こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
新型コロナウイルスへのワクチンがいよいよ若年層にも解禁となりました。オリンピック・パラリンピックも国民的コンセンサスがとれていないように思えますが、このまま開催という運びになるのでしょうか。
私が左足を切断したのが1987年でしたので、今から三十年以上も前の時代でした。当時はパラリンピックという言葉なんてなかったよなあと思ってウィキで調べると、1988年のソウルオリンピックで初めてパラリンピックと呼ばれるようになったそうです。当時は義足のランナーがこんなに早く走ることができるということは考えられないことでした。
今日、肢体障がい者に対する福祉サポートは、昔では考えられないほどに手厚くなっています。おそらく今パラリンピックの義足ランナーが使っている義足を当時手に入れようとしたら、(義肢に使われている技術レベルが比較にならないので粗い想像ですが)一千万円はくだらないことでしょう。しかし今は、相当のところまで保険で賄うこともできますし、かつてのように手足を失うことによる精神的ショックは、今と当時とではずいぶんと違うだろうなと思います。
その意味では、肢体障がい者にとってはいい時代になった、と言えるかもしれません。しかし、もし私が今の時代に左足を失っていたとしたら、信仰(教会)に導かれていただろうか、ということを考えます。左足の切断手術を終えた夜、幻肢痛というどうしようもない痛みにうなされました。今は亡き母が、夜通し、ない足をさすってくれたことを思い出します。すべてが悪夢であってほしい、夢ならさめるから、と考えました。しかしそのような闇を通ったからこそ、私がキリストに出会うことができたのだ、ということを思うと、もちろん世の中の多くの人々からは一笑に付されるかもしれませんが、足を失い、その後、数年間、人生の答えを求めて彷徨したことも、私にとっては、幸いであったのだろうと考えます。
今、パラリンピックで活躍している方々を揶揄するつもりは一切ありません。常人には想像もつかないような努力を積み重ねておられるのだろうと思います。しかしたとえ風切るスピードで走ることはできなくても、私も、別の方法で、それらの方々のように走り続けています。この先に何が待っているのかはわかりません。ですが、説教壇でのメッセージを一つ一つ大切にしながら、最後の時までみことばを語ることに力を注ぎながら歩んでいきたいと思います。
オリンピックも、パラリンピックも、あらゆる人々に祝福されるかたちで開催できたら、一番いいですね。祈りましょう。週報はこちらです。
1.
先週の礼拝メッセージでは、生まれたときから足が不自由だった人の上に起きた、神のいやしの奇跡について語りました。
生きているのに、まるで遺体のように扱われる生活に甘んじることで、彼は自分自身の心や目もまるで死んでいるかのように塞がれていました。
しかし、神がその場に導いたペテロの一言で、彼の人生は一瞬にして変わりました。「ナザレのイエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩け」。
彼の体の中から、いままで味わったこともなかった力がむくむくと湧き上がってきました。
生まれて初めて立ち上がり、生まれて初めてスキップし、生まれて初めて神を賛美し、生まれて初めて神殿への門をくぐりました。
人々は彼に起こったことを知り、驚きます。それもそのはず、昨日まで絶望のただ中にいた人が、今文字通り生まれ変わったのです。
これが驚かずにはいられるでしょうか。しかしペテロは人々に、それこそじつに驚くべきことを言うのです。12節をご覧ください。
「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」。
生まれつき歩くことのできなかった人が、立ち上がって神を賛美している。なぜ驚くのかという質問こそ驚きだ。だれもがそう思うでしょう。
しかしペテロの問いかけの中心は、後半にこそあります。
「どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」ペテロは言うのです。
「今、あなたがたが見ている奇跡は、人の力が微塵も加わってはいない、100%神のわざなのだ。神にとって不可能なことはひとつもない。だから驚いてはならない。むしろあなたがたも知っている、この生まれつき足の不自由だった人に起きたことが本物であることを受け入れなさい」。
そして16節のことばは、みなさんにも心の中に刻みつけていただきたい、大事な言葉です。
「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」
2.
