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2021.9.5主日礼拝説教「神に不可能はない」(ルカ19:1-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 私はさる4月から、当教団の新潟山形宣教区(12教会)の書記を務めております。来年で当教会に赴任してから20年になりますが、宣教区長は経験しても書記を担当するのは初めてです。私が赴任した20年前、書記といえば紙で文書を作成して諸教会に郵送する、という仕事のイメージでしたが、今は、ほとんどの文書は紙へ印刷ではなく、PDFファイルへの変換になり、メールに添付して送ります。
 さて、半年前に前任の書記先生から事務の引き継ぎを受けました。議事録などは残っていますが、それはいわば精選された資料で、いわゆるその下地になるメモのようなものはありません。まあなくてもそれほど困らないのですが、教会の役員会や、宣教区の役務者会で話し合われる本当に大切なことというのは、議事録には出てきません。これは議事録が不完全という意味ではなく、守秘義務の範囲においてゆだねられた事柄の中にこそ、私たちが知恵を尽くし、力を尽くさなければならない真実があるということです。これについてはまたいつか取り上げましょう。では議事録作成のための議事録というメモ的なものはどこにあるのかというと、それがメールという形で積み上げられていくのです。裁判においてもメールは証拠文書として認められるようになりましたが、モリカケ問題の本質を暴くのは役所の黒塗りの議事録に本来何が書かれていたかよりも、破棄されたメールに残されていたことなのかもしれません。
 しかし個人や教会のメールアドレスに届けられた数千のメールから、次の書記に引き継ぐべきものを抽出することは膨大な手間がかかります。そこで宣教区の公式メールアドレスを開設したのが7月くらいのこと。それならば書記が代わってもアカウント権を引き継ぐだけで過去の情報にアクセスできます。ここでそのメールアドレスを明かすことはできませんが、Gメール(Google社)を取得して、文書を諸教師に送信していました。
 ところがどうもYahooメールとGメールは、それぞれがフリーメール(使い捨て可能)なだけに、迷惑メールとして分類される率が高いようなのです。Yahooメールを使っている、ある先生から「届いていない!」と連絡が来ました。なぜ届いていないことに気づいたのかということについては、ややこしいので省略しますが、何らかの理由で迷惑メールに入れられてしまったのでしょう。そこでふと12教会の先生方のアドレスを見て思いました。大半がYahooメールかGメールなのです。これは教会として、あまりよろしくなのではないかと思います。大事な問い合わせなどをやりとりするときに信頼性がある(YahooやGoogleのメールサーバーで迷惑メールと判断されない)のは、プロバイダ各社が提供するメールです。数年前ですが、宣教区長をしていたときに、教団理事からのたいへん大切なメールが、なんと迷惑メールに入れられていたことがありました。よく見るとその理事も、Yahooメールでした。
 今日、これだけメールが普及しているなかで、メールアドレスにも公的認証制度が必要ではないかと思います。個人情報をやりとりするようなサイトには、ベリサイン社のデジタル証明がありますが、メールにはそれがありません。他人のアドレスを入手さえすれば、それを発信者として送ることも可能です。とくにフリーメールは便利ではありますが、簡単に登録できて、使い捨てられるというのは犯罪の温床にもなっています。今日、教会に問い合わせが来るときは、電話よりもメールのほうが多くなっています。また教会に行くときにはインターネットでサイトやブログを確認し、最終更新がいつかということでその教会を判断するということもあります。教会が信頼のできるプロバイダで、メールアドレスを取得することで、大切なメールを漏らしてしまう機会も少し減るかもしれません。週報はこちらです。





序.
 今から四十年前、大昔の話ですが、「ビューティフル・ネーム」という歌がありました。直訳すると「美しい名前」という意味ですが、「名前、それは、燃える、いのち。ひとつの地球に、ひとりずつ、ひとつ」というフレーズは今も覚えています。同姓同名の人もたまにいるよねという細かいツッコミは置いとくとして、親が子どもに名前をつけるとき、そこには一言で言えない思いが詰まっているのではないでしょうか。この歌は私が小学生の時にはやった歌ですが、それから数年後に聖書を読んだとき、神がアダムに命じられた最初の仕事が、動物たちに名前をつけることだったと書いてあり、驚いた記憶があります。
 「ザアカイ」という名前をつけた彼の親は、いったいどんな思いをそこにこめたのでしょうか。「ザアカイ」の意味については諸説ありますが、「おぼえている」を意味するヘブル語「ザアカル」からとられたのかもしれません。ザアカイ自身は神を忘れているような生活をしていても、神は、ザアカイをいつまでもおぼえておられました。そして神でありながら人としての姿をとってこの世界に来られたイエスは、ザアカイを再びご自分の手へ取り戻されたのです。


