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2021.6.27主日礼拝説教「奇跡の人」(ヨハネ9:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
 今回のヨハネ9章は、私にとってとりわけ思い入れの強い聖書箇所です。私は神学校3年生のときに初めて豊栄教会でメッセージをしましたが、2回目に来たときに、自分の救いの証しを含めて、この箇所から説教しました。そしてその翌年、新潟の各教会を講壇交換で回ったときには、必ずこの説教を持って行って、自己紹介の代わりとしました。
 今回の説教は、それから20年近く経って、またはじめから作り直したものです。救いの証しは教会でその後何度も語っているので割愛しましたが、それでも40分という長い説教になってしまいました。
 19年前、新潟のある教会でこのヨハネ9章のメッセージを語ったとき、しばらくしてそこの信徒さんから長い手紙をいただき、「感動した」という賞賛をいただきました。説教でほめられたのは、あれが最初で最後ですね。それがよいと思います。説教者が、この説教でみこころを語ったと思えるときは、だいたい人には不評なことが多いですから。でも、その、一回だけ、説教者人生の中でほめられたことも、20年間の一千篇以上の説教を生み出してきた日々の糧になっていることも確かです。
 ヘレン・ケラーの誕生日に合わせて説教を作ったのではなく、説教を作った後にふさわしい例話がないか探していたら、たまたまヘレン・ケラーの誕生日でした。私ら40代(あと4ヶ月で50歳!)にとって、ヘレンと言えば、『ガラスの仮面』で北島マヤが井戸水をかぶって「ウォーター!」と叫ぶシーンを思い出すのですが、あれは後代の創作だそうです。その時点では、そこまではっきり発音できなかったようで、「w」から始まる奇声を上げたとのこと。それでもすごいと思いますが、「奇跡の人」はヘレンではなく、サリバン先生。
 うんちくも学ぶことができる、豊栄キリスト教会の説教を今後もご期待ください。週報はこちらです。
water.jpegコピーライトマーク美内すずえ・白泉社
よく見たら「ウォーター」って言ってませんね。子どもの頃見たときには、確かはっきりと言っていたような気がしたんですが。修正がかかったのでしょうか



1.
 今日、6月27日をたまたま調べてみたら、三重苦の聖女と呼ばれた、ヘレン・ケラーの誕生日だそうです。
今から140年前にアメリカに生まれたヘレンは、生後1歳半のときに高熱を出し、視力と聴力を失いました。
この二つが失われると、言葉をおぼえ、口にすることも困難になります。両親はヘレンを教えることをあきらめ、彼女は甘やかされて育ちました。
その結果、7歳になる頃には手のつけられない、まるで獣のような少女になっていたそうです。
困り果てた両親は、聴覚障がいの第一人者であるグラハム・ベル、−彼は電話の発明者としても知られています−に相談し、
ベル博士がヘレンの元に派遣したのが、弱冠20歳のアン・サリバンという家庭教師でした。
ヘレンはサリバンとの出会いを通して、視力と聴力、そしてことばを、まさに取っ組み合いのけんかのようなところから取り戻していきました。
彼女が人生を取り戻していった物語は、「奇跡の人」というタイトルで、この100年のあいだ、何度となく映画や演劇で取り上げられました。
今日の説教のタイトル、「奇跡の人」も、それに便乗してつけさせていただいたものです。

 「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
当時のユダヤ人は、障がいをもって生まれてくるのは、親や祖父、曾祖父の代まで遡り、先祖の罪のせいとする考え方がありました。
ものごとの結果には、その原因となるものが必ずある。不幸の背後には、その原因となる罪がある、これを因果応報と呼びます。
さらにこれが昂じて、障がいをもって生まれてくる者は、母親のおなかにいたときからすでに悪いことを考えていた、という差別もありました。
聖書は、確かにすべての人は罪をもって生まれてくる、と教えています。しかしその罪が原因で、生まれながら障がいを持つということはありません。もしそうでなかったら、すべての人が例外なく、生まれたときに何らかの障がいをもって生まれてくることになるでしょう。
弟子たちさえも、このような差別を生み出す迷信じみた考えに支配されていました。しかしイエス・キリストは、はっきりとこう宣言されたのです。
「この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためだ」と。

