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2021.8.29「あなたを見るために」(ルカ18:35-43)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教会に関するコロナ記事が配信されていましたので備忘録として。(朝日新聞デジタル9/3(金) 7:17配信)
別府の教会で45人のクラスター 合唱など原因?想定外の事態に
 大分県は2日、同県別府市のフルゴスペル大分教会での感染者が累計45人になったとして、県内94例目のクラスター(感染者集団)と判断した。45人は県内ではこれまでで最大の規模。県は集会での合唱などが感染拡大の原因とみている。8月下旬から参加者の感染判明が続いていたが、教会での集会は聞き取り項目の想定外だったため、感染者同士のつながりをつかめずにいたという。この教会では8月22、27、29日に集会があり、計60人が参加した。参加者は間隔を開けるなど感染防止策をとっていたが、一緒に歌う時に一部の参加者がマスクをしていなかったり、マスクを外して軽食をとったりしていたという。県によると、感染力が強いデルタ株では、間隔を開けていても換気が不十分だと感染が拡大する可能性があるという。
 教会での感染者は別府市内を中心に29日に2人、30日に3人、31日に8人、9月1日に13人と続いた(日付はいずれも発表日)。県の担当者らは「何かおかしい。何かあるのではないか」と感じていたが、感染者への調査では共通の行動がなかなか見えてこなかったという。県福祉保健部の藤内修二理事は「県外に行くとか、会食をしたかとか、感染のリスクがある行動について尋ねるが、教会に行きましたかという聞き方は想起できず、感染源を探知するのに少し時間がかかった」と説明した。教会で働く職員の感染が2日発表分まで確認されなかったことも確認を遅らせた。藤内理事は「賛美歌やゴスペルは宗教活動に欠かせないものとは思うが、今の時期に皆さんで歌うことは自粛をお願いしたい」と呼びかけている。
 引用先のYahoo!ニュースでは、半日で約2400件近いコメントが寄せられています。さすがに全部読むような気力も体力も時間もありませんが、教会関係者(クリスチャン)からの辛辣なコメントもありました。中には「うちの教会は夏に献堂式をしたのに、コロナ禍に配慮して一度も集会をしていない」というのがあったりして、あれあれ、これもしかしてうちの教団のあの教会の信徒さんじゃないの?と思ったり。
 確かに、教会だからこそ気をつけなければならないと思いますが、クリスチャンが「うちは対面礼拝していないし、賛美歌も歌っていない」っていうのは胸を張るべきことではありません。もちろん努力は認めますし、忍耐もしておられるのでしょうが、それは痛みをもってご自分の中にとどめておいたほうがよい事柄であって、なんか複雑です。
 ただ、現在の主要株となっているデルタ株は、従来の対策を切り替えていく必要がある感染力であることは確かです。私たちの教会でも、行政の緊急事態宣言に合わせるのではなく、自らみことばをもとに判断していくことが改めて求められていると感じています。それにしても最近出てきた「ミュー株」は、昔、実家で飼っていた猫の名前と同じなので、なんかキュンとします。週報はこちらです。





序.
 パラリンピックの競技の中に、ゴールボールというものがあります。一つのボールを取り合って相手のゴールポストに入れるというシンプルなものですが、選手はみな視覚障がい者です。公平を期すために全員がガーゼの眼帯の上にさらに黒いアイマスクをつけ、さらに試合中にそのアイマスクに触って直したりすると反則です。完全に視界が塞がれた中で、どうやってボールを取り合うのでしょうか。ボールの中に鈴が入っていて、その音だけを頼りにボールを奪い合います。ですから観客もみな息を潜めて、一切音を立てずに競技を見守らなければなりません。しかしゴールポストに見事にボールが入った瞬間だけは、それまでの静寂を取り返すかのように、ワーッと歓声が上がります。