1.
 このエリコの町に入る少し前、イエスは人々にこう語られました。金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい。では、いったい誰が救われることができるだろうか、という人々の反応に、イエスはこう答えられました。「それは人にはできないことです。しかし神には何でもできるのです」。ザアカイに起きた出来事は、まさにそのみことばの実現なのです。
このザアカイの物語は、今までイエスが語られてきたみことばの集大成と言うことができるでしょう。思い出してください。傲慢な裁判官にひたすら食いついて裁判の権利を手に入れたやもめの話。己の胸を打ち叩きながら、神よあわれみたまえと叫び続け、義と認められた取税人。全財産を捨てて私に従いなさいと言われ、イエスのもとを去って行った青年。そしてイエスに叫び続けて目を開かれ、イエスに従っていった盲人。彼らひとり一人は、小さな人間です。しかし神がその人の中に働いてくださるとき、彼らの中に、叫びが起こり、神だけに頼り切る者となりました。救いはまさにそのようにして実現していくのです。ザアカイもそうでした。自分で自分の人生を変えることができません。どんなにお金を持っていても、それは彼に救いをもたらすことはできませんでした。しかしイエスがこのエリコの町に入ってこられたとき、彼のために用意されていた、神の救いが実現していくのです。

2.
 彼は、自分から出てくる欲求や意思ではなく、神が彼に与えてくださった救いへの求めによって、いちじく桑の木に登り、イエスを待ち受けました。エリコ一の金持ち、取税人のかしらという地位も立場もある、持っていないのは背の高さだけ。そんな人が懸命に駆け出し、いちじく桑の木にわしわしと登っていく姿。なぜ彼はここまでプライドを捨てることができたのか。恵まれ、取税人のかしらとして力を振るっていた彼をそこまで突き動かしたのは何だったのか。それはまわりの群衆たちにも、そしてザアカイ自身にも、決してわからないものでした。しかしここには奇跡が起きています。背が低いことを隠すように富で心の穴を何重にも塗り固めていた男が、今、たしかに木に登り、イエスとの出会いがそこに生まれた、ということです。
 だから自分の力で人生を変えようとしてきて、失敗をしてきたとしても、私たちは決してあきらめることはありません。神の一人子であるイエス・キリストが私たちの人生を滅びの定めから永遠のいのちへと救い出してくださるのです。私たちの目の前をイエスが通られる、それは私たちがみことばを聞くときに起きています。みことばの前に自分の心を開き、イエス・キリストを救い主として受け入れるならば、私たちは救われます。

3.
 イエスは、ザアカイがいる木の下を通りかかられたとき、上を見上げて言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。救いは、この世界が作られる前から神によって計画されている出来事です。ですから、信じる、信じない、といったことも、すべて神の御手にあります。私の伝え方が悪いから信じてもらえない、とかそういうことは決してありません。しかし聖書はこうも言っています。「聞いたことがない方をどうして信じることができるでしょうか」。信じる、ということが神が100%導いておられる出来事であるとしても、イエスという名を聞いたことがなければ、人は決して救われることはないのです。だからこのイエスの名を伝えるために、私たちクリスチャンは先に救われたのです。しかし伝え方にも、神は個性を与えてくださいます。いろいろな方法で、人々と関わるなかで、イエスの名を私たちはいつか伝えることができるでしょう。この世の中に、人生に漠然としたむなしさを感じながらも、ザアカイのように自分では人生を変えることのできない人々が数多くおられます。それらの人々が救いを受け取るために、私たちは、今日も、明日も、みことばを伝えていきましょう。教会に誘うことだけが伝道ではありません。クリスチャンが自分の生活の中でイエスを伝えたいと心から願うならば、神は必ずすべてを備えて、機会を与えてくださるのです。

結.
 ザアカイは、イエスに声をかけられて、大喜びでこの方を家にお迎えしました。ザアカイのことをずっと覚えていた神が、ご自分のふところにザアカイを取り戻した瞬間です。しかし人々はみな、神の喜びを理解することができず、「あの人は罪人のところに行って客となった」とイエスを批判しました。しかしたとえ今までイエスをほめていた唇が批判に変わったとしても、イエス様は、失われたひとりの人生が変えられることのほうを選ばれます。ザアカイはイエスを信じ、確かに変わりました。財産の半分を貧しい人たちに施し、もし脅し取った物があれば、四倍にしてその償いをする、と約束しました。そしてイエスは高らかに宣言されました。「今日、救いが確かにこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。
 失われた人がキリストに出会って神のもとに戻るとき、そこにはまったく新しい生き方があります。私たちはこの新しいいのちに生きる者です。ザアカイの姿は、私たちキリストに出会い、人生を変えられた者たちの姿そのものです。私たちは、このイエスがいなかったならば、自分の罪の中に滅び、永遠の炎の中に投げ込まれる運命でした。しかしイエスは私たちをあわれみ、ご自分が十字架で身代わりになって、私たちを救い出してくださいました。ザアカイもまた、先に救われた者たちと同じように、十字架で死なれ、よみがえられるイエスの姿をこれから見届けていく者となりました。私たちがイエスを救い主として信じるならば、このザアカイが経験した人生の変化を味わうことができます。自分で自分を変えることはできません。ザアカイもそうでした。しかし神に不可能はない。神は私たちの人生を変えることができるのです。このイエス・キリストの救いをどうかひとり一人が味わうことができますように。

posted by 近 at 12:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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