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2021.10.17主日礼拝説教「山は動いた」(詩121)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 今回の説教は、この一週間前の10月10日に村上福音キリスト教会の会堂増築感謝礼拝での記念説教をアレンジしたものです。
手抜き?いえいえ、牧会的配慮です。
 私たちの教会も、このたび新しい会堂用地が示され、今度の主日に臨時教会総会を行います。10/10の村上での説教奉仕は何ヶ月も前から決まっていたことですが、ちょうど並行して、当教会でも新会堂用地が突然示され、総会公示期間3週間を含む、約一ヶ月半のあいだに、準備委員会・役員会・総会へと次々に進んでいくプロセスは、ノンクリスチャンである売主様や仲介業者さんとのやりとりを含めて、不思議の連続でした。その中で、私自身の確信も確かなものになっていき、いよいよ総会を迎えます。
 牧師が迷っているものを総会にかけるのは禁物です。総会は「牧師や役員会では決めかねないから、みんなで決めよう」というためのものではありません。総会に出席する信徒は、牧師・役員以上に判断材料が限られているのですから、そこに決定を「ゆだねて」しまうのは危険なことです。総会は「みんなにゆだねる」のではなく、「みんなに認めてもらう」ための場所です。牧師と役員が共同して、なぜこの議案に賛成してほしいのかを説明する。そしてもしその説明が足りなければ、信徒は質問する。しかし反対ありきの敵対的な質問ではなく、現状では反対でも、質問とその回答を通して賛成への一石としていただくことが提案者の願いであることをわきまえながら、信頼関係を踏まえた質問と回答がなされていき、そこで教会の徳と証しが生み出される。それが教会の総会であり、株主総会とは違います。いや、株主総会に出たことがないから知らんけど。
 「委任状に反対意見を書いて提出する」という方法もあるようですが、「委任」というのは実際に出席する誰かに自分の意見を託す(白紙委任であれば議長に、指名委任であればその人に)ことなので意味が通りません。何よりも、反対意見を出して、実際には出席しないということであれば、総会を通していろいろな人の意見を聞きながら、自分自身の意見を修正していくという総会本来の趣旨に反することになります。確かに総会は、教会において最高の議決機関です。しかしそれは機械的な解釈ではなく、人間の最初の意見(議案に対する第一印象)は間違えやすい、しかし総会に出席し、論議を尽くすことを通して、思い込みや偏狭な考えがあればそれを修正し、その議案が正しい方向へと進むことを前提としているのであって、それを無視して、自分の意見を送りつけることが総会だというのは、少なくともキリスト教会においては慎重であるべきでしょう。
 じつはこれは古代ギリシャの直接民主政の時代から、永遠の政治の課題です。たとえば私たちは、選挙を通して、国会議員や地方議会の議員を選びます。しかし一体何をもって選ぶのか、というと、政策を理解して投票することはまれです。なぜならば、候補者自身が、自分の政策を説明する能力に欠けているからです(笑)。ですからほとんどの選挙は、候補者の名前を連呼するか、「今度こそ私に一票を与えてください」と同情を誘うか、有権者は本来の政策を理解することができないまま、投票することになります。かつて日本では、普通選挙権はなく、ある程度裕福な人や、男性のみに選挙権を与えていました。それは批判もありますが、実際の所、女性に教育の機会が与えられていなかったり、貧しくて文盲の人々が大多数の中で、ある程度は仕方のないことだったと思います。しかし現代はそうであってはなりません。印象だけで大事なことが決められてしまう、衆愚政治を繰り返してはいけません。それを利用したのがヒトラーでした。ヒトラーは暴力で政権をもぎとったのではなく、選挙によって合法的に選ばれたのです。候補者は誠実に政策を語り、有権者は謙遜に学び続ける、そのような主体的参加がなければ、直接民主政は、実際の所は独裁制と変わらないものになってしまうのです。
 少し話がそれましたが、牧師が確信を持てず、説明もできないような事柄を、教会総会の決定にゆだねることは罪です。今回の用地も、会堂建設準備委員会で説明してもし多数の反対があれば、到底役員会にも総会にも出すべきではないと思っていました。しかし準備委員会では、決して安くはない負担にもかかわらず、牧師からの情報発信が誘い水となって、委員の口から幾多の熱いビジョンが語られ、準備委員会の決議として、役員会に提案することが承認されました。その次の週にはすぐに役員会が開催され、重要な議案ですので決定まで二週をかけましたが、それは役員の考えが分裂したからではなく、役員会が責任をもって総会を招集するのだから、たとえ全員が一致して賛成でも、結論を出す前に一週間祈ろうということになったのです。それでも一週間後、役員会の意思は変わらず、全員一致にて総会への提案となりました。ただ、実際に不動産市場に出されているものを購入するわけですから、そこには慎重さだけではなく、迅速さが必要です。そこでどうしてもプロセスに説明が欠けていたりするところも出てきます。それもまた総会の中でしっかりと討議され、みんなが確信をもって進んでいくものになること、それが祈りの課題です。お祈りください。週報はこちらです。





