こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
私が小学生の頃ですので、昭和50年代後半になるでしょうか、題名は忘れましたが、星新一さんの近未来SF小説の中に、登場人物が語る、こんな台詞がありました。
「人間ならば、いつかは忘れるだろう。だが、あいつはいつまで経っても、決して忘れることはない。」
「あいつ」というのは、コンピューターです。まだパソコンが出てくる前ですので、挿し絵を担当する真鍋さん、和田さんらが描いていたコンピューターも、大人より大きな直方体に、目玉のようなコードリール、口のようなスリットから紙を吐き出している、といったものでした。
星さんが今も存命であれば、「あいつ」をコンピューターではなくインターネットに置き換えたことでしょう。これを書いている今、オリンピック開会式が始まる5分前ですが、この数日間、担当者たちの過去の問題発言が次から次へとネットで掘り返され、批判・糾弾の嵐に見舞われています。障がい者に対する陰惨ないじめ、ホロコーストを揶揄するような表現、確かにオリンピック・パラリンピックという国際的饗宴を提供する側の人間としてはふさわしくないことです。
しかしどこか気持ち悪さを感じるのは、四半世紀以上前の発言が、直前になって突然、掘り返され、突きつけられていくことです。
それが正義だと言えば、確かに正義なのでしょう。陰湿ないじめや、一民族に対する組織的大量虐殺を決して擁護するつもりはありません。
しかしこの正義は、誰にでも、いつでも、牙をむく正義です。
無名のときに不用意にしてしまった発言が、やがて有名になったときに突然、目の前に突きつけられていきます。インターネットという、世界を覆う蜘蛛の網の底に、あらゆる人間の発言や行動が記録され、ある日突然、公にさらされる、恐ろしさがあります。中国や北朝鮮のような共産主義国家の至る所にひしめいている検閲の目よりも、遥かに執念深い瞳が、私たちの生きる世界全体を取り巻いています。
もちろん、私たちクリスチャンは、神が私たちのすべてを見ておられることを信じ、告白していますから、自分の言葉や行動に対しても、神と人の前に恥じることがないように生きることを心がけています。しかし神は、罪をあげつらうために私たちを見ておられるのではありません。親鳥が雛を見守るごとくに、この世界を見つめておられるのが、創造主の御姿です。
今回の開会式に関わる騒動の中で、「あなたがたの中で罪がない者が最初に石を投げよ」というイエスの言葉が、多くの人たちによって紹介されていました。この言葉も、今回の出来事に単純に適用できるものではないように思えます。いつか、この箇所から改めて説教を語ることができたらと願っています。週報はこちらです。
1.
今日の聖書箇所は、たいへん短いものですが、それだけに言葉のひとつひとつを注意深く読み取っていくべきものとなっています。
当時のユダヤ人は、子どもが生まれて物心つくと、有名な教師のところへ連れて行き、手を置いて祝福してもらうことが慣例となっていました。
ですから、ここで描かれる光景は、当時においてはありふれた光景だったのです。
ましてや弟子たちにとって、イエス様が人々に有名な教師として認められた証しですから、喜びはしても拒むことはあり得ないことでした。
しかし弟子たちは、子どもたちがイエス様に近づくのを快く思わず、むしろ叱りつけました。いったいなぜでしょうか。
イエス様は疲れていらっしゃるんだ。このようなことで先生の時間と体力を奪ってはならぬ、という、大人の配慮でしょうか。
しかしもし大人の配慮であったとしたら、イエス様も、「みんなの気持ちはうれしいよ、でもね、」となったでしょう。
ところが他の福音書を見ると、イエスは叱ったどころか、弟子たちに対して憤った、と記されているのです。
子どもたちを邪魔する弟子たちの心の中をごらんになったイエス様は、そこに憤らずにはいられないものを見いだしました。それは何でしょうか。
高慢です。この直前のたとえ話、パリサイ人の祈りと同じく、弟子たちの中に、高ぶりがあることをイエスは気づいておられたのです。
弟子たちにとって、イエス様が祝福してくださるというのは、単なる通過儀礼ではなく、キリストが建てられる神の国と大きく関わることでした。
この物語も、再臨のメッセージの流れの中にあり、実際にイエス様はエルサレムに向かって進んでいるさなかにありました。
弟子たちの心の中にも、いま、神の国というものがいやが上にも意識されています。
その中で、彼らが子どもたちがイエスに祝福されるために近づくのを拒んだというこの出来事は、
神の国は、このような幼子たちが入ることのできる場所ではない、という彼らの考えをあぶり出しているのです。
弟子たちにとって、神の国に入るのは自分、キリストに必死で従ってきた者たちであり、これらの幼子のように無力な者たちではありませんでした。自らの強い意志をもって、家族や財産も捨て、主に従っている自分たちこそが、神の国の住民として選ばれている者たちなのだ、と。
それはまさに、あのパリサイ人の高慢に、つながるものでした。そこにキリストは、痛みと、憤りを覚えたのです。
イエスは、弟子たちの思い込みに決別を促すかのように、はっきりとこう語られました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです」
自らを誇る者は、神の国に入ることはできない。だが自分が無価値、無力であることを認め、神だけにすがる者は、神の国に入ることができる。
この世では、強さや賞賛の反対側にあるような、幼子のような者たちこそが、神の国に入るのにふさわしい者たちなのだ、と。
2.
