も例外ではありません。民は、いまは神の時ではないと言っていました。
しかし神殿再建は、神のことばから始まった工事でした。彼らは、みことばに対する不従順を、神の時という言葉にすりかえていたのです。
人間は、現状を変えたくないという自分の思いを、それを神も願っているのだ、と言って、神を共犯者に巻き込もうとします。
自分の責任を回避するために、人が共犯者に巻き込むのは神だけではありません。
資金がない、人材がいない、一致がない、これもない、あれもない、たぶんない、きっとない。(元ネタ:松坂慶子「愛の水中花」)
民は、「今はみこころではない」「今は時ではない」と口にしました。しかし彼ら自身の生活が、その言葉が嘘であることを証明していました。
「神殿を建てる時は来ていない」と言いながら、自分たちが住む家の内装に関しては、貴重な木材を使ってゴージャスに整えていたのです。
神の民が、なぜこのような矛盾を矛盾と気づかないのでしょうか。ハガイは糾弾します。
それは、あなたがたが優先順位を間違えているからだ、と。

 民は口々に叫んでいました。収穫が少ない。収入が少ない。だから今は生活を優先すべきだ。とても神殿を再建する余裕などはない。
しかし真実は逆でした。生活が苦しいから神殿を建てられないのではありません。神殿を再建しようとしないから、生活が苦しいのです。
9節で神はこう言われます。
「あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。
それはなぜか。それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。」

私たちが生活の中で最も大事にすべきは、神のことばに従うことです。神のことばに従うとき、私たちは迷うことなく、人生の王道を進みます。
しかし最も大事にすべきことを二番目、三番目に回し、二の次、三の次でしかないものを優先して、金銭と時間をかける。
イエス様は言われました。「まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられます」。
それがまさに、何百年の時を遡ってエルサレムの民に、あるいは二千年の時をくだって今の私たちに対して、語られていることなのです。

2.
 私たちの教会では数年前に将来の会堂建設を採択しましたが、今年は、その目的を達成するために建設準備委員会を立ち上げました。
教会がとりかかる、どんな小さな事業であっても、それは神が始めてくださったという確信と、みことばによる絶えざる導きが必要です。
しかし神は、ハガイを通していきなり民に語ったのではなく、まず総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに、みことばを語られました。
そのみことばがまずゼルバベルとヨシュアの心を再び燃え立たせ、それが飛び火となって、民のあいだに燃え広がっていったのです。
同じように、この会堂建設という極めて大きな働きの中にも、まず神のことばに応答する者が起こされることを必要としています。
それは牧師や役員、建設準備委員に限りません。そのような人たちは確かにこの働きに対する奉仕を委託された者たちではあります。
しかし神がみことばによって燃やされたのは総督と大祭司であったから、それを牧師や役員、委員といった人々に限定する必要はありません。
すべてのクリスチャンが、みことばと祈りを通して神と直接繋がっています。そうであれば、神が心燃やしてくださるのは、そのような一人ひとりです。
私たち一人ひとりが、このときハガイを通して語られたことばのように、「あなたがたの歩みをよく考えよ」と語られているのです。

 みことばは、私たちが自分の歩みを見つめるための鏡であり、正しい道を歩むためのガイドブックです。
ですから今年はじめて週報の中に取り入れた、一年間で聖書を通読することができる聖書日課にも取り組んでほしいと願います。
このハガイ書の中には、全部で四つのメッセージが語られています。神殿工事の約半年間のあいだに語られたものです。
みことばで立ち上がったこれらの民でしたが、その半年間のあいだに頻繁に心がくじけ、常にみことばを必要としていました。
だからハガイは何度も主の御名によって語ります。万軍の主の御名によって、何度でも語ります。その最初のメッセージが、この1章です。
さあ、「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすればわたしはそれを喜び、栄光を表す」と。
あなたがたの家を建てることよりもまず先に、神の宮を建てるために山に登り、木を切り出せ。そうすれば、神は喜び、栄光を表されるのだ、と。

 これは私たちにおいても真実の約束です。しかし大きな会堂、美しい会堂、多くの人が集まること、それが栄光だとは思いません。
「栄光を表す」という言葉は受け身形にも訳すことができます。つまり、民が山に登り、木を運び、宮を建てる。
その営みを通して、栄光が表される。私たちの信仰、献身、建設へ向かう営みそのものを通して、神の栄光はこの世界に表されます。
どのような会堂が生まれるかということよりも、どのようにして神の宮がこの豊栄に生み出されていくのか。神はそのところに光を輝かされます。
そのために私たちに必要なのは何でしょうか。あれが足りない、これが足りない、ではないことは確かです。
欠けているものは神が与えてくださることを信じ、一人ひとりがお互いに信頼して、この営みに向き合っていくことではないでしょうか。

3.
 今日の説教題にある「主にゆだねる」とは、神に任せて、人間は何もしないという意味ではありません。
私たちのうちにある願いは、神のみこころと一致しているのかを、心と知性と力を尽くして神にいつも問いかけていくことです。
「いまが時だ」と決めつけることも、「時はまだ来ていない」とスルーすることも正しくありません。みこころはみことばによって吟味するものです。
私たちは、みこころが地でも行われますように、と祈ります。私たちの願いではなく、ただ神のみこころがなりますように、と。
みことばによって神のみこころを誠心誠意求めながら、そのうえで、私たちは自分にできる最善を尽くします。
そのとき、あらゆる欠けは満たされるでしょう。霊的な欠けも、物質的な欠けも。

 民は、ハガイを通して語られたみことばを聞き、主を恐れました。それは、自分たちの不従順を悔い改めた、ということも含んでいます。
この一年、みことばを開くとき、説教を聞くとき、御霊よ私を砕き給えと祈りつつ、みことばをいただきましょう。
そのとき、あらゆる不安や困難も、「わたしはあなたとともにいる」というみことばに飲み込まれていきます。
主がともにいてくだされば私たちは何でもできます。しかし主から離れて行動するならば、何もできません。
この信仰に立つことが、主にゆだねるということです。一人ひとりが、現状をよく考え、主にゆだねて歩んでいきましょう。


「愛の水中花」は動画検索するとナマメカシイ衣装ばかりですが、これは落ち着いた感じでした。
作詞があの五木寛之さんなんですね。「岸壁の母」と並んで、うちの母親の十八番でした。
posted by 近 at 19:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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