また一人、昭和の巨星が逝かれました・・・『ゴルゴ13』の作者、さいとう・たかを氏です。
作者が亡くなると作品も終わってしまう、というのが漫画界の常識ですが、さいとう氏の偉業は、作者とアシスタントの協力体制によるプロダクション制を極めて早くから確立させていたということ。『ゴルゴ13』は「作画はアシスタントに任せて、作者はゴルゴの目しか書いていない」という噂があり、長期連載のライバルであった秋本治氏の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』30巻にも、その噂をパロディー化した「近所の大先生」が出てきます。



「牧師は何でも屋でなければならない」と先輩牧師に言われたことがあります。確かに牧会は、説教の勉強だけでなく、事務、経理、福祉、政治、あらゆる領域に対する知見が求められます。しかし、「牧師は何でもしてはならない」のです。(「何もしてはならない」という意味ではないので、読者はよく読み取るように)
牧師が何でもしてしまう教会は、いつのまにか牧師に依存し、本来、教会員が自らみことばから考えて、行うべきことさえも、牧師や牧師夫人が行う、あるいは指示がなければ何もしない、ということになります。そしてその牧師が天に召されたり、異動されたときに、教会そのものが動かなくなる、ということも起こります。
その意味で、さいとう氏が亡くなられた直後に、掲載誌の編集部が「ゴルゴ13はこれからも続きます」とコメントしたことは、ご本人が一番喜んでおられることかもしれません。戦場カメラマンの故ロバート・キャパの言葉を借りるならば、「牧師(戦場カメラマン)の夢は廃業である」(牧師がいなくても、信徒がお互いに教え合うことができる)のです。しかしそのような自立は決して簡単に生みだされるものではないがゆえに、それまでは牧師たちは産婆役を引き受けなければなりません。
私も、たとえ土曜日に天に召されても翌日はいつもどおりに礼拝がささげられる教会を目指しながら牧会しています。け、決して怠けているわけじゃないんだからね!週報はこちらです。
1.
今日9月26日は「台風の日」だそうです。日本はしょっちゅう台風に襲われますが、その中でも歴史的被害をもたらした台風は、この9月26日が多いということなのだそうです。私が生まれる前のこと、もしかしたらこの中に経験した方もいるかもしれません、史上最悪の台風と言われ、約五千人が亡くなった伊勢湾台風が紀伊半島を襲ったのは昭和34年の9月26日でした。またやはり超大型の台風によって引き起こされ、乗客一千人あまりが亡くなった、青函連絡船・洞爺丸事故が起きたのも、昭和29年の9月26日であったそうです。今年の9月26日は何もなければよいが、と思いながら、先週はこの説教原稿を書斎で準備していました。穏やかに鈴虫が鳴いておりましたけれども。
二千年前、イエス・キリストはこのようにみことばを語られました。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」
イスラエルは一年が乾期と雨期に分かれています。乾期にはほとんど雨が降りませんが、雨期になると、まるで天にある巨大な貯水タンクが、一気に蓋を外されたかと思うような大雨に襲われるそうです。しかもイスラエルの国土は、国土と言いつつ土がありません。地面の多くが岩や石でできています。大量の雨水が地面に吸収されずに、そのまま洪水となって襲いかかるのです。洪水で家を失わないためには、とにかく家の土台を深く深く堀るしかありません。もちろんそのために、時間も労力も、そしてお金もかかります。しかしイスラエルでは、もしかしたら家が流されるかもしれない、ではないのです。労力と準備を怠ったまま雨期になれば、必ず洪水で流されてしまいます。
2.
