こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
10月10日は、かつて兼牧していた村上福音キリスト教会の会堂増築感謝礼拝での記念説教を依頼され、当教会の礼拝は、新潟聖書学院でキャンプ関連のいろいろご奉仕しておられた佐々木昇先生にお願いしました。今年からその奉仕を離れ、来年度からは通常の牧会につく予定であるということです。いつもの私の一本調子の説教とは違う、滋味豊かな説教を語ってくださいました。
ところが現在、当教会では一日に三回礼拝を行っており、第一礼拝は8:00からなので柏崎在住の佐々木先生にはお願いできません。で、結局、私が説教を準備しました。違う聖書箇所から語ると、週報(プログラム)がもう一枚必要になるので、佐々木先生と同じ箇所から語りました。ある教会員は、第一と第二の両方に出席したそうです。たぶん同じ聖書箇所からでも、アプローチもだいぶ違うのかもしれません。佐々木先生の説教は、10/16土曜の正午まで、ライブ配信の中で聞くことができます。午後になると、ライブ配信のページを、次週の礼拝のライブに上書きしてしまうので、期間限定!産地直送!問答無用!とりあえず四文字熟語にすると、そんな感じです。
来週の私の説教は、村上での会堂増築記念説教を修正したものを語る予定です。偶然、ではなく、みこころ、と思いますが、いま当教会でも新会堂用地が示され、24日に臨時教会総会を行います。村上の兼牧で経験したことがありました。本当に成功する会堂建築というのは、人間の思いを越えた神のみわざがこれでもかこれでもかとついてくるのです。問題もたくさん起きて、もちろん祈ったことも数え切れないのですが、不安の中で祈るということはありませんでした。次は神様は何をしてくださるんだろうとニヤリとするくらいの余裕がありました。今回の物件もそれ以上ですので、総会で否決されたらどうしようとか一切考えていません。商人が畑に埋まっている宝を見つけたら、財産を全部売り払ってでも手に入れるというたとえ話そのものが、いま目の前に起きています。どれだけ犠牲を払うことになっても、それは苦痛や不安ではなくて期待しかない、ということが本当に起こるのですね。これについては近い将来に、お話しできる時が来るでしょう。乞うご期待。週報はこちらです。
序.
いま、コロナのワクチンを二回接種した方の人数は約7600万人、全国民の約60%だそうです。通常のウイルスであれば、60%は集団免疫が生まれる数字だそうですが、この新型コロナ、とくにデルタ株の場合は厳しくて、80パーセントを超えないといけない、ということでした。あくまでも希望は数字ではなくイエス様にありますが、それでも医療関係者をはじめ、いろいろな方々の努力でここまで来ていることに感謝したいと思います。
私はようやく先日、1回目のワクチンを打つことができました。行政から接種券が届くのが遅かったというのもありますが、基本的に、注射が嫌いなのです。中学生の時に長いあいだ入院していたことがあって、ほぼ毎日点滴を打っていました。ところがその頃はまだ血管が細いので、点滴が入りにくいのです。しょっちゅう液漏れして、紫色に腫れ上がって痛くて眠れなかったり、ということがあったのですね。あまりにもたくさん失敗して打たれたせいで、注射針に詳しくなりました。優しい研修医は、痛くないようにとゆっくり刺すのですが、ゆっくり刺すとよけい痛いのです。どれだけ泣き叫ぼうが、刺すべし、刺すべし。あと初めから「うまく入らなかったらごめんね」とかいう先生。それは優しさではなく優柔不断です。血管注射は、必ず入ると確信して打たなければ、入るものも入りません。己を信じて、刺すべし、刺すべし。恋愛と同じです。
ただ二年も入院していると、最初は針を打つのも下手だった若い先生が、場数を踏むうちにどんどん上手になっていく姿を見ることもできて、向こうのほうが年上なんですが、「成長したな、先生」と声をかけたくなるようなこともありました。何様なんだという感じですが。
1.