多くの人々が、「私の信仰」という表現を用います。私の信仰は貧弱なものです、私の信仰はそんなに強くありません、といった具合に。
しかしペテロは言います。この人を変えたのは、「イエスによって与えられた信仰」だと。この人から出たものでも、私たちから出たものでもない、
ただイエスによってこの人に与えられた信仰が、この人のからだを生まれ変わらせ、このとおり完全なからだにしたのだ、と。
信仰というものは、私たちの中から生まれ出たものではありません。恵みによって、神さまから私たちに与えられたものです。
そうであれば、「その名を信じる信仰」というのも、この生まれつき足の不自由な人から生まれたものではなく、神からのもの、ということでしょうか。
実際にそうなのです。先週の物語の中に詳しく語られていましたが、この人は最後まで「施し」だとか「何かもらえると思って」という人でした。
施しよりも大事なものがあるなどと露ほどに思ってもいなかったし、ペテロたちに求めたものも霊的なものではなく、明らかに金品でした。
しかし神のあわれみは、この人に対してしっかりと向けられていたのです。
そしてイエスの御名がこの人に対して語られたとき、その言葉は決して地に落ちませんでした。
なぜなら、イエス様が、彼の中に信仰を与えてくださったからです。
だから私たちは、誰かがイエスを信じるということに対して希望を失うことはなく、イエスの救いを語るのにあきらめるということはありません。
人の目には、何度福音を伝えてもみことばに対して無感覚に見える人々がいます。
しかしその日、その時、その人自身ではなく、イエスの信仰がその人のうちに与えられ、人生が変わるという可能性は決して否定できないのです。この「イエスの御名」が語られて、さらにイエス様から信仰が与えられるときに、信じた者たちは山をも動かすことができます。
この「イエスの御名」を聞いた人の中に、イエス様が与えられる信仰が働くとき、霊的に死んでいる人々さえ、いのちの道へと引き上げられます。
その人が自分の信仰と信じるものは、得てして人間の情熱や行動力であることが多いのです。
むしろ信仰は、私ではなくイエスが与えてくださるものであって、自分の情熱や力が死ぬときに、イエスの信仰が発揮されることを覚えるべきです。
3.
では、「イエスの御名」に生きる信仰とは、具体的に何を指しているのでしょうか。
『使徒の働き』19章の中に、非常に示唆に富んだ話があります。その頃、神は使徒パウロを通して様々な奇跡のみわざを行われました。
それを見ていた魔除け祈祷師の者たちが、ためしに悪霊につかれている者に対して主イエスの御名をとなえ、
「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたというのです。
すると何が起きたでしょうか。悪霊が答えました。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」。
そして彼らにとびかかり、服をひんむいた上、傷を負わせたので祈祷師たちは逃げ出した、とあります。
誤解を招く表現になりますが、「イエスの御名」そのものに力があるわけではありません。
もしそうであったら、その偽祈祷師たちが語るイエスという名前の前に、悪霊たちは震えおののいたことでしょう。
しかしイエスの御名に生きる信仰とは、呪文のように「主よ、主よ」と繰り返すことではありません。自分を殺し、イエスと生きることです。
私はこれだけよくやっているという誇り、自分の中から努めて絞り出す力、それらに依存しているあいだはイエスの御名は無力です。
自分自身が誇りとするものがすべて砕かれ、何も誇るものがない、空っぽの自分を認めるとき、
そこにイエスが与えてくださる信仰が私たちを内側から励まし、イエスの御名がどのような現実の苦しみも打ち砕きます。
ペテロはここでも、人々がイエスを十字架につけて殺したことをためらうことなく語っています。
自分自身の罪に真っ正面から向き合い、自分の心の暗い奥底をのぞき込んでこそ、イエス様は私たちに信仰を与えてくださいます。
生まれつき足の不自由な人のなかに、どのような罪の自覚や、霊的葛藤が起こり、いやしが生まれたのか、すべてを知ることはできません。
しかし生まれながらに差別をされてきたなかで、彼は人としての誇りや力もなく、ただうつろな人生を繰り返してきたのでしょう。
その彼の心を神は選んでおられました。施しを求めることでしか生きる意味を持っていない彼を、神は信仰によって立ち上がらせてくださいました。
あなたの人生を、あなたの生活を見つめ直してください。自分の知恵、自分の判断、自分の経験、それに頼ってはいないでしょうか。
そしてそれを信仰だと誤解していることはないでしょうか。信仰は、常に私たちは赤子のように何も知らない者なのだと自分に認めさせます。
しかしイエスが与えてくださる信仰が、私の心を包み込むときに、私は生きる。一歩一歩、キリストに似たものとされていく。
その恵みを味わって生きていきたいと願います。
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