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2021.9.19主日礼拝説教「主がお入り用なのです」(ルカ19:28-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教、ロバの子の物語ですが、数年前に教団の教育局の家庭教育部に依頼されて、マタイの並行箇所から子ども向けのディボーションガイドとして原稿を提出したことがありました。私だけでなく、教団のほとんどの教師が駆り出されて、365日分のショートメッセージを作り上げた、一大プロジェクトであったはずですが、教団のホームページから入っても、なかなか見つかりません。備忘録として、行き方を書いておきます。
@右のリンクから、「日本同盟基督教団」のバナーをクリックして、教団ホームページにアクセス。
A教団ホームページの右下にある「各部局・関連サイト」から「教育局」をクリック。
B教育局のホームページにある、「家庭礼拝ガイド」をクリック。
C「家庭礼拝ガイド」のページにある、「家庭礼拝ガイド365日」という葉っぱのアイコンををクリック。
D「1日分ずつダウンロード」から「10月」という本の形をしたアイコンをクリック。
E「10月10日『エルサレム入城』」のPDFをダウンロード。
ああ、疲れた。研修会の席上で教育局長が教師たちに依頼したときは、「これは教団の次世代の信仰を養う宝物になります!」みたいなことを言われてその気にさせられた記憶がありますが、教団の複雑なHP構造の中に大事にしまわれすぎて、肝心の宝物になかなかたどり着けなくなっています。海賊王の宝を探すはずが伏線を張りすぎて収拾がつかなくなった、どこかの国民的マンガのようですね。
 いちいちPDFをダウンロードしないと見られないのもどうかと思いますし、しかも実際にダウンロードするとなぜかファイル名に「2008年10月12日」とついています。頼まれたのは2016年なんですが、どうもやる気が感じられない、教団の一大プロジェクトでした。興味があれば探してください。子ども向けのメッセージも(たまに)語れるぞ!バイブルキャンプで語らせろ!肉食わせろ!という魂の叫びに耳を傾けていただけたら幸いです。本人の了承なく、妻の名前を使って例話を書いたので、あとで怒られました。週報はこちらです。





序.
 私が新潟市役所で勤め始めた日の思い出です。私は高齢者福祉課という、だいたいどんな仕事かわかると思いますが、そこに配属されました。ところがいきなり、私の机がないのです。おかしい、課長からはあらかじめ受付に一番近い目立つ場所だと言われていたのに。必死で探したら見つかりました。机の上に、50リットルくらいのゴミ袋が四つくらいどんと置いてあって、自分の机だとわからなかったのです。ゴミ袋の中はよく見ると、「銭湯無料券」と書いてある、小さなチケットでした。それが全部で数万枚。そして私の初仕事は、私の机の上を占拠した憎いビニール袋の中身を空けて、全部で何枚あるか正確に数える、というものでした。「銭湯無料券」とは書いてあっても、それが高齢者とどうつながるのかわからないので、この永遠に続くかのような作業がいったい何のためなのかがわかりません。係長に聞いても、夜の引き継ぎの時にまとめて話す、とだけ。目的がわからない単調作業がこんなにつらいものなのか、と人生で初めて知りました。夕方まで数えて終業のベルが鳴り、ようやく教えてもらえたのは、自宅に風呂がない、困窮した高齢者に対して、月6枚まで無料で銭湯を利用できる券を交付するサービスを行っている、ということ。一応利用した銭湯の組合からも枚数は報告されるが、一応市役所のほうでもチェックするのだ、と。納得しましたが、その後も月一回、この拷問のような計数作業が私の仕事になりました。

