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2021.8.22主日礼拝説教「聖書が実現するために」(ルカ18:31-34)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
7月はじめに、説教壇上面をまるごと覆うアクリル板を設置し、ノーマスクで喜色満面の説教を続けてきたワタクシ。なんとそれに冷や水を浴びせるがごとき記事が『クーリエ・ジャポン』に掲載されていました。
アクリル板はコロナ対策にならないどころか、感染リスクを上げる可能性も─米紙が指摘する「死角」とは
 新型コロナウイルスの感染対策として、レストランや学校などでプラスチック製の仕切りが活用されているが、米紙「ニューヨーク・タイムズ」によれば、たいした予防効果がないどころか、かえって感染リスクを上げる可能性もあるという。
 問題は、そうした仕切りによって、室内の本来の気流や換気が妨げられてしまうことだ。
 吐き出された息は気流に乗って拡散する。室内の換気システムにもよるが、だいたい15〜30分ごとに新しい空気に入れ替わる。ところが、プラスチック製パネルが設置されていると、空気の流れが変わったり換気効果を妨げたりして、「ウイルスを含んだエアロゾル粒子が集まって高濃度になる“死角”が生まれかねない」と、同紙は指摘する。
(中略)
 専門家らによれば問題は、学校でも店でもオフィスでもプラスチック製パネルを設置する際、ほとんどの場合において室内の換気や気流を評価できる工学専門家の助けを借りていないことだという。
 プラスチック製の仕切りがあるからといって安心せず(反対に、この記事を読んでパニックに陥るべきでもない)、より良い換気やマスク着用を続けることが感染リスクの低減につながると言えるだろう。
 当教会の換気に関して言えば、部屋全体の空気を循環できるような、大きくて高機能な換気扇はありません。サーキュレーターはありますが、標準で運転しても爆音なので、人が集まってくる前に強モードで循環し、礼拝のあいだは最低速度で回しています。聖書朗読と説教の間に、3分間の黙想をおいて、そのあいだに窓や玄関の扉を開いて換気しますが、果たしてそこで約40畳規模の礼拝堂の空気がどれくらい入れ替わっているか、専門的な知見をもって行っているわけではありません。

 結論としては、最後の「仕切りがあるからといって安心せず、反対にこの記事を読んでパニックに陥るべきでもない」ということに尽きるのでしょう。だったら、煽り文のようなタイトルを記事につけるなよと言いたいところでもありますが。
 新潟県も本日(25日)新規感染者数が過去最高となりました(約150名)。そのうちの半分から3分の2が新潟市です。もともと9月上旬には200名を超えるかもしれないという警告は出ていましたのであまり驚きはしませんが、この分だと8月中に到達してしまうかもしれません。

 それでも、許される限り、私たちは三密にならないように細心の注意を払いながら、集まることをやめないでいきたいと思います。ライブ配信による礼拝参加の機会をこれからも提供していきますが、やはり願いは一日も早く、安心して礼拝に集まることができる日が来ることです。祈りましょう。週報はこちらです。





1.
 「世の中には三つの坂がある」。小泉元総理大臣が演説のときによく用いていたキャッチフレーズです。三つの坂とは、「上り坂」と「下り坂」そして「まさか」。十二弟子たちにとって、イエス様が語られた言葉は、まさに、その「まさか」でした。イエスはこう語られたのです。さあ、私たちはこれからエルサレムに上る。そして私は異邦人に引き渡され、嘲られ、辱められ、唾をかけられ、むちで打たれ、殺される。しかし三日目によみがえる、と。しかし弟子たちは、これらのことが何一つわかりませんでした。それは、彼らの心が閉ざされていたからですが、実際にあらゆるユダヤ人にとって、イエスがここで話されたことは、旧約聖書が約束しているメシヤ、つまり救い主の姿とは、あまりにもかけ離れたものだったのです。
 当時のユダヤ人にとって、旧約聖書で預言されている救い主が異邦人に辱められ、ましてや殺されるなど、決してあり得ない、いや、あってはならないことでした。神のしもべが苦しみを受ける、ということは確かに旧約聖書に書かれてあります。しかしユダヤ人たちにとって、それは預言者を指すものであり、決して救い主のことではありませんでした。彼らの考えによれば、救い主は、栄光に輝きながら、このイスラエルに永遠の御国をもたらすお方。そしてイエスの弟子たちにとって、彼らがエルサレムに入るというのは、まさに永遠の御国が現れる、その時が来たことを意味していたのです。そして弟子たちはこの救い主に従ってきた報いを受け、永遠に神の国を支配するものになる、それがこれから数週間のあいだに、彼らのスケジュール帳に起きる事柄であるはずでした。
 つまり弟子たちは、イエスは勝利者であり、王である、という考え方にとりつかれていたのです。このイエスがエルサレムに入られたならば、今までイスラエルを苦しめてきた、あらゆる敵は、地上からぬぐい去られる、という望みにしがみついていました。もし彼らが、今までイエスが語られてきた言葉をその都度、真剣に心に刻みつけていたなら、そのような救い主の姿は、単に自分たちの願望にすぎないことに気づいたかもしれません。なぜなら、イエスは、いつも、ぶれることなく、救い主は苦しみを経なければ、栄光を受けることはない、と語り続けてきたからです。
 その意味で、私たちは決して弟子たちのことを笑えないでしょう。この数ヶ月間、「安心、安全な東京五輪」をオウムのように繰り返す某総理大臣に対して、私を含め多くの国民が、それはあなたの願いにすぎない、と批判したことでしょう。しかし実際のところ、だれもが同じです。つまり、都合の悪い現実を考えたくない、そして自分の願望にすぎないことはまるで確実に待っている未来のように受け取ってしまう。人間の脳みそというのはそういう風にできています。現実を見ろと言われても、本当に現実を見たら、心が壊れてしまう。そんなか細い生き物が、私たち人間です。しかしだからこそ、次のことを忘れないでほしいと思います。人間の考えや願いが及ばないようなところから、神が私たちに与えてくださるもの、それがイエス・キリストにある救いなのだ、ということを。