1.
 このエリコへの道ばたに座っていた目の見えない人も、何年も、何十年も、前を通る人々の小さな足音に耳をそばだてながら、物乞いをすることによって生活していたのでしょう。しかしこの日この時に限っては、彼は今までになく、前をゆく人々の足音が増えているのを感じました。エリコの町は、エルサレム神殿への巡礼者の玄関口になっていて、もともと多くの人々がその門をくぐっていく町でした。しかしこの目の見えない物乞いにはわかりました。今日聞こえる足音や人々の息づかいは、今まで幾度となく通っていった巡礼者たちの大群とは違う。いったい今日、何が起こっているのだろうか。彼の質問に、人々は息せき切りながら、答えたことでしょう。「ナザレ人イエスがお通りになるのだ」。それを聞くやいなや、彼は、それまでの人生の静寂をすべて取り返すかのような大声で、叫び始めました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」。行列の先頭にいた人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はますます大声で叫び続けました。「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と。
 目の見えない人にとって、静寂は生きるために不可欠なものです。物乞いもそうです。実際に物乞いをして生活していた、ある作家のインタビューをずっと昔に呼んだことがあります。物乞いは一切、声は上げない、いや、上げられないそうです。自分があわれみを受けなければ生きていけないという無力感、情けなさ、それだけが迫ってくる、と。目が見えず、物乞いをしながら、自分の感情も、人生への期待も押し殺しながら、彼は沈黙と静寂の中に生きていました。しかし彼はその痛みと苦しみを、人には話さない代わりに、神にひたすら叫んだのです。ナザレのイエスが通られる、と聞き、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と大声で叫び続けました。

2.
 どんな人間も、他人の苦しみを完全に受け止めることはできません。最初の一時間は「うんうんわかるよ、私もね・・・」とうなずいていても、次の一時間はうなずきが半分になります。本当に叫ばなければならない相手は、イエス・キリストだけだ、ということを知らなければなりません。この目の見えない人は、それまで沈黙を続けてきた人生の時間を取り返すかのように、イエスにひたすら叫び続けました。そしてイエスは、私たちが叫ぶとき、その心につかえている苦しみもすべて知っておられ、受け止めてくださいます。ただこの方に、私たちの心のすべてを明け渡そうではありませんか。
 私たちの人生には、苦しみがあります。しかし苦しみを、神にさらに叫ぶ機会にするか、それとも苦しみを忘れるために他のことで気を紛らわせるか、どちらを選ぶかによって、私たちの人生は結末が変わっていきます。苦しみを毒のように考え、他の楽しいことを使って薄めていけばよいという人生観では、信仰は働きません。叫び続けるこの目の見えない人をイエスが呼び寄せて、改めて「何をしてほしいのか」と聞いたのは、彼の叫びが信仰から生まれていることを確認するためでした。呼ばれた彼はためらわずにこう答えました。「主よ、目が見えるようにしてください」。「見えるように」というこの言葉は、原文のギリシャ語では、ただ視力を回復する、という意味にとどまりません。「もともと見えていた状態よりも、もっと上を、高みを見ることができるようになる」という意味が含まれています。ですからある翻訳では、この言葉を次のように訳しています。「主よ、あなたを見るために、見えるようにしてください」と。彼が人生で経験した、目が見えない苦しみは、沈黙と静寂を通して、人には叫ばず神に叫ぶという信仰を準備させました。そしていざ神が彼の前に現れたとき、彼は喉が涸れんばかりに叫び続けたのです。

3.
 イエスはこの目の見えない人に答えました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」。そして彼は、神をあがめながらイエスについて行ったのです。もし救いにまだ半信半疑の方がおられるのであれば、次のことをおぼえてください。主を見ることができるようになった者は、自ずから主に従っていかずにはいられなくなるのです。主が見えるようになったのに、何も変化が起こらないということは決してありません。すべての人間は罪人です。罪人には神が見えません。しかし救われたとき、神が見えるようになります。ここで見えるようになると言うのは、文字通り見えるという意味ではなく、罪が許されて神の子どもとされた恵みへの感謝で心が満たされるということです。
 目が見えるになって主について行ったこの人の道は、エルサレムの十字架へ続いていました。どんなアイマスクをつけるよりも真っ黒に閉じていた彼の瞳に、やがて焼き付けられる色は、イエス・キリストが十字架の上で流された血潮の赤でした。十字架は、イエスについてきた多くの群衆にとっては、つまずきと失望になりました。ここで民のあいだに生まれた賛美も、十字架の直前にはイエスに対する怒りの叫び声と変わりました。この人もその中に含まれるのでしょうか。私たちにはわかりません。しかし信仰によって主が見えるようになった者は、確かに主に従っていく者になるということを聖書は約束しています。もし求道者の方で、キリストを信じたらいろいろと大変ではないか、と恐れている方がいたら、その恐れをすべて神に向かって叫んでください。イエスを信じる者は、信じている限り、常に古い自分から新しい自分に作り変えられているのです。恐れる者から恐れない者へ。目の見えない者から目の見える者へ。恨む者から愛する者へ。逃げる者から従う者へ。どうかひとり一人がイエス・キリストを救い主として信じ、人生を変えられますように。

posted by 近 at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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