こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
俳優・田村正和さんの逝去、続けて星野源さんと新垣結衣さんの結婚、さらに私もファンの一人であった「ベルセルク」の作者・三浦建太郎先生の急逝、とまるでジェットコースターのように悲喜交々のニュースが続きました。
「ベルセルク」作者の三浦建太郎さん死去、54歳 世界中から悲しみの声
このブログの読者の方(主にクリスチャンの方)で「ベルセルク」を知っておられる方というのはあまりいないかもしれませんし、牧師としてもちょっと勧めにくい(残酷なシーンが多いので)のですが、その圧倒的ともいうべき画力(表現力)はやはり一度は見ていただけたらうれしいなと思います。ただ第一巻の最初から刺激が強すぎるので(お子様厳禁)覚悟が必要です。
30年以上にわたる長期連載のなかでも一向に終わりが見えず(ここらへんはONE PIECEに通じるものがあります)、この数年間は休載が続いていたので、完結を心配する声もありましたが、大動脈解離という病気で、54歳の若さで筆を置かれました。私の知人もこの病気で亡くなられましたが、たいへん危険なものです。
「ベルセルク」(三浦先生)の魅力は、そのストーリーや絵の書き込みもさることながら、まさに一コマ一コマを心血注ぎ出して描いていることが伝わってくるということです。それは私たち説教者にとっても、いつも心がけていなければならないことです。私はこのブログで説教を録画と原稿の両方を挙げていますが、やはり原稿や録画では伝え切れないものが、実際の礼拝出席にあるのではないかと思います。大げさかもしれませんが、講壇に立ち、聖霊の助けを求めながら語り始めると、命を削り出しながら語らざるを得ません。語る方がそうであれば聞く方もまたそうならざるを得ないと思うのですが、どうでしょうか・・・・?
みことばを本気で伝えようとする説教は気楽に聞けるようなものではありません。「ベルセルク」も気楽に読める作品ではありませんでした。数え切れない人々に感動を与えてきた三浦先生のご労苦に心から感謝し、冥福を祈ります。
週報はこちらです。
1.
来週は、聖霊降臨を記念するペンテコステです。そこで今日は、そこにつながる出来事を一緒に味わいましょう。4節をご覧ください。
「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
イエスは、このエルサレムの都で捕らえられ、十字架で殺されました。そして三日目によみがえられ、彼らと四十日間、一緒に過ごされました。
聖書で「四十日」という言葉が出てくるとき、それは実際の期間であると同時に、苦しみと忍耐を表す象徴的数字として用いられています。
では、この復活後の四十日は、いったいどんな苦しみと忍耐を意味していたのでしょうか。
一見、喜びにあふれていた40日間に思えるその背後にある苦しみと忍耐を読み解く鍵は、「エルサレムを離れないで」という言葉にあります。
この時、イエスの弟子たちにとって、エルサレムは決して、居心地の良い町ではありませんでした。
ユダの手引きでイエスを捕らえて十字架で処刑したユダヤ人たちは、いまも弟子たちを監視し、いつでも叩き潰せる準備をしていました。
イエス様がよみがえったから安心安心ということでは決してなかったでしょう。彼らにとってこのエルサレムはひとときも気の休まらない場所です。
「エルサレムを離れないで」というイエス様のことば、そして9節で天使たちから語りかけられる「ガリラヤの人たち」という呼びかけ。
それは、彼らがこのエルサレムにとって異端分子であり、彼らにとってもエルサレムは、助けもなく孤軍奮闘の場所であることを表しています。
しかし神のみこころは、弟子たちの願いとはまったく正反対にありました。あなたがたは、このエルサレムで聖霊のバプテスマを受けるのだ。
そしてこのエルサレムから、福音は世界へ広がっていく。ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、あなたがたはわたしの証人となる、と。
どうかこのことから学んでください。あなたにとって、ここは私がいるべきではないと思う場所こそ、神のご計画の出発点なのです。
これは私たちの常識からしたら真逆でしょう。働きやすい職場、通いやすい学校、自分に合った奉仕、人はそれこそみこころと考えるからです。
しかし神は、私たちが行きたいところ、私たちがとどまりたいところではなく、むしろ人々が行きたくないところ、人々がとどまりたくないところに、私たちみこころに生きようとしている者たちを遣わされるのです。
あなたが行きたくないところは、他の人だって行きたくありません。しかしだれかが行かなければ、神の計画は進まないとしたらどうでしょうか。
そこに足を踏み入れさえすれば、あとは神が責任をもってすべてを導いてくださいます。しかしだれかがまず足を踏み入れなければなりません。
それが私なのか、他の誰かなのか、ということです。あなたが行かなくても、他の誰かが行くでしょう。
しかしそれによってあなたは、本来、自分に用意されていた困難と、それへの報いとして用意されていたものを受け取れません。
2.