1.
 イエスが「ろばの子を連れてきなさい」と命じている箇所を読むたびに、弟子たちはなぜそれをしなければならないのかわかっていたのだろうか、と考えます。旧約聖書のゼカリヤ書では、救い主はろばの子に乗って、あなたのところに入ってこられる」と語られています。もし弟子たちがその預言を知っていたとしても、村に入って目についたろばの子を連れてくるのは窃盗です。「どうしてほどくのか」ととがめられ「主がお入り用なのです」と言ったとしても、それが果たして通じるのか。しかしたとえ恐れが心の中に生まれていたとしても、主のみことばの力と権威に信頼したとき、道は開かれました。ルカは、ただ「二人をその子ろばをイエスのもとに連れてきた」という結果だけを記しています。みことばに従ったとき、確かに神のみこころが果たされるのです。
 信仰生活の中には、神のみこころがわからない時があります。その中で信仰が揺れ動いてしまうことも少なくありません。しかし私にはみこころが見えなくても、神には見えている。そして神の子どもとされた私たちに、神はいつも最善と幸いを与えることを喜びとしておられる、それが信仰の世界です。この弟子たちは、「なぜこんなことをしなければならないのか」という問いを飲み込み、イエスの命令に従い通しました。納得できないこと、感情では受け入れられないこと、確かにあるでしょう。しかし神のみこころは、苦しみを通して後からわかってくるものです。弟子たちがイエスのことばの意味がわかっていたかどうかはわかりません。しかし彼らがイエスのことばに従い、その通りに行ったことは、聖書にはっきりと記されています。私たちは、イエスの言葉を聞き、さらにその言葉に従います。そのとき、人の思いを越えた、神のご計画がその通りに実現します。

2.
 この聖書箇所からのある牧師のメッセージを聞いたときに、「イエスは、このろばの持ち主たちにあらかじめ話をつけておいたのだろう」というくだりがあって、驚いたことがありました。寂しいところで一人で祈っていたとき以外は、いつも弟子たちと生活を共にしていたイエスが、弟子たちが知らないうちに、ろばの持ち主と話をつけておいたということがあり得るのでしょうか。しかし一方で、何も知らないろばの持ち主が「主がお入り用なのです」と弟子が言った途端に、聖霊に打たれて「どうぞどうぞ」となったということも考えられないことです。なぜなら、「ろばの子に乗った、まことの王」という旧約聖書の預言が成就するために、まったく関係のない人々が用いられるほど、神のことばは安っぽいものではないと思うからです。このろばの子は、いわば神へのいけにえです。殺されたわけではありませんが、神のみわざのために聖別されたものです。それを「主がお入り用なのです」という言葉で了解し、送り出した、無名の持ち主・・・彼は聖書の中にたびたび登場する、隠れた弟子であったのです。
 すでにこのとき、祭司やパリサイ人らは、イエスを殺害することを決めていました。そしてイエスを公に告白する者に対しては、ユダヤの会堂から追い出すことを明らかにしていました。そのような中で、危険を顧みずにイエスの弟子であることを告白し、貫いた人々もいました。しかし公に表すことはしなくても、イエスのために何かをしたい、何かをささげたい、という人々もいたのです。後にイエスの葬りのためにやってきたニコデモやアリマタヤのヨセフ、また過越の食事をする場所を用意していた宿屋の主人などもその一人でした。

3.
 昔、道徳の教科書によく掲載されていた「鉢木」という物語があります。あらすじをすべて話すことはできませんが、鎌倉幕府に仕えていた武士が、今は没落して食べるにも困る生活をしていても、刀と鎧、馬だけは決して売ることはしない、もし将軍からの号令が一声かかれば、「すわ鎌倉」と一番にかけつけるつもりである、という内容です。信仰の世界においても、まことの弟子は、決して人に知られるような大仕事を常に任せられてるわけではありません。イエスが小事に忠実な者は大事に忠実であると言われたように、多くの弟子が行っているのは小さなことです。しかしどんな状況の中にあっても、イエスは私たちを見ておられます。そしてあなたの大いなるみわざを表すために私を用いてください、という祈りをいつもおぼえていてくださいます。このろばの持ち主は、まさに隠れた弟子でした。しかし神は、旧約聖書から預言されていたみわざの実現のために、彼を欠けてはならない弟子として用いられたのです。
 いま旧豊栄市にあるキリスト教会は、この教会だけです。そしてこの教会も、その礼拝者の数は、多いときでも四十人くらいです。しかしこの町には、神が救いの計画を定めておられる、弟子となるべき者たちが確かにいるのです。彼らは、今は神を知らず、神を求めず、己の生きるままに歩んでいるかもしれません。しかし主はいつかその人々を公に表し、キリストのためにその力を用いてくださいます。それを掘り起こすのは誰でしょうか。私たち教会です。教会員のひとり一人が、神と神の言葉に信頼し、この町にいる人々にみことばを語り続けるならば、この町には今までもこれからも神の栄光が現れていきます。公の弟子も、隠れた弟子も、ともにイエスの言葉を通して出会い、それぞれの信仰を働かせて神のみわざに加わりました。私たちも、みこころのままに私たちを用いてくださる、神に信頼して歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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