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2021.10.3主日礼拝説教「明日のために種を蒔く」(詩126)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
遅ればせながら、この木曜日にようやく1回目のワクチンを打つことができました。武田モデルナです。なんか帰国子女みたいな名前ですね。
本当はもっと早く打ちたかったのですが、もし副作用が起きて倒れてしまったら、替えがいないのが牧師の仕事(先週のブログとまるで逆のことを言っていますが)。
現在の私の生活パターンは、日曜日には3度の礼拝、月曜日は次週の説教を作成して録音、火曜日は翌日の水曜祈祷会メッセージの準備、といったように、週の前半に比較的、クリエイティブな仕事が集中していますので、ワクチンを打って、1〜2日寝込むなんて話を聞くと、接種を受けることができるのは木曜日しかありません。そんなこんなで、こんなに遅くなってしまった次第。
頭痛、発熱はありませんが、まだ腕が痛いです。そんな私をことのほか喜んでいるのがうちの妻。
腕が痛いのを知っていながら、朝っぱらから「ヨォ、元気?」とか言って、痛い方の腕を叩いてきます。悪役プロレスラーみたいですね。
ただ、副作用がこの程度で済んで、よかったと主に感謝しています。
次の日曜日は、別の教会で説教奉仕ですが、豊栄ではとっておきの外部講師を頼んでおりますので、お楽しみに。週報はこちらです。





1.
 この詩篇に歌われているシオンとは、エルサレムのことです。この町は、今から約3000年前、ダビデ、ソロモンの時代に繁栄の極みを迎えましたが、やがて王国は分裂、そしてその四百年後にはそれぞれの王国は滅ぼされました。しかし神は、イスラエルを見捨てませんでした。バビロン帝国に捕らえられていたイスラエル人たちは、やがてそのバビロンを滅ぼしたペルシャの王クロスによって、奴隷から解放されます。そして彼らは奪われたすべての財宝を取り返し、エルサレムへと帰還しました。そして壊された城壁を修復し、神殿を再び建て直すのです。「シオンの繁栄を元どおりにされた」という言葉は、イスラエルがそのように国としてのかたちを回復していった姿を指しています。
 奴隷であった自分たちが、解放され再びエルサレムに戻ってきた。それはまさに夢のような出来事でした。人々の口には笑い声があふれ、喜びの叫び声が響きました。
 しかし4節ではこのように告白されています。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください」。確かに、人は増えた。城壁は復旧し、神殿が再建された。イスラエルはかつての繁栄を取り戻しているかのように見える。しかしそれは本当の繁栄ではない。私たちの繁栄は、まだ元通りにはされていないのだ、と。

2.
 ネゲブというのはイスラエルの南に広がる乾燥地帯を言います。そこは一年が雨期と乾期に分かれ、乾期の時にはまったく雨が降らず、水のない川が広がります。言い方を変えれば、川はいくつもあるのに、水が流れていないのです。人々が主のみわざと喜んだシオンへの帰還も、それは水のない川だったのです。確かに人は戻ってきた。神の宮も建て直した。城壁も再建された。
 しかし何かが足りない。詩人が足りないと考えた「何か」、それは現状に満足し、犠牲を払って神の御心を果たす信仰ではなかったか。私たちが最後に涙を流したのはいつだったか。もちろん大人だから人前で涙を流すようなことはないかもしれない。
 クリスチャンにとって涙は悔い改めの涙だけではありません。何もしなければ、何も失うことはない。だが何かを残そうとするときに、必ず私たちはいまを失うかも知れないというリスクをを目の前にする。それでも涙をもって現状維持と決別し、ただひたすら神にしがみついて前へ進めるかどうか。その信仰の姿勢こそ、詩人が私たちに語ろうとしたものです。

3.
 5節および6節をお読みします。
「涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。」
 「種」とは、じつは実そのものです。種は実の中に入っているのです。お米を想像してください。あの金色の稲穂に連なる無数の粒ひとつひとつが実であり、そして同時に種でもあります。種を蒔くというのは、じつは実を蒔くことに他なりません。しかし、もし実がわずかであったらどうでしょうか。つまり、わずかに結んだ実を種として来年へ向けて地に蒔くか、それともそれを今、食べてしまうか、という状況がしばしば起こりうるのです。
 食べてしまったら種は蒔けません。しかし結んだ実を種に回せるような余裕はない。それがじつは、この詩篇の背景でした。今日食べる分を犠牲にして、涙をもって種を蒔く。幼い子どもたちに食べさせる分を我慢させてまで、泣きながら畑へと出て行く。それは来年実を結ぶのを見る前に自分たちが飢え死にしてしまうかもしれない危険をはらんでいます。
 しかし詩人はここで歌います。彼らは、喜び叫びながら刈り取ろう。彼らは束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる、と。種の大切さを知らぬ者は言います。まず今日を生きのびることが大事。しかし種を蒔く者は言います。今日自分が生きのびることよりも、明日種が芽を出すために。そして芽を出した種が数ヶ月後に実を結ぶことを専ら考えます。そしてそれが、神に信頼する者たちが選び取るべき生き方なのです。

結.
 今日、犠牲の涙をもって種を蒔くならば、必ずいつかその実を結びます。大切なのは、明日何が咲くかは神に任せ、今日自分に与えられた責任を果たすことです。世の人々は、明日何が起こるかわからない、漠然とした恐怖感の中で、今日蒔くべき種籾を食べ尽くしています。今日を乗り切ればそれでいい。今が楽しければそれでいい。
 しかし私たちは今日、聖書のことばを聞きました。種籾をむさぼり食うような生き方を選ぶことはできません。今どんなに涙を流しても、今どんなに苦しみの束を抱えても、それはやがて喜びと収穫の朝を迎えます。聖書はそれを何千年も昔から、信じる者に約束しているのです。それが、この詩篇126篇を貫いている詩人の叫びなのです。
 私たちはどうでしょうか。明日のために種を蒔くという言葉を、それぞれが受けとめてほしいと思います。

posted by 近 at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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