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2021.5.23主日礼拝説教「一人ひとりが、変えられる」(使徒2:1-13)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
ペンテコステに入りました。イースターが「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」というややこしい移動祝日?なので、ペンテコステもそのように見られる場合がありますが、ペンテコステはイースターの七週間後の日曜日とはっきり決まっていますので、迷うことはありません。正確に言えば、過越の祭りの七週間後(当日を含めて50日目)にある五旬節の直後の日曜日ということになるでしょうか。
説教の中でも触れましたが、五旬節は単純な収穫感謝(初穂の祭り)ではなく、出エジプトから二ヶ月後、シナイ山での律法の授与を記念する日という意味づけが与えられています。以前、祈祷会で詩篇の講解を行ったことがありましたが、五旬節の会堂礼拝においては、天地万象を神の声(ことば)として賛美する、詩篇29篇が朗読されるそうです。
4 【主】の声は力強く【主】の声は威厳がある。
5 【主】の声は杉の木を引き裂き【主】はレバノンの杉を打ち砕く。
6 それらの木々を子牛のようにレバノンとシルヨンを若い野牛のように跳ねさせる。
7 【主】の声は炎の穂先をひらめかせる。
8 【主】の声は荒野を揺さぶり【主】はカデシュの荒野を揺さぶる。
9 【主】の声は雌鹿をもだえさせ大森林を裸にする。主の宮ではすべてのものが「栄光」と言う。
 今日、聖霊の奇跡が、聖書そのものと切り離され、死者の復活や病気のいやしといった文脈のみで語られる傾向がありますが、あくまでも聖霊の諸々の奇跡は、みことばこそ神の主権と栄光の顕現であることを伝えるためにあるという理解にとどまらなければならないでしょう。ですから聖霊の働きを強調していながら、聖書通読も暗唱聖句も実践していないということがあれば猛省が必要です。
 ペンテコステについて毎年語ってきたなかで、弟子たちはこの五旬節こそ宣教(証言)の主である聖霊が降臨される日だと確信して祈るようになっていった、というのが私の考えです。それは「いつとか知らなくても良い」というイエスの忠言を否定するものではありません。私たちが毎日、聖書をいのちのことばとしてかみしめていくなかで、神はそのみことばを通して足元を照らし、いま何をすべきかを示してくださいます。いま、出口の見えない戦いの中におられる方は、期待して聖書を開いていただきたいと思います。
 週報はこちらです。





1.
 今日はキリスト教の暦においてはペンテコステの日です。毎年、イースターから七週間後の日曜日と決まっております。
ペンテはギリシャ語で数字の五、コステは上旬中旬下旬の十日間を表すギリシャ語です。つまり、合わせると50日、七週間となります。
教会では「聖霊降臨日」と言われることもありますが、もともとは、過越から50日目に行われた、五旬節の祭りを表す言葉です。
今から約3300年以上も昔、イスラエル人はエジプトで奴隷のような扱いを受けていましたが、神のしもべモーセに導かれ、脱出を果たしました。神がエジプトから解放してくださった日が過越の日ですが、そこからちょうど50日目、イスラエル人はアラビヤ半島のシナイ山に導かれます。
そしてそのシナイ山で、神は十戒をはじめとする律法、すなわち永遠に守るべき神のことばを与えられました。
クリスチャンは、五旬節と聞くと聖霊降臨と、ぱっと考えますが、もともとは神がイスラエルに律法を与えてくださったことを記念する日だったのです。
ですからいまでも敬虔なユダヤ教徒は、この五旬節の前の晩から律法を徹夜で朗読するのがしきたりになっているのだそうです。
 そしてこの五旬節の日は、収穫感謝祭でもあります。しかし収穫を単に神にささげることが命じられているだけではありません。
その収穫を、とくに社会の貧しい人々や外国から寄留している人々にも分け与えて、いっしょに神に感謝するように、というのがこの五旬節です。
つまり、この五旬節は、神が与えてくれた神のことばを感謝し、学び、そして愛とあわれみをもって実行していく日であったと言えます。
少し説明が長くなりましたが、まさにこの五旬節こそ、聖霊がこの世界に下られ、世界宣教の始まりにふさわしい日でありました。
イエス様が天に昇られたのが、イースターから40日後のことでした。それから弟子たちはエルサレムで集まって祈り始めました。
そして祈り始めて10日後の五旬節の日に聖霊が下られました。
しかし弟子たちは、先が見えない祈りではなく、この五旬節こそ、聖霊がお下りになる日だ、と確信して祈っていたのではないかと思うのです。
なぜなら、この五旬節こそ、みことばに聞き、みことばを学び、みことばを行う祭りであったからです。
聖霊がお下りになる日として、この日こそふさわしい日はない、いや、この日以外には考えられない。
「弟子たちが祈っていると、突然」と、聖書は記しています。しかしそれは、弟子たちにとって想定外の出来事であったという意味ではありません。
いつもと同じように五旬節を迎えていた人々にとっての「突然」です。彼らは昔からのしきたりとして律法を読み、収穫をささげていました。
しかし神は、これからはしきたりではなく、内側から湧き上がる喜びをもって礼拝がささげられるのだ、と宣言なさいました。
生きたみことばによって、信じる者たちが常に変えられていく時代、救いが私たちの人生ばかりか、この世界そのものを変えていく、恵みの時代。
私たちは今もこの聖霊による変革の時代の中に生きています。喜びと、確信をもって、今日のみことばをかみしめていこうではありませんか。

