こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
週報はこちらです。
1.
古い話になってしまいますが、私が市役所に入ったときの市長の訓示に「知らないことは罪である」という忘れられないフレーズがありました。
「あなたがたはこれから数ヶ月は、自分の担当する仕事を覚えるのが精一杯かもしれない。
しかしこの市役所に来られる方々にとって、あなたがた新入社員も、ベテランの職員も、みな同じに見える。
年金はどこで聞けばいいですかと質問されて、さあ私の担当ではないのでわかりませんとか答えたら、市の職員全体に対する評価が下がる。
だから一日も早く、市役所全体の仕事を覚えなさい。そしてどんなことにも答えられる人材になりなさい。知らないことは罪である。」
市のトップから「罪」という言葉が出ると思わなかったので、四半世紀経った今でも、鮮烈に覚えています。
ペテロは、知らないことは罪である、とは言っていません。代わりに、知らなかったがゆえに、あなたがたは罪を犯した、と言っています。
17節、「あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています」。
イエスを十字架につけた宗教指導者たちは、このイエスこそ旧約聖書に約束された救い主であると知らなかったがゆえに、イエスを殺した。
しかしイエスを殺したという罪は、果たして宗教指導者たちだけの責任なのか。違うだろう、とペテロは言うのです。
たとえ直接手をかけなかったとしても、あなたがた一般の人々も、このイエスを見殺しにしたのだ。
このイエスが救い主であることを知らなかったゆえに、あなたがたも罪を犯したのだ。しかしただそれだけでしょうか。
もしこのペテロの説教を録音で聞けたとしたら、それはきっと口から泡を飛ばし、矢継ぎ早に人々の罪を指摘するものではなかったはずです。
むしろ、まるで自分自身に語りかけるように、人々に語りかける、ゆっくりとした、しかし心に迫るものではなかったでしょうか。
あなたがたは無知のゆえにイエスを十字架にかけた。しかし私、ペテロもまた、イエスが救い主であると知らなかったひとりであった。
知らないでイエスを十字架につけた者であった。知らないで十字架の前から逃げ出した者であった。知らないでイエスを見捨てた者であった。
ペテロはかつて、イエスから「あなたはわたしをだれというか」と質問されたことがありました。そのとき、「あなたは神の子キリストです」と答えました。
するとイエスは、「その告白は、あなたから出たものではなく、神からのものである」と言われました。
その言葉の通り、ペテロは本当の意味では、イエスが神の子であり救い主であることを知らなかったのです。
もしかしたら彼はおそらく目に涙を浮かべながら、目の前の人々に語ったのではないでしょうか。
「兄弟たちよ。私もあなたがたと同じだったのだ。私もまた、無知のためにあのような行いをした一人なのだ」。
2.
だからこそ、ペテロの説教には力があります。自分は高いところにいて、あなたがたと私は違うという見下した目線で語ってはいないからです。
確かに「あなたがた」と呼びかけてはいます。しかしペテロが心の中で呼びかけていることばは「私たち」です。
あなたも私も、私たちは知らないで罪を犯した。どうすればその罪をぬぐい去ることができるだろうか。
しかし、私はその方法を知っている。だからあなたがたにそれを伝えたい。彼は語ります。19節のみことばをお聞きください。
「ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます」。
「ぬぐい去られる」とは、ただ赦されるという意味ではありません。罪を完全に消し去って、はじめからなかったことにしてくださるということです。
神は、私たちが一生のあいだに犯した罪を記録して、前科何犯、でも赦そうという方ではありません。
キリストの御名を通して悔い改めるならば、それまでのすべての罪は消し去られるのです。
神の前においては、その罪ははじめからなかったことのように覆われ、そして神は二度とそれを思い出さない、と宣言されるのです。
悔い改めるとは、ただごめんなさいということではありません。人生と生活の方向を変えることです。しかし自分では変えられません。
しかし私たちが心から悔い改めの祈りをささげるとき、それは私たちの告白ではなく、神が与えてくださったものなのだと聖書は約束しています。
決して自分では罪がわからない、罪人に、罪をわからせ、悔い改めへと導かれるのは、信じた罪人の中にいる聖霊のみこころに他なりません。
聖霊が私たちと共にうめき、イエスの御名を通して、父なる神に赦しを請われます。それを神が聞いてくださらないはずがありません。
人間の、口先と、かたちだけの悔い改めならば、私たちはまた同じことを犯すかもしれない、という恐れと不安に襲われるでしょう。
しかし人が人前でかたちだけの謝罪をするのと、誰も見ていないのに神に向かって悔い改めの祈りが生まれるのとは、まったく違うのです。
もし私たちが神に対して悔い改める思いが生まれたならば、それはすでに私たちが罪に勝利している証しです。
だからもしもう一度同じ罪を犯すようなことがあっても、それでもなお私たちは絶望することがありません。
必ず神が、私たちの生き方を変えてくださるという希望がそこにはあるからです。
3.
ペテロの説教は、罪の悔い改めに始まり、やがてイエスがこの地上に戻ってこられることもまんべんなく語っています。
しかし今日のメッセージを閉じるにあたり、最後の26節のみことばをかみしめましょう。「神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです」。
立てられた「しもべ」とはイエス・キリストのことです。このイエスが、私たち一人一人を悪から立ち返らせ、祝福にあずからせてくださいます。
まず自分自身が悪であると認めなければなりません。
口で言うことは簡単ですが、人が神の恵みを受け取るのに最大の障害が、自分が悪、すなわち罪人であると認められるかどうかなのです。
多くの人々が、自分は罪人ではない、決して邪悪な存在ではないと考えます。
しかし神さまの目から見たら、どんなにまじめな人も、どんなに謙遜な人も、邪悪さの中に歩んでいることに変わりがありません。
それが罪の中に生まれてくる、あらゆる人間の変わりない姿なのです。
それは、生まれた時から暗い地下室で育てられ、そこから出たことのない人のようです。
その地下室の薄暗さだけを世界の明るさと思うでしょう。世界はもっと明るいんだよと言われても信じないでしょう。
天井からつり下げられた、石油ランプのほの暗いともしびさえも、太陽だと勘違いするでしょう。
それが、私には救いは必要ないと、福音を拒絶する全人類の姿です。霊の目を開けば、まぶしい光があるのに、それをあえて知ろうとしません。
しかしどうしようもない闇の中にうずくまり、救いも本当の祝福もわからない私たちのために、イエス・キリストは私たちのもとへ来てくださいました。
すべての問題の解決は、このイエス・キリストを救い主として信じることにあります。
イエスを救い主と知らずに十字架につけた自分の罪を悔い改めるとき、そこから本当の世界が開けていきます。
それは生まれつきの罪人が体験したことのない、喜びに満ちた世界です。
永遠のいのちへの希望があふれ、どんな罪であろうとも、悔い改めの喜びの中で、私たちを支配する力を失います。
神の子とされた喜びが私たちの唇を開いてイエスという名を叫ばずにはいられなくなります。
どうかあなたも今日、イエス・キリストを救い主として受け入れてください。
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