こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
熱海市はじめ、全国の豪雨災害の中で被害を受けられた方々の上に、主の癒しと回復がありますように。
かく言う私も、明日(土曜日)は新発田朝祷会での早天メッセージです。今までは地元のミッション系大学の施設を利用していましたが、一月前に主催者から連絡があり、コロナ対策のために、「新発田城公園の中にある東屋(あずまや=吹きさらしの休憩所)で行います」と連絡がありました。
明日、降水確率90%の上に、新発田市の上に巨大な雨雲があるようなのですが、どうなるのか、未だに連絡がありません。おそらく皆様がこの更新したブログを見ている頃には、もう終わっていると思いますが、主日に喉を痛めていないようにお祈りください。
(7/10追記 朝祷会の時間帯[7:00〜10:00頃]、天候は落ち着き、無事に野外説教を行うことができました。公園のあずまやを朝祷会で一時占拠してしまいましたが、ごめんなさい。城(やぐら)をバックに説教というのも、なかなか新鮮でした。)
週報はこちらです。
1.
十年くらい前のことですが、私の経歴を知る知人から、「市に陳情に行くんだが、口をきいてもらえないだろうか」と頼まれたことがありました。
私が市役所で働いていたから、コネを期待したようですが、たった四年しか働いていないのに、そんなものがあるわけありません。
その代わり、市役所の人間を落とす方法を教えました。知りたいですか。「何度断られても、毎日、同じ時間に、通い続ける」ということです。
最初は「書類が必要」「資格が必要」、門前払いであっても、「あんた、また来たの」と呆れられたら、そこからが本当の勝負だ、と。
「また来たの」は顔をおぼえた証拠、ここからいかに誠実に訴えるかが、書類は不十分だけどこの人なんとか助けてあげたい、という関係になる。
自分の経験も踏まえて、そんなアドバイスをしたのですが、その後どうなったか一切報告もないので、信じるか信じないかはあなた次第です。
この聖書箇所を何度も味わう中で、そんな昔話が思い出されました。もちろん、役所の人を、不正と言っているわけでは決してありません。
「不正」とは文字通りの不正ではなく、「この世の」という意味です。ここではユダヤではなくローマ帝国の裁判官がイメージされているようです。
栄転か左遷かわかりませんが、外国で適当に陳情をあしらっていた裁判官と、それでもあきらめずに、ひたすら食い下がった、貧しいやもめ。
たいへん、胸がすかっとするたとえ話です。不正な裁判官でさえ、あきらめずに食い下がっていけば、動いてくれる。
ましてや父なる神はなおさらだ。神の子どもたちが熱心に祈り続けるならば、神が動いてくださらないはずがないではないか。
しかし、そのような結論になってしまうと、このたとえ話の中で最も大事なことを見落としてしまう可能性があります。
この不正な裁判官と、父なる神さまはまったく逆だからです。神は人の情熱に動かれて、ご自分が動かれる方ではありません。
この世界が作られる前からすべてを定め、ご自身の計画された時とみこころに従って、ことを行われるのです。
私たちがいつも熱心に祈り続けることで、さばきのために神を立ち上がらせることができる、ということでは決してないのです。
2.
しかしだとしたら、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」という導入部分は、どう理解すべきでしょうか。
それに答える前に、まずこのたとえ話が、直前の17章から一続きとして語られているものだということを思い出さなければなりません。
申し訳ないことに、この礼拝説教で17章を扱ったのが半年以上前のことですので、みなさんが忘れていても仕方がないのですが、
17章の最後のところは、イエス・キリストが再びこの世界に戻ってこられる、いわゆる再臨の時に起こることについて語られています。
ですから、「いつでも祈るべきで、失望してはならない」という命令、決してあきらめなかったやもめの姿、
これらは一貫して、再臨が一日でも早まるようにと失望せずに祈り続ける、クリスチャンの生活態度を表しているのです。
しかし再臨は、それこそ神のオリジナルカレンダーの中に刻まれている出来事であり、私たちの祈りによって日程が決められるわけではありません。
それでもなお、この再臨の時を何よりも心待ちにしながら、いつ主が来られてもはせ参じる、そのようなクリスチャンになりたいと思うのです。
再臨は、多くのクリスチャンにとって、何かぼんやりとしたもので終わっていることでしょう。
再臨が私たちにとって具体的なものになるかどうかは、私たちが、この世界をどのようなものと考えているか、ということにかかっています。
確かにこの世界には、美しいもの、尊いものが溢れており、ひとり一人の人間はそこで傷つきながらも懸命に生きています。
しかしクリスチャンとは、この傷ついた世界から、イエスの十字架の犠牲によって選び出された者たちです。
この世界をあわれんで手を伸べますが、私たち自身が再びこの世界に安らぎを見いだすものでは決してありません。
この世界のどんな美しい人も、崇高な思想や、言葉や行動も、罪によって完全に人が汚れてしまった今、神を喜ばせることはできません。
人が生きるこの世界は、悲しいことですが、神をまったく喜ばせることはできないのです。作り変えられなければならない、不義の世界です。
3.
