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2021.7.11主日礼拝説教「私をあわれんでください」(ルカ18:9-14)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
説教の映像でお気づきかもしれませんが、先日から講壇設置のアクリルパーティションを新調しました。
今までのものは講壇の前に申し訳程度に置いていただけだったので、マスクを外すことはできませんでした。
しかし早朝から夕方までマスクをつけ続け、そのうち40分近い絶叫型説教が3回。終わる頃にはくったくったです。
表情が見えない説教を一年以上にもわたって聞き続ける会衆もつらかろう、ということで新しいパーティションを発注しました。
しかし講壇の形状が特殊なので、パーティションもオーダーメイドにせざるを得ず、見積もりは約4万円。
ただでさえ厳しい教会会計に請求するのはしのびなく、アクリルの舞台から飛び降りるつもりで、自費で発注しました。
そうなると少しでも安くするために、アクリルの板厚を薄くしたら、なんということでしょう、いきなりたわんでしまいました。
映像でおわかりになるとおり、顔だけははっきりと映っていますが、窓からの光景が映り込んでしまっています。
アクリル用両面テープで補強するつもりですが、宣教にお金を惜しんではならないという教訓になりました。とほほ
当教会は、現在、新会堂建設に向けて話し合っているところですが、現在、コロナ禍のなかで建築木材が高騰しているそうです。
経費をケチって同じような事態にならないように、予算配分には気をつけます。もっとも、全然まだそのレベルまで進んでいないのですが。
週報はこちらです。





序.
 先週の礼拝説教では、不正な裁判官のたとえ話を通して、私たち神の子どもは、再臨に対して強く求めていくべきことを学びました。
そして、今日の説教の箇所として与えられた第二のたとえ話も、やはり再臨に関係するものとして考えることができます。
再臨の時に、ふたりのうちひとりが天に引き上げられ、ひとりは地上に残される、とイエス様は語られました。
この二人の姿は、イエス様を信じている、と自分では口にしていても、高ぶりを残しているならば、私たちは地に残されるかもしれない、
しかし神の前にひたすらへりくだって、心砕かれた歩むなら、どんな罪人のかしらでも、神に義と認められて天に引き上げられるのです。
この取税人が義と認められて帰った「家」とは、霊的な解釈においては天の御国を表していると考えて、間違いありません。
とくに、自分は神を信じ、信仰生活をちゃんと行っています、という私たちに対して、このたとえ話は恐ろしい警告を発しています。
あなたの信仰は自己満足に終わっているのではないか。心から神の前にへりくだって、歩んでいるか。
みことばを通して、そのように問いかけておられる御霊のうめきをかみしめましょう。

1.
 さて、当時、敬虔なユダヤ人は一日に三回の祈りを欠かしませんでした。三回というのは、午前9時、正午、そして午後3時です。
神殿から離れた町にいた人々はエルサレム神殿の方向に向かって祈り、エルサレムにいる人々は実際に神殿に行き、祈りをささげました。
当時、エルサレム神殿は、建物を中心とする三層構造になっておりました。神殿の建物は、聖所と呼ばれ、祭司しか入ることができません。
聖所のまわりは、近い方から男子の庭、婦人の庭、異邦人の庭と、同心円状に広がっていました。
一番内側にある男子の庭は、一般のユダヤ人男性が入ることができ、いけにえをささげる祭壇も、この男子の庭にありました。
しかしユダヤ人男子でも障がい者や取税人のような罪人、また女性たちはそこに入れず、婦人の庭というところで遠くから祈りました。
さらにその外側には、異邦人の庭というところが広がっており、神を信じてはいても外国人はそこまでしか入ることができなかったそうです。
 週報表紙にある聖画では、神殿の中で二人が並んで祈っているようですが、たとえ話を当時の実情に合わせてみると、
パリサイ人は、祭壇を目の前にしながら男子の庭で立って祈り、取税人はそこから遠く離れた婦人の庭で祈ったことでしょう。
そしてこの一日三度の祈りの時間、神殿の庭は多くの人々でごった返し、とてもじっくりと祈れるような雰囲気でもなかったようです。
いけにえを売り買いする商人たちのかけ声や、いけにえとしてささげられる牛や羊のモーモーメーメーという叫び声。
しかしパリサイ人たちは、そのような喧噪のなかで祈ることを好みました。人々が集まれば集まるほど、大きな声で祈りました。
そのようにして彼らは、神殿に集まっていた人々に、自分がいかに立派な人間かということを祈りの言葉を通して聞かせようとしたのです。
たとえの中では「心の中で」祈ったとありますが、イエス様ずいぶん良心的です。実際のパリサイ人はこんな内容を口に出して叫んでいたのです。
 彼らは神に向かって呼びかけているようで、じつはそれは人に聞かせるための祈りでした。そして神に対して、自分を推薦するような祈りでした。とても祈りと呼ぶことができない、あたかも履歴書のような祈りです。私は正しい、他の人のように罪人ではない、という独白であり、自慢です。
彼はその祈りの中で、自分の信仰深さをこのようにお披露目しています。「私は週に二度断食し、すべての十分の一を献げております」。
旧約聖書の中で、断食が求められているのは、一年に一回、大贖罪日と言われる、民全体が悔い改めをささげる日だけです。
あるいは、ヨナがニネベに悔い改めを命じたときのように、悔い改めのしるしとしての断食であって、断食を習慣として求めてはいません。
悔い改めのない断食は、神にとっては意味のないものです。週に二度、必ず断食しています、と口に言い表すようなものでは決してありません。
彼にとっての断食は、自分がいかに熱心な信仰者であるかを、人に見せるためのものでした。

