先日、もと一部上場のIT企業に勤めていたO川牧師の証しを聞く機会がありました。マルカワでなくオーガワです。
あ、名前出しちゃった、ごめん。勤務先のイメージはたぶんこんな感じです。行ったことないけど。

O川先生はサーバーの保守管理が担当だったのですが、サーバーの調子が悪いと決まって後輩がやってきて、
「O川さん、いつものアレ、頼みますよ」と言われたそうです。
アレというのは「お祈り」です。そこでサーバーに手を置き、イエス様のお名前によって祈ります、アーメン。
すると必ずサーバーの調子が良くなり、「O川さん、イエスさんってすごいっすね!」と言われたそうです。
技術の粋を集めたIT企業とお祈りというミスマッチに、それを聞いた私たち(アナログ牧師)はみな爆笑。
ところが、じつはIT企業のサーバールームでは、まさに霊の戦いが起こっていることが、あるマンガに掲載されていました。
サーバーに魔よけのお札を!? 神頼みのIT企業描くギャグ漫画に「案外ウソでもない」と業界から証言
著作権の都合で、画像を紹介することはできませんが、こういう業界だったんですね。
IT業界で働いているクリスチャンの方々のために祈りたいと思います。がんばれ〜
ところで明日(土曜日)は新潟の下越を聖火ランナーが走ります。現場には行けませんが、応援しています。週報はこちらです。
1.
今日のメッセージは、ペンテコステに起こった出来事について、前回に引き続きもう少し振り返ってみたいと願います。
イエス・キリストが天に昇られてから十日目、ユダヤ人にとって律法への感謝をささげる記念の祭りである五旬節の日、聖霊が下られました。
これは弟子たちの熱心な祈りが呼び寄せた奇跡ではありません。神さまの永遠の救いのカレンダーの中に初めから組み込まれていたものでした。
しかし弟子たちは、日々聖霊を求めて祈ることを通して、五旬節の日に聖霊が下ることの確信に満たされていたことでしょう。
なぜなら、私たちも祈りの中で同じ経験をするからです。求道者の救いのために祈るとき。教会から離れている方々の復帰のために祈るとき。
この豊栄、新潟、日本の1億人以上の同胞が福音に心開かれるように祈るとき。
祈りの後、私たちは決して砂をかむような空しさは感じません。
私たちの祈りは、すでに私たちの祈りですらなく、内なる御霊がうめきをもって私たちの心に与えてくださった祈りであるという確信を持ちます。
そして私たちの唇を通して、父なる神にささげられた祈りを、天でイエス様もとりなしてくださり、かぐわしき香として立ち上っていると感じます。
祈りには、力があるのです。それは私たちが持っている力ではなく、信じた者たちの中に生きておられる聖霊が与えてくださる力です。
ともあれ、この五旬節の日、聖霊が燃える舌のように弟子たち一人ひとりのうえにとどまり、彼らは聖霊の炎によって新しく作り変えられました。
そして集まってきたたくさんの人々の前で、この集まってきた人々の国のことばで、神の大きなみわざを語りました。
彼ら弟子たちのほとんどは、外国語を話すことのできないガリラヤの人々でした。しかし神はこれらの者たちを宣教のために用いられたのです。
2.
このペンテコステの奇跡は、今も続いています。
聖霊の働きは決してやんでしまったわけではありません。今日も、世界中でみことばが力強く前進し続けています。
20世紀にはクリスチャンがわずかであった国々で、いま福音による大波が起こり、その国々を揺り動かしています。
東南アジア、中国、インド、アラブの国々、アフリカ、かつては仏教、イスラム教、ヒンズー教が支配的だった国々が、変わりつつあります。
世界の中でこの日本だけは、キリスト教は何も変わっていないではないか、とため息をつきたくなるかもしれません。
しかし忘れてはならないことがあります。神は奇跡を起こされます。しかし奇跡の目的は、みことばが広がっていくためであるということです。
二千年前のペンテコステの日、人々が驚いたのは、ただ弟子たちが自分の国の言葉を話しているということではありません。
彼らが、自分の国の言葉で、神の大いなるみわざを語るのを聞いて、彼らは驚いたのです。聖霊の力は、常にみことばのうえに働きます。
この21世紀において、世界を揺れ動かしている奇跡の本質は何でしょうか。そしてこの日本でこれから起こる奇跡は一体何でしょうか。
それは、神のことばが、どのようなところへも、あらゆる手段、あらゆる人材を経て語られ、あらゆる人々をみことばが飲み込んでいくことです。
神のことばだけが、罪人に罪を気づかせ、罪から離れさせる力を持っています。神のことばだけが、人のたましいを新しくすることができます。
私たちは、それを経験したからこそ、こうして礼拝に集まり、今日もキリストに従う喜びを与えられています。
これは御霊が与えてくださった奇跡と言っても、何ら差し支えありません。御霊は、いまも静かに、しかし確実に、私たちを変え続けています。
ペテロは、さきほど朗読した説教のなかで聴衆に対し、「あなたがたがこのイエス・キリストを十字架につけたのだ」と繰り返しています。
まず23節、「このイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」
聴衆である離散ユダヤ人にとって、この指摘は的外れなものと思われても仕方ないものでした。
イエス・キリストを十字架につけた出来事は、自分たちとは関わりのないところで、このエルサレムの宗教指導者によって引き起こされたもの。
彼らはそう考えていたことでしょう。しかしペテロははっきりと語るのです。あなたがた自身がこのイエスを十字架につけたのだ、と。
さらに36節でも彼の言葉は容赦ありません。「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
3.
