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2021.8.15主日礼拝説教「和解が墓に刻まれた」(創世25:7-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉がハンガリーで生まれた理由を知って損はない
ちょっと長いタイトルの配信記事でしたが、ついガッキーを思い出して、最後まで読んでしまいました。記事をまとめると、ハンガリーという国は、世界で最も激しい競争社会なのだということでした。今まで一度も夏季オリンピックが開かれていない国の中でのメダル取得数は世界一だそうです。知りませんでした。
で、ハンガリーについて興味をもって調べていたら、セルビアを挟んでもう一軒南にある小国モンテネグロにたどりつきました。
me.pngモンテネグロの国旗。中心のライオンは、聖マルコの象徴だそうです。
この国が百年前の日露戦争の際、ロシアに呼応して日本に宣戦布告したのは有名な話。しかし宣戦布告はしたものの主戦場まで遠すぎて一度も日本軍と戦いを交えることができず、結果、日本だけではなくロシアからも戦争に参加していることを忘れられて、ポーツマスの講和会議に呼ばれませんでした。それでつい最近まで、日本とモンテネグロはずっと戦争していることになっていたらしいです(諸説あり)。

 戦争はいけませんが、小国の民でありながら極東の島国にまで果敢にも遠征を挑む(行かなかったけど)モンテネグロ。さぞ血の気の多い国民性と思いきや、なんとハンガリーをはじめ周囲の東欧諸国からは「なまけ者の国」と呼ばれているとのこと。実際「なまけ者コンテスト」も毎年開催されていて、23時間まったく動かなかった人が優勝したそうです。そしてなんとモンテネグロには、なまけ者による、なまけ者のための「ご当地十戒」があります。
1.人間は疲れて生まれてくる。そして休むために生きているのだ。
2.自分自身のように自分の布団を愛せ
3.夜よく眠れるよう日中は休息すべし
4.働くな。仕事はあなたを死に追いやるのだ
5.休息している人を見たなら、助けを差し伸べなさい
6.できるだけ少なく働きなさい。もしできるなら他の人にやらせなさい
7.木陰は救いである。そこで休むものは未だかつて死んだことがない
8.労働はあなたを病いへと導く。若いうちに死んではいけない
9.もし突然に働きたいという願いが沸き起こったなら、まず座り、冷静になれ。そのうちその願いは消えるだろう
10.飲み、食べている人たちを見つけたなら、彼らに加わりなさい。働いている人を見たなら、すぐさま遠ざかりなさい。彼らを邪魔してはいけないのだ

わが同盟教団の次の国外宣教地が確定しましたね。もし理事長命令が下れば、喜んで後ろ髪を引かれる思いで、旅立つかもしれません。もちろん、宣教の原則である、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、モンテネグロ人にはモンテネグロ人のように」の精神で、のんびりと。十戒を破るわけにはいきませんしね。「日本とアジアとモンテネグロと世界に仕える日本同盟基督教団」をよろしくお願いします。週報はこちらです。





1.
 イスラエルにあるヘブロンという町に行きますと、たいへん大きくて立派な、イスラム教のモスクが建っています。その入り口はふたつあって、ひとつはユダヤ教徒専用、もう一つはイスラム教徒が出入りするためのものだそうです。イスラム教のモスクなのに、どうしてユダヤ教徒のための入り口があるのでしょうか。じつはそのモスクは、このマクペラの洞穴、つまりアブラハムたちの墓があったと言われている場所の上に建てられているのです。もともとヘブロンのイスラム教徒は、ユダヤ人に対しても寛容でした。宗教は違っていても、一方はイサクを祖先、一方はイシュマエルを祖先とし、遡れば同じアブラハムを先祖に仰ぐ者たちであるとして、ユダヤ教徒もこのモスクに入り、両者は同じ場所で礼拝をささげることさえ許されていたのです。しかし約30年前、ある狂信的なユダヤ教徒が、このモスクで礼拝をささげていたイスラム教徒に向かって機関銃を乱射し、20数名が死亡、130人あまりが負傷するという事件が起こりました。犯人はその場でイスラム教徒たちに殴り殺され、それ以来、このモスクの中ではユダヤ教徒とイスラム教徒は、別の入り口から入り、それぞれが使える時間が決められて、両者が絶対にかち合うことがないようにされてしまいました。

 さて今日は8月15日、終戦記念日です。そしてこの8月15日は、人々が墓参りに向かう、お盆の日でもあります。もともとお盆は旧暦の7月15日でしたが、明治時代に暦が変わり、新暦の7月15日にお盆を迎える地方と、一ヶ月遅れて8月15日にお盆を行う地方があるそうです。クリスマスがなぜ一年で一番忙しい年末にあるのかも不思議ですが、なぜ終戦の日とお盆の日が重なっているのか、ということも私は不思議に思っていました。なぜマッカーサーは、日本人が死者の霊を迎えるというお盆の日を、無条件降伏の日にしたのだろうか。マッカーサーにはそんな意図はなく、たまたまなのかもしれませんが、しかしこのアブラハムの葬りの記事をじっくりと読んでみたときに、8月15日が、日本では二重の意味を持つということは神の摂理かもしれないと思うようになりました。