クリスチャンはだれもが信仰の成長を願っています。そして、よいメッセージを聞き続けることが成長の秘訣であると誤解しています。しかしどんなに良い説教を熱心に聞き続けてもそれだけでは成長は生まれません。聞いたみことばを実践することを、失敗を繰り返しながら、ひたすら場数を踏んでいくこと、聞いて行おうとする、数え切れない経験の中に、成長の秘訣があります。
ルカの福音書に、マルタとマリヤの物語があります。マルタがもてなしに忙しくしているとき、マリヤはイエスの足元に座って、ひたすらみことばを聞き、イエス様は「マリヤは必要なものを選んだ」とほめました。しかしこれは、みことばを聞くことの大切さを教えてはいても、聞くだけでよい、という教えではありません。マリヤがイエスの話を聞いていたのは、聞いて行うというイエス様の期待に応えることを当然として、聞いていたのです。聞くことは、聞いたことを行うということも含みます。しかしまず聞かなければ、実践することはできません。みことばは、聞くだけでは完成しません。聞いたみことばが行われたときに、はじめて実を結んだと言えるのです。
ヤコブは、聞いても実行しないのは、自分を欺いていることだと言います。そして当時は高価であった、鏡をたとえに用いながら、手紙の読者たちに迫りました。あなたがたの持っている鏡は、裕福な生活のステータスではない。鏡は、映し出すためにある。神はいまあなたが聞いているみことばを鏡として、ご自身の愛ときよさを映される。そして神の愛ときよさが示されるとき、私たち罪人は、逆に自分の罪と弱さの姿を示される。しかし大事なことは、その己の姿を見つめるということから逃げないこと。それはつらいことかもしれないが、鏡の前に、みことばの前にとどまること。
2.
聞いたことを自分に向けて適用できるのは御霊の働きです。そして御霊は私たちに、みことばを通して行いという実を結ばせてくださるのです。ある教会の、ひとりのご婦人の話です。礼拝の後にいつも牧師のところに来て、今日の説教はようございましたわ、と言ってくださるのですが、必ず最後にこんな言葉を付け加えていたそうです。「今日礼拝を休まれた、あの兄弟に聞いてほしかったですわね」「ああ、主人を連れてくるんでしたわ。主人がこの説教を聞いていれば、イエス様を信じたかもしれません」。そんなある日の説教の中で、牧師が「みことばはまず自分に適用すべきなのです」ということを、語りました。礼拝後、彼女はいつものように牧師のところにやって来て、こう言いました。「先生、今日のメッセージは特に深く心に刺さりましたわ。ああ、救われる前の私に今日のメッセージを聞かせてあげたかったですわ」。
どんなメッセージも、頑として今の自分に適用しない。笑い話として少し脚色したものの、しかし同じ轍にはまり込んでいるクリスチャンは少なくありません。それは御霊が働かないのです。メッセージに対して、恵まれるとか恵まれないとかばかり考えていると、心の中は人の思いが溢れてしまって、聖霊が心の中で働かれる余地がなくなります。どんなメッセージであっても、これはすべての人の心を知る神様が、説教者を通して、今の私に語られているものなのだと信仰を働かせて聞くならば、そこに聖霊が働いてくださって、聞いて終わりではなく、行いとしての実を結ばせてくださいます。いま、神はあなたに何を求めておられるのでしょうか。「いま、私に」。みことばを行うというのは人の努力ではなく、神が与えてくださる奇跡です。人の思いを捨て、信仰を働かせて神のことばを聞くときに、そのみことばを実践するという奇跡が生み出されていくのです。
3.
みことばという鏡が映し出すのは、私の良いところよりは、むしろ悪いところかもしれません。神のきよさ、真実、愛をみことばを通して示されるとき、むしろ私たちは神のこどもにふさわしくないような、自分の汚さ、罪、愚かさ、が迫ってくることさえ起こります。しかしそこに映し出されたものから私たちが目をそむけないならば、それでもなおイエス・キリストが私を選び、十字架の身代わりの死を通して、永遠のさばきから救い出してくださったのだということも迫ってくるのです。
ですから、このみことばという鏡を通して映し出されたものを、ちらっと見るだけで忘れてしまう者ではなく、「一心に見つめる」ことが大切です。みことばは「自由をもたらす完全な律法」だ、と言われます。モーセがユダヤ人たちに与えた律法は、神の御心に反して、彼らを束縛してしまいました。神が律法を通して教えた、愛と自由への招きを、かつてのユダヤ人たちは理解せずに、かえって律法に反していると言ってイエス様のあらゆる行動を批判し、イエス様の言葉を受け入れようとしませんでした。
しかし私たちは、いまみことばを通して、キリストにある自由と解放が確かに与えられたことを確信することができます。だからこそ、みことばを聞くだけではなく、行うことができるのです。ひとり一人が、今日受け取ったみことばを、自分にできる方法で行い、祝福をいただきましょう。
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(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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