2.
 イエス様は地面につばきを落とし、そのつばで土をこねて、この生まれつき目の見えない人のまぶたに泥を塗られました。
なぜそのような回りくどいことをされたのでしょうか。ことばだけで死人を生き返らせることのできるお方なのに、不思議です。
ある牧師は、つばきには不思議な力があるからだと語っていました。しかしそうであれば、つばきを直接まぶたにつければよいでしょう。
 私は、ここでイエス様はあえて手間をかけておられるように思います。特別な時間と手間をかけて、その人生に触れようとしておられます。
目の見えない、この人になったつもりで想像してください。目の前でぺしゃっという雨だれのような音がしました。
その後、だれかが自分の前でしゃがみこみ、何かをこねているようなぴちゃぺちゃという音がします。そして突然、まぶたに生暖かさを感じました。
誰も触ってくれなかった自分のまぶたの上で、誰かの指が動かされています。それは敵意ではなく愛情であることが指先を通して伝わってきます。
いったいこうやって愛情をもって自分のからだに触ってもらったことはいったい何十年ぶりだろうか。いや、そもそもそんなことが自分にあっただろうか。
そんなことを思いながら、誰かの指の感触に身を任せていると、やがて指が離れ、だれかが立ち上がる気配がしました。
しかしそのとき、その誰かがこう言ったのです。「行って、シロアムの池で洗いなさい」。
 イエス様にとって、この生まれつき目の見えない人に、「目を開きなさい」とことばで命じたら見えるようになる、という奇跡はたやすいことでした。
しかし私たちの人生を変えるのは、いやしや奇跡そのものではありません。神のことばそのものが私たちの人生を変えるのです。
そして神のことばが人生を変えるとは、神のことばが、私たちの今までの人生の亀裂に触り続けてくださる、ということです。
イエス様がこの人のまぶたに泥を塗られたその数分間は、彼の傷ついた人生に寄り添ってくださった、何年にも匹敵する数分間でした。
この人には、一瞬で目が開かれることよりも、彼の人生の痛みに寄り添ってくれる人が必要でした。たとえそれが数分間であったとしても。
シロアムの池は、エルサレムの都の外れにあります。堅い岩から切り出された33段にも及ぶ階段の先に、こんこんと水があふれていたそうです。
目の見えない人にとって、33段の階段を歩くということは簡単ではありません。しかもイエス様は、目が開かれると約束もしていないのです。
しかし彼はシロアムの池に向かいました。目が開かれるという約束ではなく、「行って洗いなさい」ということばが、彼の力の源でした。
あなたにとって、みことばとは何でしょうか。みことばが約束しているものにではなく、みことばそのものから喜びを受け取ることができますか。
信じて、生活が好転したらハレルヤ、信じても何も変わらなかったら意気消沈。みことばそのものに喜びを受け取る人はそういうことがありません。
一日ごとに今日は良い日、今日は悪い日、ではなくて、何があっても今日は神が与えてくださった最高の日と言える人生をいただきましょう。
みことばそのものを喜ぶことができる人、みことばそのものによって立ち上がることのできる人になりたいならば、まずみことばを聞くことです。

3.
 この人は、シロアムの池で目が開かれたことで、かえってイエスを憎んでいるユダヤ人たちの激しい攻撃にさらされることになりました。
それについてはこの9章の後半に書かれていますが、彼は決してイエスと出会ったことを恥じることはありませんでした。
彼の両親がユダヤ人を恐れて口をつぐんだなか、かつて目が見えなかったこの人は、他人に依存する生き方から解放されたのです。
代わりに、自分のことばと生き様を通して、イエス・キリストに対する信仰を力強く証ししていく人へと変えられました。
 イエスを信じて、自分の抱えている問題が即座に解決する人もいます。しかしあえて神が問題を残されて、苦しみ続ける人もいます。
しかしそのどちらであっても、信仰者に必ず起こることは、他の人を苦しみから解放するために遣わされていく人生へ変えられるということです。
説教の序盤で触れた「奇跡の人」は、ヘレンの自伝をもとに、ヘレン自身の監修のもとに作られた映画です。
しかしヘレンは、自分のことをさして「奇跡の人」と呼んだのではありません。自分に奇跡をもたらしてくれた、サリバンのことを言ったのです。
サリバン自身も、幼い頃、まったく目が見えませんでした。そして施設に預けられて、子どもながらに絶望した日々を過ごしていました。
しかしその施設で共に生活していたある看護師が、サリバンに毎日、聖書のことばをゆっくりと教えてくれて、彼女はイエスを信じました。
そしてあきらめていた視力回復の訓練も積極的に取り組むようになった彼女は、完全にではありませんが、ある程度の視力を回復しました。
その彼女が遣わされたのが、かつての自分のように荒れていた7歳のヘレン・ケラーであったのです。
表紙の写真では、サリバンはしっかり見えているようですが、実際は、彼女は一生涯サングラスを必要とする生活を送っていたそうです。
しかし彼女は20歳でヘレンに出会い、70歳で亡くなるまで、常にヘレンと共に生活しました。最後までヘレンのために生き抜いた人生でした。
 サリバン自身は、ヘレンほどの圧倒的な回復を与えられたわけではありません。
しかし彼女はイエスを信じて絶望の日々から解放されたとき、自分の人生を誰かのためにささげようと決めたのです。
神はその願いを叶えてくださいました。イエスを信じた者たちにとって、病や苦しみといったものでさえ、神のわざが現される舞台となります。
ある老牧師は癌に犯され、いよいよステージ4ということになったとき、医師からホスピスへの入院を勧められたが断りました。
そして家族にこう言いました。「クリスチャンがどのような死に方をするか、私が召されるまでのあいだ、見ていてほしい」と。
それからの数ヶ月、苦痛に耐えながら、しかし決して家族に不満をぶつけることなく、聖書をいつも手元に、静かに召されたそうです。
その地上の人生は、天で報いられることでしょう。どうか、イエス・キリストにあって生きる人生のすばらしさを味わってください。
posted by 近 at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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