本日の礼拝説教では、神殿再建工事が再開して一ヶ月のあいだに、民の心がしぼんでいった中での再チャレンジという文脈で、この第二のハガイのメッセージを語りました。説教の中では触れることができませんでしたが、この「第七の月の21日」には、工事が始まって約一ヶ月ということ以外に、神のタイミングとしてふさわしい重要な要素が二つありますので、追記しておきます。
1.この日は、第七の月の15日から一週間続く「仮庵の祭り」の最終日であったこと。(レビ記23:34-43)仮庵の祭りは、イスラエルの民がエジプトを脱出したもののその不信仰により、荒野での40年間の放浪生活を余儀なくされたという、人の目には負の歴史を、逆に荒野で神が養い続けてくださったという神の目には正の歴史という転換を与えています。そしてこの逆転の発想というべき神の視点は、ソロモンの第一神殿に比べるとあまりにも貧弱なこの第二神殿(ハガイ2:3)が、「その栄光は先のものにまさる」(同9節)と言われていることに通じるものがあります。
2.この日は、ソロモンが第一神殿の奉献式を行ったのとちょうど同じ時期であったこと。(第二歴代誌7:1-10)
この工事再開の一ヶ月の中で行われた仮庵の祭りは、逆に工事の進行を遅らせるものになっていたかもしれません。またその中でソロモンの第一神殿の奉献が想起されたことも、民の心をくじいたに違いありません。しかしすべてのことが神のご計画の中にあり、そして人の失望のただ中にこそ、神のみこころは起こるのです。ですから私たちは勇気を失うことがありません。私たちの教会はいま、会堂建設に向かっていますが、工程表や財政計画など、どこから手をつけてよいかもわからないほどに未体験な事柄です。しかしそれでもなお、神のみこころだけがなる。そのような信仰をもって進んでいきたいと願っています。 週報はこちらです。
1.
「三日三月三年」(みっかみつきさんねん)という言葉があります。
仕事をやめたくなる時期ということで新入社員に語られることがありますが、もともとは芸事や修行の心構えを表したものです。
「厳しい芸の道も、三日我慢できれば三ヶ月は耐えられる。三ヶ月耐えられれば三年は頑張れる。三年頑張れれば一生耐えられる」。
しかし現実は、そんなに甘いものではありません。十七年間工事を放置していた民は、神のことばに燃やされて仕事にとりかかりました。
それが第六の月の24日のことでした。それに対してハガイが改めてみことばを語ったのが第七の月の21日。
なんとか三日は我慢できたようですが、一ヶ月もしないうちに彼らの情熱にはかげりが生じました。だからこその第二のメッセージなのです。
一ヶ月前にみことばと霊に燃やされて仕事にとりかかった彼らの中に生まれたつまずきはいったい何だったのでしょうか。
皮肉なことに、それは立ち上がったからこそ見えてきたつまずきでした。働けば働くほど、目に飛び込んでくるつまずきでした。
そのつまずきとは何か。それは、いま自分たちが建てている神殿が、かつての神殿に比べて、あまりにも貧弱で、小さすぎるということだったのです。
すでに土台工事は17年前に終わっているのですからわかっていたことでしたが、それでも工事が進むにつれてガッカリ感はどんどん強くなりました。山に行って木を切り倒し、現場に運び、石を削って、若い者も年老いた者も、男も女も力を合わせて、神殿を作り上げていく。
しかし年老いた者たちの中には、かつてこの場所にあった最初の神殿を、幼いときにその目で見ていた者たちもいました。
かつての神殿を知らない若い者たちも、自分たちが力を振るって建てている神殿のあまりの小ささに、つい口に出してしまう者もいたでしょう。
せっかく神のことばに燃やされて始めたことなのに、自分たちにはこの程度のものしか作れないのだ、という失望が彼らの中に生まれました。
2.