私たちの人生は、やがて確実にやってくる「終わり」を考えなければなりません。「終わり」に目を背けている人生は、心から楽しむことができず、常に不安を抱えなければなりません。しかし「終わり」を見つめることができる人は、本当の意味で人生を謳歌することができます。最近、「終活」という言葉をよく聞くようになりました。「終活アドバイザー」なる肩書きも生まれているようです。しかしほとんどの終活アドバイザーが忠告してくれることは、生きている家族に何を残すか、ということばかりです。しかし人が本当に考えなければならないのは、残していく地上の人々ではありません。やがて自分が神の前に立たなければならない、地上の終わりのあとのことを考えなければならないのです。旧約聖書にある『伝道者の書』は、神なき人生のむなしさが書き綴られている書物ですが、最後はこういう言葉で終わっています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」
地上の生活が終わった後、神の前に大胆に立つためにはどうしたらよいのでしょうか。だからこそ、イエス様の言葉が私たちに与えられているのです。やがて確実に終わりがやってくる。それを受け入れて、地上の人生も、その後のいのちも、楽しむことができるのは、私の言葉を聞いてそれを行う者だ。岩の上に土台を据える者なのだ、と。どんなに十分なお金や、豊かな人間関係を培って生きた人生であっても、それは死んだ後には神の前に持っていけません。ただ私たちが手に入れておかなければならないもの、それはイエスが語られた言葉を行うということです。それは何か道徳的な人間として生きる、といったことでもありません。イエス・キリストは、私たちを心から愛しておられます。その愛ゆえに、十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって、すべてのさばきを引き受けてくださいました。キリストの十字架が、私のさばきの代わりであったのだ、と信じるならば、もはや私たちは神の前でさばかれることはないのです。さばきはすべてイエスが受けてくださったからです。
3.
説教の冒頭でお話しした洞爺丸事故について、改めてお話しします。昭和29年9月26日、函館と青森を結ぶ大型連絡船である洞爺丸が、北海道を襲った超巨大台風に巻き込まれて座礁、沈没し、死者行方不明者合わせて一千人あまりが亡くなりました。その時、洞爺丸に奇しくも乗り合わせていた外国人宣教師たちがいました。彼らは日本への宣教の思いに燃やされて、カナダから派遣された宣教師でした。リーパー宣教師は恐怖におびえる乗客に、やさしく語りかけ、自慢の手品を披露、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜び。一時船室に落ち着きがもどりますが、やがて船は大きく傾き、船室に水が流れこみます。リーパー宣教師は、たまたま同乗していたストーン宣教師、オース宣教師と力をあわせ、悲鳴の渦のなかで逃げまどう乗客に救命具を配り、着用に手間取る子どもや女性を助けました。ストーン宣教師は、救命具のない学生を見つけ「あなたの前途は長いから」といって救命具をゆずりました。リーパー宣教師は女性や子どもたちに救命具を着せてやり、最後まで励ましの言葉をかけ続けたと伝えられています。
もし私がその宣教師たちだったらどうだろうか、と考えます。もちろん、一人の人を生かすために自分を犠牲にする、というキリストの死に様を私も知っています。しかし自分が生き残り、宣教を通して多くの人を生かす、という道も考えられます。それは必ずしも姑息とは言えないでしょう。実際に、災害現場の中において、人を助けるよりも自分の命を守ることを考えよ、ということがよく言われます。しかしその宣教師が自分のいのちを投げ出したのは、ただイエスと同じだったのだろう、それ以外は思い浮かばなかったのだろうと思います。それが、私たちクリスチャンがキリストに似る者とされていく、ということなのでしょう。
ある人が言いました。もしこの世界にいる人間が私一人だけだったとしても、イエスは私のために死んでくださっただろう、と。そうなのです。イエスは罪人である私のために死んでくださいました。私たちひとり一人にとってそうなのです。神の言葉を無視し続ける人々は、砂の上に家を建てていながら、その危険に気づかない人々です。それはかつての私であり、あなたでもあるでしょう。しかしイエスは、私が、あなたが、永遠の滅びへと流されてしまうことを何よりも悲しまれました。だからこそ、私の代わりに、あなたの代わりに、十字架にかかってくださいました。イエスの十字架が私のためであると信じる者は、生きるのです。人生の終わりが来ても、まだ生き続けるのです。決して死後のさばきに会うことがなく、いつまでも生き続けるのです。それを知っている人は、本当に人生を楽しむことができるのです。