この世界をそのように見つめる視点は、あまりにも極端でしょうか。もしそうだとしたら、この視点のゆえにイエスは世に拒まれたのです。
キリストは、この世界を愛しておられました。しかしその愛は、この世に何年もとどまってこの世を変えていくという道には向かいませんでした。
むしろイエスは、時間ではなく行動によってこの世界を救い出される道を選ばれました。それが十字架です。
しかし十字架がこの世界を救う最終的な解決ではありません。さらに復活、そして再臨によって、この世界の救いは完成します。
イエスが再び来られ、この世界がまったく新しいものとして作り変えられる以外に、この世界を完全に救い出す方法はないのです。
深夜、病院に血だらけの妊婦が運ばれてきました。このままではおなかの子どもも、母親もどちらも死んでしまいます。
夫が手を握っています。看護師も点滴を打ちます。しかし医師がいません。どうしたらこの子と母親、両方を助けることができるでしょうか。
医師が一刻も早くかけつけ、手術をしてくれる他に、あらゆることは延命策でしかないのです。
瀕死の母子(おやこ)はこの世界のたとえです。夫はこの世界が生み出した人間の英知や美徳です。しかしそれらはこの世界を救えません。
看護師は、教会、クリスチャンです。この世界のために自分の力を最大限費やすことができます。しかし世界を完全に救うことはできません。
この世界を完全に救えるのは、再びこの世界に降臨されるイエス・キリストだけです。これが再臨。そのとき、この世界は作り変えられるのです。
多くの人々が再臨を誤解しています。ある人がこう言うのを聞きました。再臨でこの世界が終わるのならば、永遠に来ない方が良い。
なぜ聖書と正反対の言葉がクリスチャン自身から出てくるのでしょうか。この世界の苦しみや痛みを中途半端にしか見ていないからです。
人間の努力や技術では、この世界から苦しみを取り除くことはできません。再臨がなかったら、世界は、いつまでも苦しみ続けるのです。
もちろんある人々はこう言うでしょう。「でもキリストを信じていない、世界の大多数の人々は再臨の時に滅ぼされてしまうのでしょう?」
そのとおりです。だから私たちは伝道します。そのような人々をひとりも作らないために、私たちは神さまに使命を与えられたのです。
地域に仕える、というのは大事なことです。世界を救おうという者たちが最初に始めることは、自分の家族、地域、職域からです。
しかし私たちの目標は、そこで終わりではありません。この世界を救うことです。そしてそれは再臨の日、完全に実現するのです。
結.
イエス様の言葉を繰り返します。
「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」
ここでイエス様が言われたのは、私たちクリスチャンが、昼も夜も神に叫び求めれば、神が動いてくださると言っているのではないのです。
ここにある「選ばれた者たち」の姿は、命令ではなく本質です。
神の子どもたちは、この世界が完全に贖われるために、昼も夜も叫び求めずにはいられないのです。
救われた者は、この世の不公平、不条理な現実に対して、作り笑いを浮かべていることはできません。
人々を支配し、闇の中にとどめているあらゆるものに対して、憂い、声を上げざるにはいられません。
世の中がどれだけ荒れていても、教会や家庭はみな信者ばかりだから幸せ、とは、決してなりません。
すべての人間が幸福になるまでは、どんな人も幸福にはなり得ない、という言葉がありますが、そのために私たちは日夜叫びます。
だから、クリスチャンはこの世界で貧しく、虐げられている人々のために、自らをささげ、仕えることを喜びとします。
しかし世界の腐敗を遅らせることはできても、世界の腐敗の根源を取り除くことはできません。それができるのは、再臨のイエスだけです。
イエス様は最後に言われました。「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
これは、イエスが来られるときに信仰者はいなくなっている、という意味ではありません。信仰を守り続けていくことの厳しさを現しているのです。
しかしキリストを心から信じて救われた者たちから、御霊は決して離れることがありません。困難ではあっても、そこには喜びがあります。
再臨は、今日かもしれませんし、数百年後、数千年後かもしれません。しかしいつでも目を覚ましておくように、とイエスは命じられました。
私たちが地上で行うすべてのわざが報われ、この世界があらゆる悪から完全に贖い出されるのが、再臨の日です。
たえず祈り、失望せずに歩んでいくことは、クリスチャンの生き様の本質です。
今日も、明日も、祈り続けましょう。決して失望せず、あきらめることなく、「主よ、来てください」と叫びましょう。
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(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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