 なぜかというと、それまで対立していたイサクとイシュマエルが、このアブラハムを葬るために、二人して協力して墓の前に集まってきたからです。終戦記念日は、単に日本の戦争犯罪を悔い改める日ではなく、和解を求める日であるべきです。私たちは過去を忘れます。日本人だけではなく、日本を非難している中国は、かつての毛沢東の文革の悲劇を忘れ、天安門事件を忘れ、韓国はベトナム戦争の時に、派兵された軍人たちが現地の女性にしたことを忘れている。しかし忘れるからといって、なかったことにするべきではない。しかしある国では敗戦記念日、ある国では勝利記念日として、ナショナリズムを高めるのではなく、むしろ和解を目指したい。イサクとイシュマエルが手をとって、父アブラハムの墓へと向かったこの物語は、私たち日本人にとって、墓へ向かう8月15日は、自分たちの罪を見つめながら、それでも和解へと踏み出していく日にし続けるべきだと教えているように思います。

2.
 日本人の墓のほとんどは、○○家の墓と刻まれています。これが意味しているのは何でしょうか。生きている時にも、そして死んだ後にも、人々は「イエ」という言葉に象徴される、肉と血のつながりから解放されることはないということです。聖書でいう、アダムの罪がすべての子孫に引き継がれるという原罪の鎖からどうしても逃れられない絶望を、何々家の墓という言葉は無慈悲にも伝えています。しかし聖書は何と約束しているでしょうか。聖書はクリスチャンについて、こう高らかに宣言しています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と。

 私たち日本人は、本当の神を知りません。そして長い歴史の中で、本当の神の代わりに自分をつなぎとめてくれるものを、家族との血縁に、家族の名を冠したお墓に、死んだ家族を神として仰ぐ仏壇や神棚に求めました。しかしそれを大切にするあまり、もっと大切なものをつかみ取ることができないようになってしまっています。その大切なものとは何でしょうか。イエス・キリストの与える永遠のいのちです。このイエスを、私を罪から解き放ってくださる唯一の救い主として受け入れるならば、もはや○○家の墓といった、血肉のつながりに安心を求めていく必要はありません。どんなに上質の石を用いた墓であってもいずれ色あせます。今、墓を引き継ぐことができず、墓じまいといった言葉も生まれています。しかしもし私たちが、自分の墓以外に、自分が生きていたことを証しするものがないとしたら、なんとむなしいことでしょうか。しかし私たちに与えられた永遠のいのちは、どんなことがあっても決して取り去られることはありません。

3.
 15年前、豊栄キリスト教会は太夫浜霊園に墓を建てました。そのとき、新潟市の小針浜の近くにあるシオンの丘というクリスチャン共同墓地を見学に行きました。その中で、なぜか一つの墓がとても気になりました。デザイン的に何か優れているわけでもないのですが、何かを訴えているように見えました。近づいて、納められた方の名前を見ましたが、他教団の、知らない方です。しかし裏側に回ると、頭が真っ白になりました。なぜかというと、施工した業者の名前が彫られてあったからです。ああ、神は私がこの墓に出会うためにここに招いたのだ、と思いました。その施工業者、仮にA石材店としますが、それは私が中学生まで過ごした町にあり、そしてAというその町でも珍しい名字は、私を二年間にわたっていじめていた少年の名前でした。彼はからだも声も大きい人間、当時の私は、からだも小さく、今のように大きな声を出して人前で話すタイプではありませんでした。まだ昭和でしたので、今のいじめとは少し違いますが、とにかく毎日学校に行くのが憂鬱でした。そのいじめは、私が足の病気で大学病院に移り、そのまま新潟市の中学校へ転校、となって解放されたのですが、その墓に刻まれたAの実家の名前と住所を見たときに、いじめられていたときの記憶がよみがえりました。

 しかし不思議なことに、それだけでした。怒りがわいてくるよりも、まさかクリスチャンの墓で、彼の父親の名前を目にするということにただただ驚きました。絶対に許さない、と毎日思っていたAの顔が浮かびましたが、私は心の中で、目をそらさずに彼を見つめることができました。私もまた、自分の罪を十字架によって許され、罪をぬぐい去られた者だ、と思いました。そしてなぜ神がここでAの記憶と再会させたのだろう、と思い巡らしたとき、こう思いました。豊栄教会の墓がどんなデザインになるとしても、その墓の前で、キリストにある和解が生まれるように。そして相手も私も、キリストによって許されているということを思い出せるような墓になるように、と。それがこのイサクとイシュマエルのあいだにも生まれた和解でした。いま、イサクとイシュマエルをそれぞれ先祖として仰ぐ民族、宗教のあいだには、不幸な事件によって再び溝ができています。しかし彼らの祖先がアブラハムの墓の前で和解をもたらされたように、子孫のあいだにも、墓の前でやはり同じように和解が生み出されると信じています。

 しかし私たちは、ユダヤとイスラムとの間よりも、いま直面している中国や韓国とのあいだの和解、そしてこの日本の中でお互いを認めようとしない人々のあいだの和解が生まれるように。しかしまず神との和解が生まれなければ、どんな和解も、人間的な努力になってしまい、それは続きません。ですから終戦記念日であり、人々が墓へと向かう日でもあるこの8月15日、私たちは、この国の99%の人々、とりわけ私たちの周りにいる人々が、神との和解を受け入れることができるように祈っていきましょう。神と和解を果たし、傷ついた人生を変えられた私たちひとり一人が、自らの唇で主を証ししていくことができますように。

posted by 近 at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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