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2021.8.1主日礼拝説教「欠けていた第十の戒め」(ルカ18:18-23)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。

 いよいよ東京都が新規感染5000人の大台を突破しました。東京都民の人口が1400万人だそうなので、3000人にひとりの割合で、新規感染者が起きているということになります。これを新潟県の人口である230万人に当てはめてみると一日約800人、新潟市の80万人に比べると一日約300人程度となりますが、現在、新潟県の新規感染者が約90人、新潟市がその半分といったところですので、東京の10分の1以下の発生率になります。というよりも、東京が新潟の10倍以上と言ったほうが現実に即しているのかもしれません。それだけ異常事態が起こっているということなのでしょう。沈静化のために祈ります。

 ただ新潟の教会の中にもオンラインで礼拝を中継しているところがありますが、牧師の説教がノーマスクのところが目立ちます。これが知らない教会だったら、「講壇と会衆席が10mくらい離れているのかも」と優しく受け止めることができますが、同じ教団で勝手知ったる関係だったりすると、「えっあの会堂でノーマスク?」という、ヨコシマな思いがふつふつと沸き立ってきてしまいます。おゆるしください。
 私の牧会哲学、という大それたものではありませんが、教会の核心は説教にあると思います。ですから説教の内容はともかく、この講壇でイノチが決まる、という覚悟だけはなくさないようにしてきました。講壇にコの字型に巨大なアクリル板を設置したのも、このままでは説教の本質が揺らぎっぱなしという思いが常にあったからでした。マスクで講壇に立つのは神に申し訳ないからノーマスクで、とある牧師が言っていましたが、飛沫を飛ばすのを恐れて自然と声を抑えてしまうほうがよっぽど主に申し訳ないことです。
 説教に限らず、人の話というものは本人が考えている3割程度しか伝わらないそうです。逆算すると、こちら側は自分が出せる力の3倍で話すくらいの気持ちでいくことが必要です。マスクをつけて一日三回の説教をこなしていくのはへとへとでしたが、いま少し楽になりました。楽になった分を、説教をより広く、より遠くへ伝えていく気持ちの方に向けています。こんな考え方はおかしいでしょうか。

 そんなわけで、もし読者の方で、自分の教会の牧師の説教が少し抑え気味だなあと感じたら、アクリル板を買ってあげてください。きっと喜ばれることでしょう。バラエティ番組で使っているような中途半端なものは意味がありませんので、どこで買えばよいかわからない方は、「アクリ屋」か「はざい屋」で検索してください。週報はこちらです。





序.
 数年前に、村上教会の代務牧師をしていたとき、ある青年が礼拝に出席するようになりました。自分から電話帳で教会を調べて、信じたいという思いをもってやってきたという、失礼ながら村上のような土地柄ではたいへん珍しい方でした。当時、私は午前中に豊栄での礼拝奉仕が終わった後に、すぐに村上に向かって午後2時の礼拝に駆けつけるという、どちらの教会にも申し訳ない、バタバタした牧会を行っていましたが、彼は毎回、忠実に礼拝に出席していました。やがて日曜日の夜に、一対一の聖書の学びをするようになる中で、信仰決心に至り、洗礼を授けることができました。彼と聖書を学んでいるなかで口にした言葉は今でも忘れられません。「もう聖書の神様にしか頼れるものはありません。この神様がもし偽物だとしたら、どこにも救いはないと思っています」。

1.
 人生の答えを求め、ご自分に近づいてきた者を、イエスは決して手ぶらで帰されるようなことはない、ということは聖書の至る所に記録されています。イエスが人生を変えてくださるのは、明確な求めをもって近づいてきた者だけではありませんでした。たとえばヨハネ福音書4章に描かれたサマリヤ人女性のように、イエスを最初ただの人と思っていたような人でさえ、いつのまにかイエスから心の底をえぐられて、神を信じるに至った、ということも少なくありません。しかし今日の聖書箇所は、そんな聖書の記録のなかで、唯一と言ってよい、真理を求めてきた者が何も与えられずに帰って行った、悲しき物語です。
 彼は、真剣な求道者を装っていたような、よこしまな人間では決してありません。確かに、永遠の命を求めて、イエスのもとに近づいてきた人でした。ここでは指導者と書かれていますが、マタイの福音書の平行記事では、青年となっています。若くしてユダヤ教の指導者を務めていただけでなく、たいへんな資産家でもありました。見落としがちなことですが、すでにエルサレムの直前にいて、ユダヤ人社会から存在を抹殺されようとしていたイエスに、自ら近づいてきた、そのような希有(けう)な人物でもありました。このような人が救われずに、いったい誰が救われるのだろうか、と思うような人でした。しかし彼は、イエスとの短い会話の後、悲しみに打ちのめされて、そこから何も得ることなく、去って行くことになります。
 彼にいったい、何が欠けていたのでしょうか。イエスが言われたとおり、自分の全財産を売り払って、貧しい人に分け与えるという勇気が足りなかったのでしょうか。しかしもしそれが足りないものだとしたら、私たちクリスチャンのうち、ほとんどの人々は、今からでもイエスのもとから去らなければならないでしょう。最初に結論を言うならば、彼に足りなかった唯一のもの、それは謙遜でした。神の前に意味のある謙遜とは、自分は神の前に何も持っていない、何も誇るものはない、と認めることです。もともと何も持っていない、と認めることができる心は、いま持っているすべてのものも惜しみなくだれかに与えます。しかし彼に足りなかったのは、全財産を誰かに与えるという行動ではなく、何も持っていない者として自分自身を砕き続けていく、真の謙遜です。そしてこの謙遜を持つ人は、決して神の前を離れていくことはありません。何も持っていないからこそ、目の前のイエスにしがみつかなければ、どこに行っても救いはない、と告白します。