2.
 このパリサイ人が、たとえ形だけであったにはせよ、週二度の断食や、十分の一のささげものをしていたというのは、本当のことだったのでしょう。
しかしどんなに熱心な行いであったとしても、「私はやっているが、彼らはやっていない」と他人と比べるならば、それは神の前には無価値です。
イエス様はかつて弟子たちにこう語られました。「パリサイ人たちの言うことは行いなさい、しかし彼らのまねをしてはいけません」。
なぜなら、彼らは言うことは正しくても、すべて、それを人に見せるためだけに行っていたからです。そこに喜びはあるでしょうか。
あったかもしれません。しかしそれはゆがんだ喜びです。神に従う喜びではなく、人々を自分の前にひれ伏させる喜びです。
「私はこれだけやっているのに、あの人はしていない」。そのような、人と比較したつぶやきが自分の中に生まれないように気をつけましょう。
神が最も憎まれるのは、高慢です。高慢こそ、人間が神のようになれるという悪魔の誘いを受け入れるようにしてしまった張本人だからです。
私たちは、イエス・キリストを信じたことを通して、救いと恵みを与えられました。それは、赦された者たちだけに与えられる特権です。
しかし特権は、人を高ぶらせるのです。本来、救いは人をへりくだらせるものなのに、救いによって、自分は人とは違う、と高ぶってはなりません。

 その高慢の罠に陥られないための、霊的な秘訣が、次に描かれる取税人の姿の中に隠されています。
このパリサイ人のはるか後ろ、祭壇から遠く離れたところに、ひとりの取税人が立って、祈っていました。
しかし彼は目を天に向けようともしません。激しく胸をたたきながら、「どうか罪人の私をあわれんでください」と、ただそれだけを祈ります。
それは言葉にならない祈りだったかもしれません。嗚咽をもらしながら、「あわれんでください」と繰り返すことしかできない、そんな祈りです。
もしこのパリサイ人に、その取税人の祈りが聞こえたとしたら、「なんだあれは。祈りにもなっていないではないか」、そんなものだったでしょう。
しかし神は、朗々と自分のしていることを誇るパリサイ人の祈りではなく、その、言葉にならない取税人の祈りを受け入れました。
この二人の祈りの違いは何でしょうか。言うまでもなく、神に向かって祈るか、人に向かって祈るかの違いです。
この取税人は、自分を他の人間と比べません。彼が比べているのは、人間ではなく神です。
神の圧倒的なきよさに比べて、自分のどうしようもなく重い、罪の深さを見つめています。
他人と比べてどうではなく、神がみことばを通して教えておられる、そのきよく、どこまでも高い、光の中に、彼はただ打たれ、ひれ伏します。
神よ、私は、この私は、あなたの前に決して立ちおおせるような者ではありません。どうか私をあわれんでください。ただ、私をあわれんください、と。

3.
 このパリサイ人も、取税人も、そして私たちあらゆる者たちも、そのままで神の前に立つことができるような、きよい者は存在しません。
ある牧師の説教に次のようなフレーズがあります。「私たちが心から悔い改めた涙でさえ、小羊イエスの血で洗われる必要があるのだ」と。
以前、新潟県でも雪の深い場所にある教会の牧師先生が語ってくださったことがありました。
地方の小さくて貧しい教会だが、十数年かけて教会員が献金をささげ、真っ白い外壁の教会が建ち、雪が降る前に献堂式をささげた。
そのときには、教会堂はまさに純白のベールをかぶった、キリストの花嫁そのものに見えた。
しかしその後、雪が降って、外から教会を眺めると、積もったばかりの新雪の真っ白さに比べて、なんと教会はくすんだ灰色であったことか。
私たちは、人と比べると、自分がいかに立派かと思われて、このパリサイ人のように高ぶってしまうことでしょう。
しかし人と比べるのではなく、完全にきよい、神と、その言葉によって、自分自身を見つめるとき、ただ「あわれみたまえ」としか言えません。
他人と自分を比べて私はよくやっている、と独りごつのはむなしいものです。むしろ神のことばに自分自身を照らし、告白しましょう。
主よ、あわれみたまえ。あわれみたまえ。いまこのときも、あなたが来られるときも、この地上を去るときも、どうかあわれみたまえ、と。

posted by 近 at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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