6節で弟子たちはイエスにこう尋ねました。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」。
これは、その前にイエスが語られた「聖霊のバプテスマ」に対する、彼らの応答でした。彼らは聖霊を十分に理解していませんでした。
彼らはイスラエルをローマ帝国の支配から解放するための力を与えてくれるものとして、聖霊が自分たちに注がれると誤解していました。
彼らはイエスの復活という奇跡、さらにそれから40日間に及ぶ、聖書の集中講義を受けても、まだ目が塞がされていたと言えるでしょう。
しかしイエス様は、彼らの霊的盲目を叱りません。なぜなら、聖霊のバプテスマは、確かに新しい国を興すことのできる力を生み出すからです。
とはいえ、弟子たちの理解は、ボールをかすった程度のものです。聖霊が起こされる新しい国は、地上のイスラエルではありません。
その新しい国を生み出す者たちは、ユダヤ人とかガリラヤ人とかいった、民族的な違いを越えて、世界中から集められた者たちです。
その国がいつ生まれるのか。じつは決して遠い未来ではありませんでした。部分的にはこのときすでに来ていたと言ってもよいでしょう。
しかしそれがいつかよりも、大事なことは、そのためにあなたがたがまず聖霊のバプテスマを受け、証人とされることなのだ、ということでした。
そしてあなたがたにとって苦しみと困難を伴う場所である、このエルサレムから始まり、さらにサマリヤ、地の果てにまで、あなたがたは証しをする。
それは決して平坦な道ではない。その道程において、命を奪われるものさえもいるだろう。それでもなお、あなたがたは証人として進んでゆく、と。
この命令、いやむしろ約束は、決してこの二千年前の使徒たちだけに向けられたものではありません。
今も、このイエスを救い主として信じたすべての者たちに与えられています。
人は聖霊の働きによってのみ、イエスを救い主として信じ、そして告白することができる。そして信じた者はすなわち証人となるということなのです。
すべてのクリスチャンは、主の証人として召されています。そして証人となるには、自分の力ではなく聖霊の力をいただいていることが前提です。
神が聖霊を与えないまま、証人として歩んで行けと命じることなどあるでしょうか。
もし私たちが日々主とともに歩んでいるならば、昨日経験した小さな一コマも、主イエスが生きておられる証言として語ることができるでしょう。
信じたから聖霊を受けたのではなく、聖霊を受けなければ信じることはできないのです。
それは、聖霊を受けていなければ信じ続けることもできない、ということです。
あなたがいまイエスを信じていることそのものが、聖霊を受けたという証しです。しかし私たちは同時に聖霊に満たされていかなければなりません。
みことばが語られるとき、みことばが開かれるとき、みことばを口ずさむとき、いつも聖霊はみことばとともに働かれます。
私たちに大いなる証しをさせてくださる聖霊に日々満たされ続けたいのであれば、みことばをいつも聞き続けることを忘れないことです。
3.
最後に、10節と11節をご覧ください。
「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。『ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。』」
二人という数字には、確かな意味があります。聖書では、すべての証言は二人か三人かで有効となる、と言われているからです。
ふたりの御使いは、イエスが必ずこの地上に戻ってこられる、という再臨を確かに証ししました。そしてさらに弟子たちにみこころを伝えました。
いまあなたがたが見つめるべき場所は、地上のふるさと、ガリラヤではない。そしてキリストが一時戻っていかれた天でもない。
ではどこか。エルサレムである。エルサレム、そこには弟子たちの想像もつかないような迫害と困難が待っている町でした。
しかしその迫害と困難を通して証しされていく神の恵み、神の栄光、豊かな収穫もまた、そこにとどまらなければ決して見えなかったでしょう。
聖書の時代、証言することは殉教することを意味していました。
今日、証しすることによって会社や地域の中で孤立する、あるいは人間関係に支障をきたす、と考える人がいるかもしれません。
だからこそ、私たちには、常にみことばと御霊に満たされることを必要としています。
私たちは小さな器にすぎません。いや、器などというきれいなものではなく、地をはいつくばる虫けらにすぎないのかもしれません。
だが虫けらにも、目がついています。見つめるべき地はいずこか。永遠の平安のある天ですか。一時的な平安があるガリラヤか。
否!エルサレムです。私たちにとって苦しみの地であろうとも、そこに語るべき人々が待っている地が、それぞれにあるはずです。
うちに住んでくださる聖霊が、どんなときにも私たちに喜びを与え、イエス様を証しさせてくださることを信じて、歩んでいきましょう。
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