2.
 さて、この聖霊がお下りになったとき、激しい風、轟音とともに、弟子たち一人ひとりが外国語を話し出すという驚くべき奇跡が起こりました。
4節をごらんください。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」
この出来事は、みことばがあふれる五旬節の日を過ごしながら、みことばを忘れて生きているこの世界に対する、神の宣戦布告です。
聖霊は、この世の人々が驚くような音と風をもってこの地上に来られました。知らないうちにいつのまにか来ていた、というものではありません。
十字架と復活によって、この世界を神のもとに取り戻していく戦いがいよいよ始まりました。
 聖霊は、その戦いが神のことばに始まり、神のことばに終わることを、弟子たちが外国語で語る福音を通して明らかに示されました。
当時、エルサレムには五旬節の祭りのために、世界中からユダヤ人や改宗者が集まっていました。彼らの共通語はギリシャ語です。
ギリシャ語で福音を語れば彼らには通じるのです。しかし神は、あえてそれぞれの国のことばで福音を語りました。なぜでしょうか。
それは、福音を伝えるということは、ただことばを伝えるということではなく、ことばの背後にある人生の変革を伝えるということだからです。
ギリシャ語で、神、罪、救いを語れば、福音の内容そのものは、この集まった人々に十分に伝わったことでしょう。
しかし人々は、自分たちの国の言葉で語られている福音のことばを通して、自分自身のふだんの生活に働く神のことばの力を受け取りました。
「救い」とは何でしょうか。あなたの罪が赦された、永遠のいのちをいただいた、という約束でしょうか。もしそれだけだったら、人は変わりません。
救いとは、実際に私たちの人生が音を立てて変えられていくことです。私たちの人生、という教科書的なものではなく、あなたの人生です。
たとえば、福音を信じることによって、破れた家族関係も修復する、ということが言われます。しかし家族関係と一言で言っても、
それが老いた親の介護か、虐待を受けた子ども時代の傷のいやしか、子どもの登校拒否か、学校でのいじめか、それはそれぞれが違います。
まったく違う一人ひとりの人生に、しかしこの福音が切り込んでくるのです。人々は自分の国のことばで福音を聞き、それを体験したのです。
外国で長く暮らしている人は、自分の国のことばを聞くと、残してきた生活を思い出します。聖霊はそれぞれの国のことばで語られました。
福音は、それぞれの生きた生活に、それぞれのやり方で切り込んでくるのです。それは今日の私たちの証しにおいても生きています。
私たちは色々な形でイエス様に出会い、色々な経験を通してイエス様に日々近づきます。その体験を伝えるのが「証し」です。
自分の人生が、自分の生活が、福音によって変えられたいと願いますか。ではイエスこそ救い主であるとはっきりと告白しましょう。
イエス・キリストが私たちの人生の中心に入ってくださるときに、私たちの人生は救いという名前にふさわしいものへと変えられていくのです。

3.
 しかし人々が何よりも驚いたのは、この驚くべきことばを語っているのが、ユダヤ人の社会ではさげすまれていたガリラヤ人であることでした。
神は、小さな群れ、世には取るに足りないと思われている人々を通して教会を生みだし、世界を取り返す戦いを始められました。
罪の世に響き渡る轟音をもってサタンに宣戦を布告した神は、その武器である福音を防ぎうるものは何もないということを示されました。
その戦力はこの世では取るに足らないと見なされている人々でした。まさにこの、つい二ヶ月前までは震えていた弟子たちのように。
しかしイエスの復活、そして聖霊の降臨を経て、弟子たちは力ある勇士とされました。このペンテコステ以来、教会は成長し続けています。
聖霊によってみことばが語られ、それぞれにみことばが聞かれ、そしてみことばによって成長していく姿、それこそがペンテコステの本質です。
私たちは聖霊を与えられて信じた者たちです。それは私たちが聖霊の助けを得ながら、みことば、聖書のみことばと共に前進していくためです。
聖霊は、常にみことばと共に働きます。私たちが聖霊の満たしを求めるのは、みことばを聞いたことがない人が一人でもいないためにです。
この豊栄だけではなく、全世界の、まだ福音を聞いたことがない人々のために、今日も聖霊は働いておられます。
この一週間も、世界中に散らばるキリスト者の群と共に、みことばの剣と、聖霊の力をいただきながら、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 19:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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