幼子の特徴は何でしょうか。純真、無邪気、好奇心、いろいろと思い浮かびます。
しかしこの物語のなかで強調されているのは、こどもは、親に対して絶対的に信頼、完全に依存している存在であるということです。
子どもの生活は、すべてが信頼の上に成り立っています。食事の時間になれば、暖かい食事が用意されます。
必要なものが親から与えられることを、子どもは決して疑いません。毒が入っているんじゃないか、と疑いながら食事をすることはありません。
親が外に連れて行ってくれるとき、楽しい経験を与えてくれると考えます。崖から突き落とされるかもとは考えません。
それが本来の親子関係であり、子どもたちの親に対する信頼は、絶対的なものです。
親から厳しいしつけは受けて、涙することはあるでしょう。それでもその根底には、私を思ってのことという、愛情と信頼関係があります。
イエス様が幼子たちの中に見いだしたのは、彼らが親に頼り切っている姿と同じように、神の子どもたちは神に頼り切っている、ということです。
神に頼り切っているからこそ、みことばを何よりも求めます。それはこの世の人々から見たら、愚かに見える姿にも映ることでしょう。
しかし無力でもよい、未熟でもよい、私は神に頼らなければ何もできないと自覚する者たちこそが、神の国にふさわしい者たちです。
イエス様が見つめておられた神の国は、この世では尊ばれず、嘲られ、実際に無力な者たちが集められているところでした。
しかし弟子たちも、また彼らを含めて多くのユダヤ人が考えていた、神の国に入ることができる者たちとは、立派で、成熟した人。
そう、まさにこの私のような、と、まるでこの直前に語られているパリサイ人の祈りそのものでした。しかしイエスのみこころは違いました。
もちろん信仰者は、霊的に成熟した大人を目指していくべきです。しかし霊的に成熟した大人というのはどういう人たちでしょうか。
逆説的ではありますが、この世と歩調を合わせることにおいては未熟であることが、神の国においては成熟した者であり、
父である神に頼ることしかできない、という子どものような生き方こそが、神の国においては、大人なのです。
この世と歩調を合わせず、神に頼ってようやく生きている。それは、この世から見たら、ダメ人間です。
ダメ人間と言われて、心安らかな人はいないでしょう。だから私たちは神の国よりも、この世で評価されることを選びがちです。
私たちは、強く、立派な人間像を思い描き、神の国に入る資格のある人間はこうあるべき、と考えてしまうのです。
しかしイエス様が教えておられる神の国の住民の姿は、それとはまったく正反対であるかもしれません。
3.
ある先輩牧師の言葉です。「若い頃は、行動力のある、若い、元気な人々が教会に来ることを望んでいた。
しかし長い間の牧会生活を経た今、思うことは、さまざまな弱さを持った人々もいるべきであると思うようになった」。
この社会は、優秀で、即戦力となる人材を求めています。
そして教会も、その社会の風潮が持ち込まれ、やはり優秀で、即戦力となるような信徒が好まれることもあります。
しかしイエス様は、時代を超えて、私たちに語られます。神の国は、子どもたちのような者たちのものである。
そして子どものように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない。
この世で無力で、未熟な者たちこそが、この神の国に受け入れられ、また受け入れることができる者たちなのです。
先ほどの中で、子どもの生活のすべては、親との信頼関係で成り立っていると語りましたが、今日それは当たり前ではなくなっています。
育児放棄や、親による子どもの虐待、行政や地域の目がそこに届かず、死に至るケースを、私たちはいやになるほど聞いています。
だからこそ、家庭にも居場所を見いだせない人々に対し、教会がその人生を回復するための橋渡しになることを求めていきたいと願います。
しかしそのように傷つき、教会に導かれた人々が、そこにいるクリスチャンの姿を見たときに、どのような印象を受けるでしょうか。
まるで厳格に訓練された軍隊のように見えてしまうか。それとも、自分も受け入れられる場所という空気を感じることができるか。
教会がまさに心いやされ、安らぎを覚える場所になれるかどうかは、そこに集っている私たち自身の心にあります。
パリサイ人のように、私は神のために働いています、私こそ御国にふさわしい者です、という高ぶった心は、いつも何かに追い立てられています。
しかし自らの弱さと罪深さを認め、ひたすら神のあわれみにすがり、この神に信頼し切っているとき、私たちの心には平安が満ちてきます。
自分自身の姿を見つめながら、神の御国を待ち望む者でありたいと思います。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188865788
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188865788
この記事へのトラックバック