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2021.8.8主日礼拝説教「この世の常識の向こう側」(ルカ18:24-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今回の説教原稿の中で、「Googleで「日本同盟基督教団」と検索すると、もれなく「怪しい」というキーワード検索の結果がついてくる」とあるのですが、若い人にしか通じないかな〜と思い、ここでの説教録画の中では触れていません。
ただ実際に検索してみると、やはりこうなってしまいます。ハイ。
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 子どもの頃に見ていた、戦隊ものの特撮で、悪の秘密結社の幹部が「卑怯?フハハ、最高の褒め言葉よ」みたいなことをよく言っていましたが、さすがに「怪しい」と言われてフハハと喜ぶ教会関係者はいないでしょう。しかし教会が語るメッセージが、いつのまにかこの世の価値観や方法論に便乗したものになり、「十字架の言葉の愚かさ」から離れる危険があるなかで、世の人々から「怪しい」と検索されることで、当教団は福音の愚直なメッセージにとどまり続けているという証しかもしれません。あくまでも「かも」です。別の教派・教団の方々から「怪しい」と検索されているとしたら憂慮すべきことです。

 それに関連して、つい最近の話ですが、メンタリスト(どんな職業?)のDaiGo氏がホームレスや生活保護受給者に対する差別発言で話題になりました。それに関連して、エッセイスト犬山紙子さんが「私も勝手に生きるし、生きてる人全員、堂々と生きような。価値とかいらんから」という反論が紹介されていて、その言葉にドキッとしました。
 聖書が提示する福音は、私たちが「価値ある者だからこそ神が死んでくださった」のではなく、私たちが「まだ罪人であったとき、私たちのために死なれた」(ロマ5:8)という愛です。エヴァンジェリストの村上宣道師は「because(だから)の愛ではなく、inspite of(にもかかわらず)の愛」と言っています。「あなたには価値がある」は、この世が喜ぶ言葉です。「価値とかいらんから」という言葉は、実際にはこの世では忌避される言葉です。そして私たち教会が語る福音のメッセージは、神が語るように命じられている言葉よりも、人が語ってほしいと願うものになってはいないでしょうか。
 確かに、自尊感情がかつてないほどに貶められているこの社会とそこに生きる人々に「あなたは価値がある」というのは、わかりやすいメッセージです。しかし「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)は、イスラエルがその罪と堕落によっていかに神を苦しませてきたのか、という文脈から切り離されて、ただそこだけが至言として語られるならば、むしろ聖書全体が教えているメッセージを誤解させる危険さえあります。聖書が語る罪とは、この世が考えているものとはまったく次元の違う、壊滅的な深刻さ、かつ人力では修復不可能なものです。その罪人であった私たちのためにイエスが死んでくださったという福音は、まさに価値があるとかないとかいう世界を突き抜けたところにあります。その意味で今日の教会は、あえて人々の聞きたいことに逆行することを語るというリスクを抱えても、罪、そして救いを毅然として語ることができているか、改めて考えさせられます。「同盟+怪しい」とGoogle先生にどうせ言われるならば、この世の価値観、常識の向こう側へとこのまま突き進んでいってほしいと願います。週報はこちらです。





1.
 「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
 この言葉は、弟子たちばかりか、その場にいたあらゆる人間を凍り付かせました。なぜなら、ユダヤ人にとって、富、財産は、神から特別に愛され祝福されている証しと堅く信じられていたからです。しかしイエスは、富を持つ者が神の国に入るのは不可能だと言われました。「らくだが針の穴を通ること」は不可能です。しかしそれさえも易しく見えるとあえて比較して語ることで、金持ちが神の国に入ることは不可能中の不可能である、と強調されたのです。
 人々の驚き、いや失望は想像に難くありません。彼らは、イエスがすぐに神の国をこの地上に興してくれると信じていました。しかしイエスが作ろうとしている神の国は、彼らが考えていた、力、富、栄光、あらゆる祝福とはまるでかけ離れたものではないか。だから彼らはこう口にせずにはいられませんでした。「それでは、だれが救われることができるでしょう」。
 イエスが与える神の国は、人間が考えている常識の反対側にあるものなのです。人間によって良きものがかえって神にとって悪しきものであり、逆に人間の目には悪しきと見えるものが、神のご計画の中では外すことのできない大切なものであることさえある。それが神の国です。普通の人間は、富を喜びます。お金がすべてではない、という建前の一方で、あと何年お金に困らずに生きていくためには、いくら必要、と計算したりします。しかしイエスは、富であれ、数であれ、力であれ、人々が求めるものは、神の国とは無縁なものと語りました。なぜなら、人が富や力や人数を実際に手に入れたとき、必ず神よりもそれらに頼ってしまうからです。富を持つ者は、富に頼ります。力を求める者は、力を誇ります。数こそ勝利に不可欠と考える者は、数に踊らされます。
 しかし神のやり方は、すべてがその人間のやり方の反対です。神はこの世の貧しい者たちを選んで、ご自分の教会とされた、それは富む者を辱めるためである、と。旧約聖書の中では、外国から攻めてきた敵を恐れて、穴の中に隠れて麦をこっそりと打っていたようなギデオンのような力なき者を、神は、イスラエル独立戦争のリーダーとして選びました。さらにイスラエル中から3万人という勇士が集まってきたときには、それでは多すぎると言われ、神は300人に減らしてしまいました。しかもその選び方も、落とされた人間には納得できないような方法でした。それが、神のやり方です。カーネギーやドラッカー、孫正義のようなビジネスの達人が教えるような成功/勝利の処方箋を神は決して用いません。むしろ、人がとても従うことのできないやり方、大変だからというよりも意味不明のためについていけないような、そんな方法を通して、神の国は実現していきます。