ここで私の経験をお話しさせてください。私が卒業した大学は新発田市にあるミッションスクールでした。
一年生のとき、宗教主任の教授に依頼されて、クリスマス礼拝の中で短く救いの証しをすることになりました。
ところが短くと言われたのに、作った原稿が長すぎました。事前にその先生立ち会いのもとでリハーサルをしたとき、50分も語っていました。
それを10分に縮めろと言われ、私としては切る言葉などない、と思いましたが、それでもとにかく言葉を切って切って、10分にまとめました。
しかしその証しをした翌日、図書館で会った、あまり親しくない友人にこう言われました。「昨日のは、俺には関係ない話だよな」。
そのとき、こう思いました。たしかに準備は丹念に行い、原稿も何度も作り直した。このために教会の方々にも祈ってもらった。
でも証しがだれかに伝わるかどうかは、人の力や言葉ではないんだ、神さまが働いてくださらなければならないのだ、と。
その後も大学の四年間のなかで、聖書や自分の経験について様々な人に語りました。
聞いてくれる人もいれば、鼻で笑われたこともありました。クリスチャンの方々はきっと今までの信仰生活の中で、同じ経験をしたことでしょう。
人の心を変えることができるのは聖霊なる神だけです。私たち人間に人を救うことはできません。
しかし聞いてもらえても聞いてもらえなくても、私たちは「語る」ことを神から委ねられています。
私は、救うためではなくて語るために召されました。救うのはイエスと御霊です。しかし語ることは、内なる御霊が私に与えられた使命です。
ペテロが語ったとき、御霊が人々の心を刺し貫きました。彼は「あなたがたがイエスを十字架につけた」という厳しいことばを躊躇しませんでした。
じつに三千人という人々がその日、救われてバプテスマにあずかりました。それは、ペテロが語るべきことばから逃げなかったからです。
人々に、罪をオブラートでくるんでやんわりとした福音を与える誘惑の中に彼は逃げ込みませんでした。
罪の悔い改めを必要としている人に罪を語り、慰めを必要としている人に慰めを語る。それは人には見抜きにくいことです。
しかし何を語るべきかは内なる聖霊が示してくださいます。そして語るべきことばを語るとき、そこに聖霊が働いてくださるのです。
結.
今日、この世界は白か黒かをはっきりとつけることを嫌がります。いのちか死か、救いか滅びか、それは人々が求めるものではありません。
しかし人々が求めていなくても、人々が必要としているものは、確かないのちなのです。ですから私たちは語っていかなければなりません。
ペンテコステの日に起こった3000人の回心から今日まで、二千年の歴史の中で、みことばは常に前進を続けています。
それは、この日本では止まってしまっているのでしょうか。決してそうではありません。その鍵を、神は私たち自身に握らせてくださいました。
私たちに与えられた祈りを通して、神はこの日本にも、私たちを通してご自分のみわざをなしてくださいます。だからこう祈りましょう。
それぞれの教会に与えられている牧会者が、みことばを語るときに恐れることなく、罪と悔い改めと恵みを大胆に語ることができるように。
クリスチャン一人ひとりがそれぞれの生活の中で語る証しが、みことばによって変えられた喜びをはっきりと語るものとなるように。
私たちのまわりにいる人々が、この日本においてまことのたったひとりの神が生きておられることに気づくように。
救いを求めて教会を訪れた人々が、自らの罪を認め、罪からの解決がイエス・キリストにしかないことを知り、信じることができるように。