2.
 彼はイエスに尋ねました。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。
昔、ある方からいただいたお手紙に、「牧師先生御中」と書かれていました。日本語としては間違っていますが、そこまで敬称を重ねられると、決して悪い気はいたしません。しかしユダヤ人は、人間に対して「良い」という言葉は決して使いませんでした。「良い」という言葉の冠をかぶることができるのは、神、または、神が与えたもうた律法だけでした。この指導者は、そのことを知らなかったのでしょうか。知らなかった、ということはないでしょう。しかし決してお世辞として良い先生、と呼びかけたのではなく、それだけ真剣な思いをもって、イエスに近づいてきたのだと思います。しかしイエスは、それを差し引いても、彼の中に、一点の傷があることを見抜いておられました。それは、貪欲です。持っているもので満足できず、さらに人のものまでほしがる心です。これが昂じたとき、人は盗みだけではなく、殺人にまで手を染めることもあります。イエスは、この人の心の奥底に、貪欲が鎌首をもたげているのを知っておられました。だから、次のように語られました。20節をご覧ください。「戒めはあなたも知っているはずです。姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え」。

これは、十戒のうち、社会生活に関わる命令である、第5戒から第9戒までの五つの命令が引用されています。あれ、と思われた方は鋭い方です。なぜ第9戒でやめているのか。わざわざひとつずつ引用しながら、どうしてイエスは第10戒について触れていないのか。その第十戒こそ、「ほしがってはならない」という戒めなのです。この若き指導者は、イエスの言葉を聞いて、「私は少年の頃から、それらすべてを守ってきました」と胸を張りました。しかしイエスが第十戒にあえて触れなかったのは、彼に気づいてほしかったからです。幼い頃から律法を口ずさんできたユダヤ人が、これだけ十戒の一つ一つを引用されながら、最後の第十戒だけは気づかない、ということはあり得ません。しかし彼は気づきませんでした。無意識のうちに、見ないようにしていた、というほうが正しいかもしれません。彼は自分自身が、貪欲に支配されていることを認めようとしません。貪欲は、自分に与えられているもので満足することができない欲望です。それは何であれ、自分が持っているものを失うことを極端に恐れます。主は与え、主は取られる、とヨブのように賛美することができません。失うことの防御策として、本来は必要でないものを少しでも手に入れようとします。

3.
 イエスは、彼がその貪欲を認め、貪欲と決別するならば、わたしについてくることができる、と彼に語りました。自分の財産をすべて売り払って、貧しい人に分け与えなさい。それによってこの世の財産に対する執着から解放され、天に用意されている宝を待ち望んで生きることができる、と約束されました。しかし彼はそれを拒絶しました。「少年の頃からそれらをすべて守っております」という得意顔は、いまや青ざめて、永遠のいのちへの求めも、どこかへふっとんでしまいました。人は、自分の心の壁にこびりついている暗部を人前では完璧に隠すことができます。それを繰り返しているうちに、自分でもそんなしみははじめからなかったかのように目をそむけることになれてしまいます。しかしイエスは、私たちが見ようとしない暗部も、そして私たちが気づいていない、良いところも、すべてを知っておられます。しかしその良いところを本当の意味で生かすためには、暗部をみことばと聖霊によって照らされて、悔い改めという明るい光のもとにさらすことが必要です。私たちの中に、イエスの元を去って行った指導者のように、自分に隠された暗部を守ろうとするあまりに、神が用意しておられる恵みの半分も楽しむことができないとしたら、悲しいことです。神と二人きりになってきて、自分の心を探ってみてください。そうすれば、私たちは神の恵みの光の中で、喜んで主の弟子になることができます。

 ユングという心理学者はこう言いました。「その人の人物像が明るければ明るいほど、その闇は暗く、深い」。牧師になって約20年のあいだに、働きが絶頂を極めていた先輩牧師や、大きな働きを任されていた後輩の牧師が、継続的に行っていた隠れた罪があらわになり、信頼だけでなく、それまで行ってきた実績さえも批判され、失われていく姿を数多く見聞きしてきました。これは牧師だけではなく、キリストの弟子として、神から多くを任され、期待されている人々も同じです。だからこそ、私たちは自分の心の恥をえぐられたときに、力なくイエスのもとを離れていくのではなく、その恥と罪を認めることを忘れないでいきたいと思います。信仰生活というものは、その繰り返しです。私たちはいまも完全にされたわけではなく、過ちを犯してしまうものです。しかしそれを認めることができるのが、真の謙遜です。自らのうちには何も誇るものはなく、持っているものはただゆだねられているものにすぎない。しかしそれでもなお、主の弟子として一歩一歩、キリストの十字架に近づいていく。イエス様だけが私たちの救いです。この方にしがみついていきましょう。

posted by 近 at 16:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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