2.
 先日、同僚の牧師から聞いた話です。人々がインターネットで何かを調べるとき、「Google」というホームページがよく使われるのですが、そこで「日本同盟基督教団」と打ち込んでみると、面白いことが起きる、と。実際に試してみたら、意味がわかりました。教団の名前を打ち込むと、その後に「怪しい」というキーワードが勝手に出てくるのです。つまり、多くの人々が、この教団を怪しい教団ではないかと疑って調べている、ということです。不名誉に思われる方もいるかもしれませんが、私はむしろ逆にとらえています。実際、聖書を忠実に語るならば、この世の常識からはとても受け入れられないことの連続でしょう。人々は今やインターネットで何でも調べます。むしろインターネット以外に調べる術を知らない人のほうが圧倒的です。正しいか正しくないかよりも、どれだけ多くの人に支持されているかのほうが、重要なのです。そしてこの現代日本で聖書に従って生きようとするとき、聖書に書かれてあることは、多数派の常識の反対側であることのほうが多いでしょう。多数派の基準に合わせることのすべてが悪いとは言いません。支持される、それなりの理由があるかもしれません。しかしそればかり頼っていたら、私たちは聖書を持っていながら、常にこの世と神の国の間で揺れ続けます。
 神の国は、この世の常識の向こう岸にあります。人は自分の力では神の国に入ることができません。神の国の前を流れている大河を渡るためには、財産も、力、数への渇望も、こちら側の岸辺に置いていかなければなりません。それは決して簡単なことではありません。この世では無力で、何も誇ることができず、哀れみを受けるような、あえてそのような生き方を選ぶということだからです。常識を捨て切って生きることができるほど、私たちは強くありません。それは、人にはできないことです。だからこそ、キリストのみことばが私たちを救うのです。「人にはできないことが、神にはできるのです」。
 人間は、神の国に入るために、自分からは何もできません。向こう岸に神の国があるのが見えても、飛び込めば流されてしまうに違いない濁流が私たちを阻んでいます。しかしそれでも神の国に入りたいと願う者のために、ご自分がその濁流に飛び込んでくださった方、それがイエス・キリストです。イエスは、私たちの罪の身代わりとして死なれました。それは、私たちを救い出して神の国の岸辺にたどり着かせることと引き換えに、ご自分は濁流に呑み込まれていった姿にたとえることができるかもしれません。しかしイエスは確かによみがえられました。信じた者は、いまイエスと共に生きており、永遠のいのちをいただいて、来たるべき神の御国を待ち望んでいます。この世の基準、この世の常識にとらわれ、そこから抜け出すことのできない者を、心の内側から造り変える力を、私たちは受け取りました。私たちは救われたのです。

3.
 しかし弟子たちは、神の国についてわかっていませんでした。ペテロが代表してこう言います。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」。マタイの福音書では続けて、「私たちは何がいただけるのでしょうか」とも聞いています。弟子たちはこう考えました。我々は家族も、財産も、何もかも捨てて、イエスに従ってきた。だから神の国に入る資格があるのだ、と。しかしイエスが言われたのは、「人は自分の行動によって、自分を救うことはできない」ということです。たとえすべてを捨てたとしても、捨てることそのものによって神の国に入れるのではありません。私たちは、ただ神のあわれみによって、神の国に招き入れられた者なのです。しかし人ではなく、神がそれをなしてくださったからこそ、信じた者たちは、捨ててきたものにもはや執着することはなく、永遠のいのちだけを見つめるように変えられていきます。イエスはペテロの言葉にこう返しました。「だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は必ずこの世でその何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」この言葉を間違えて受け止めてはなりません。重要なのは後半部分です。確かに私たちは、この世で捨てたものの何倍も受けるでしょう。しかし有限なものは、何倍になっても結局は有限です。むしろイエスが語っておられるのは、この世のものを捨てた者たちは、来たるべき世で永遠無限のいのちを受けるということ、それに勝る祝福はない、という事実です。
 神の国は、この世の常識の向こう側にあります。聖書の命じるとおりに生きようとするとき、私たちは弱者になり、少数派になり、孤独を経験するかもしれません。しかし神は、そのような者を用いてこの世を変えていくのです。かつてアフリカが暗黒大陸と呼ばれていた時代、そこに遣わされた宣教師、リビングストンのことを最後にお話しします。最愛の妻を失い、自分も病に冒されていた彼は、瀕死の状態にあるところを、やはり宣教師であったスタンレーに発見されました。そのときスタンレーが尊敬をもって彼に言ったそうです。「リビングストン、あなたは神のために何という犠牲をささげたのでしょう!」すると彼はこう答えました。「犠牲だって。とんでもない。私は今まで犠牲をささげたことなど一度もなかったのだ」と。ひたすら神、そして神の御国に生きることを見つめていた。この世のすべてを置いてきた。そのとき、「捨てた」とか「犠牲」という言葉さえも意識されなくなるのでしょう。それは、まさに人には不可能なことです。しかし神にはできるのです。キリストを信じるということは、かけがえのない宝を手にしたがゆえに、決して後悔しない人生が始まるということです。御国を待ち望みながら、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 19:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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