2.
 多くの宗教には、ある共通点があります。彼らは、信者が願っていることを語ってくれます。前世の因縁が消えて心が軽くなる。運気が上がり、金回りがよくなる。癌が直り、子どもたちの結婚が決まる。そんな体験談が、宗教団体のホームページや新聞広告の中には山ほど載せられます。それを自分も経験するために何十万も寄付をすれば、その宗教団体はより大きなビルを建てることができ、それを見て人々はますます信用を深めていく。キリスト教も、そのような方法で成長してきたと考える人々もいますが、実際は逆です。信じたら迫害され、殺されるというのが最初の三百年間のキリスト教会の現実であったのです。信じれば罪の赦しと永遠のいのちがある。しかし地上での見返りは迫害と死のみ。しかしどんなに迫害され、仲間が次々に殺されても、教会は消滅しなかった。それどころか、ますますその勢いは強くなり、やがては迫害する者たちさえ変えていきました。なぜそのような奇跡が起きたのでしょうか。それがまさに、ここでイエスが語られた、弟子たちの常識を遥かに超えた、救い主の姿の中にありました。
 キリストが語られた救い主の姿、つまりご自分がこれからどのように死に、よみがえられるのか。それは弟子たちをはじめ、当時の人々には誰一人理解できないものでした。救い主が異邦人によって嘲られ、唾をはきかけられ、ましてや殺される、など決して理解できない。そして弟子たちに限らず、現代日本でも多くの人々がこう言います。十字架につけられた教祖に、一体何の力があるのか。それを信じたところで、何の益があるのか。十字架による救いは、人の常識では理解できず、むしろ嘲りしか起こりません。それがクリスチャンが宣べ伝えようとしている、宣教の言葉の愚かさというものです。しかしイエス様は語られました。わたしは嘲りと死を恐れずにエルサレムへ向かっていく、そうしなければ聖書は実現しないのだ、と。
 「聖書が実現する」。この言葉とて、聖書の力を知らない人々からしたらまったく理解不能です。しかし確かなことは、このイエスを信じ、救われた者は、イエスのために嘲り、そして死を恐れない者となる、ということです。ですからイエス・キリストの弟子になることは、イエスが受けた嘲り、辱めを自分も共に体験します。神のの国への扉は、取っ手からちょうつがいに至るまで、人々が吐きかけるつばきでまみれています。それでも、それに触れずには門をくぐることができません。十字架を背負ってイエスについていこうとする者は、この地上の人生では、親しい家族や友人からさえもつばを吐きかけられる生き方さえ待っているかもしれません。しかしそこを通らない限り、永遠のいのちに届かないならば、一人でも二人でも、その道を進む者がいれば、必ず世界は今よりも一歩も二歩も変わっていきます。人々が嘲るつばがこびりついた門をくぐり、茨が素足を刺し通すような小道を歩んでいかなければならないとしても、私のためにいのちを捨ててくださった主イエスに従おうとする者たちに、神は豊かな報いを用意しておられます。

3.
 イエスは弟子たちに言われました。「私について、聖書に記されているすべてのことが実現するのです」と。それは、イエスが弟子たちからも裏切られ、見捨てられ、ここに至るまで成長してきた弟子団が分解、分裂することも表していました。それでもなお、イエスはエルサレムに向かう決意を翻すことはありませんでした。なぜでしょうか。イエスは、ご自分の前途にある悲劇をすべて知っておられましたが、同時に、その先にある栄光もすべて知っておられたからです。十字架は、現実的には、弟子たちがばらばらになり、イエスは犯罪人として処刑される、つまり、誰の目にも敗北として映ることでした。しかし人から見て敗北と映る、この十字架こそ、神から見て究極、完全な勝利そのものだったのです。十字架なしには、いかなる勝利もあり得ないことをイエスは知っておられました。
 イエスは、私たちすべての罪人の身代わりとして、十字架で罪のさばきを引き受けてくださいました。本来、十字架とは、すべての人間がその罪の報いとして受けなければならないものでした。しかしキリストが私の代わりに十字架にかかり、そしてよみがえってくださった、このことを信じる者には、永遠のいのちが与えられます。そしてその永遠のいのちは、信じたときから始まっているのです。確かに、信仰のゆえに苦しまなければならない時もあるでしょう。しかし永遠のいのちを受けた者にとって、あらゆる苦しみが神の栄光を表すために必要なことに変わります。どんな苦しみでさえ神の栄光を表すものとなる、ということが意味するものは、私たちはもはや何に対しておびえることはない、ということです。私たちの教会は小さな群れですが、ひとり一人が、この救われた喜びを語っていくことができるならば、救いを世界に広げていくことができます。ひとり一人が、イエスの十字架を背負う者として歩みましょう。

posted by 近 at 16:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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