ファインバーグという人はこう言っています。「悪魔はしばしば、人々が主の導きに従おうと堅く決心した直後に、最大の攻撃を加える」。
まさにそのとおりのことが彼らの中に起こりました。しかしだからこそ、神は、みことばを彼ら一人ひとりに語るようにハガイに命じられたのです。
3節をお読みします。「あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。
あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか」。
神は、民のつまずきを知っておられました。神のことばは、私たちが意識する以上に、私たちの心の中を映し出し、突き通します。
しかしこの民のつまずきは、神のために立ち上がったからこその痛みであるということを私たちは忘れることがないようにしましょう。
神殿再建にとりかからなければ、彼らはこのような無力感と失望を味わうことはありませんでした。
しかし神のことばを聞き、そのみことばに従ったからこそ、自分たちができることはこの程度のものなのだ、という無力感を味わったのです。
それは、勝利者が必ず一度は通らなければならないトンネルです。
いったい賞をとるために日々自分の体を鍛えているアスリートたちの中で、自分の限界を痛感しないままに勝利の冠をかぶる者がいるでしょうか。
どんな戦いであっても、その戦いに加わる者は、自らの弱さ、小さなをおぼえずにはいられないのです。
ましてや神のために自分の力を用いようとするものはなおさらのことです。そして神はそのような人々に、何度も声をかけて励ましてくださいます。
「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ」。「エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ」。「この国のすべての民よ、強くあれ」と一人ひとりに。
私たちもそうです。信仰生活の中で、神のために自分の力を生かそうとするとき、かえって無力感にさいなまされることもあります。
個人だけではなく、教会として世の人々に仕えるためのわざにおいても、資金、人材、協力関係が不足する、ということも必ず起こります。
しかし「銀はわたしのもの、金はわたしのもの」と力強く宣言される、永遠かつ無限の創造主が、私たちに志を与えてくださったのです。
教会が神から任せられたことを完成するために必要なものは、十分な資金でも才知あふれる人材でもなく、神のことばに従う信仰です。
欠けだらけの者に対しても、神は優しく、そして力強く語りかけてくださるのです。「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」と。
3.
確かに、彼らが建てようとしていた神殿はあまりにも小さく、みすぼらしく、足りないものだらけでした。
ソロモンの建てた神殿の中心には至聖所と呼ばれるものがあり、そこにはモーセの十戒を納めた神の箱が安置されていました。
ところがこの神の箱は、バビロン帝国に奪われてから行方がわからなくなりました。
後のユダヤ人が作った戯れ歌の中には、このハガイの神殿は神の箱もなければ神の臨在もない、という辛辣なものも残っています。
しかし神は彼らに約束されました。あなたがたが数百年前にエジプトを出て以来、わたしの霊はあなたがたのあいだにとどまっている、と。
そしてこうも言われます。9節をご覧ください。「この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる」。
何一つ欠けのないものとして建てられたソロモンの神殿にまさる栄光を、わたしはこの神殿に与えると神は約束されました。
なぜでしょうか。それは、この神殿こそ、やがてイエス・キリストがおいでになり、みことばを語られ、そして再びおいでになる神殿だからです。
ハガイは6節でこのように語っています。「間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。わたしはすべての国々を揺れ動かす」。
新約聖書のヘブル人への手紙では、この言葉がキリストの再臨の時に成就すると語っています。
天も、地も、国々も、生きとし生けるものすべてが取り除かれるときがやってくる。しかし決して揺れ動かされないものがある。
それは、私たちがイエス・キリストを信じるとことを通して与えられた、永遠の神の御国である、と。
その御国は、この地上のものではなく、信じた私たちの心の中に生まれ、常に成長し、私たちの生き様によって、この世界に証しされていきます。
やがてイエス・キリストはもう一度この地上に帰ってこられます。そのとき、すべてのものが新しくされ、私たちのすべての労苦は報われます。
私たちが神のために働くわざはどんなものも、聖書にあるように「水の上にパンを投げる」ようなものです。
愛のわざは人の目には見えません。神と隣人のためになしたことも、私たちの一生のあいだには日の目をみることがないことも多くあります。
そればかりか、まいたそばから消えてゆくような、無力感を味わうこともしばしば経験することでしょう。
しかし主が再びおいでになられるときに、私たちがまいてきたみことばの種がどのような実を結ぶに至ったか、
私たちが関わってきたどんな小さなことさえも神の目には一切無駄にはならなかったということがはじめてわかるようになります。
だから私たちはこの地上で生きている間、キリストから目を離してはなりません。そしてキリストも私たちから目を背けることはありません。
神はハガイを通して、やがてキリストが立たれるその神殿に、平和が与えられる、と約束しています。
いま、神ご自身が私たちの心の中を神殿としてくださっています。私たちが心の中にキリストをお迎えしたとき、平和が生まれます。
一人ひとりが、神の語りかけを心の中に味わいながら、これからの一週間を歩んでいきましょう。