序.
 先週の日曜日、村上福音キリスト教会の増築感謝礼拝が行われ、私が記念説教をいたしました。数年前に、約二年間、豊栄と村上をはしごしながら、ふたつの教会を牧会したことが、昨日のことのように思われました。当時、村上教会は牧師の辞任という悲しみを経験する一方で、ある篤志家から、二百坪以上の土地を寄付されるという信じられない出来事がありました。
 その中で私は、新しい牧師が来る二年のあいだに、教会の新会堂建設を行うという特命がありました。二百坪もの土地には、毎年数十万円の固定資産税がかかります。宗教法人の所有地であれば何でも非課税になるのではなく、その場所で宗教活動を行っているという事実がなければいけません。また土地を何年も放置しておくと、せっかく譲ってくださった方の思いに答えられず、ご近所への証しにもなりません。その二年間は、体力的にきつかっただけでなく、霊的にも苦しい時期でした。私が苦しむだけならまだいいのですが、信徒と向きあう力が弱くなり、問題が先送りになった結果、教会を去ってしまった人もいました。その痛みを思い出しながら、完成して四年足らずの教会堂の隣に、もう一つ新しい礼拝堂が生まれた姿を目の当たりにして、今もうずく霊的な傷口に、神が御手を触れてくださったような気がしました。
 しかしそのかつての経験が、現在、豊栄教会にチャレンジが与えられている、新会堂用地とも関わりがあるのです。神は私たちの想像を遥かに越えたご計画を持っておられます。先にビジョンが示される場合もありますが、問答無用の神のご計画の実現を経験した後に、神がその場所に対するビジョンを与えてくださることもあります。神がすでにご計画を持っておられ、すでに始まっていることを私たちが信じ従うときに、私たちが想像することもできないような恵みが与えられることを、今日はお話ししたいと思います。

1.
 二百坪の土地をただで譲るという信じられない話が村上の教会に寄せられたとき、早速その場所を見に行きました。確かに土地は広かったのですが、すぐ近所に、村上の歴代藩主をまつっている大きなお寺があり、また敷地には何十年も放置されている廃屋が建っていました。しかしその土地に立って振り返ると、村上市のシンボル、お城山がものすごく近くに見えて、雲間からヤコブのはしごのように日の光が差していました。ここは、主が与えられたところだ、と思いました。どんなに小さくても、ここに十字架が掲げられた教会堂が生み出されるならば、必ず村上宣教は前進し、救われる人が一人でも二人でも起こされていく。そしてそのときに心に迫ったみことばが、詩篇121篇でした。
1節、2節をお読みします。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。」
 太宰治が書いた、「桜桃」という短い小説があり、その導入で、この121篇の1節が引用されています。では信仰的な内容なのかというと、まるで逆です。主人公は、太宰本人がモデルであろう小説家。原稿料をすべて飲み代に使ってしまい、妻と子どもたちをほったらかして、毎晩飲み歩いています。そして小説の最後で、桜桃、つまり「さくらんぼ」が、デザートでしょうか、目の前に出てきます。そこで彼はこう考えます。「桜桃が出た。我が家では、桜桃のような高級品は、子どもには食べさせない。子どもたちは桜桃など、見たこともないだろう。父が持って帰ったら喜ぶだろう。つるを糸でつないで首にかけると、きっと桜桃はさんごの首飾りのように見えるだろう。」ところが心の中ではそんんなことを考えても、彼は桜桃を全部、くちゃくちゃ食べたあげく、こうつぶやきます。「子どもよりも親が大事」。小説はそこで終わります。そしてこの小説を書き上げてしばらくして、彼は川に飛び込み、自ら命を絶ったのです。

2.
 太宰がこの小説の導入で引用した「私は山に向かって目を上げる」の「山」とは、変えたくても変えられない、自分自身の象徴でした。温かい家庭を築きたい、桜桃を子どもたちに持ち帰ったらそのきっかけになるかもしれないと思いながら、結局は自己中心の生き方から離れることができない、そんな彼自身こそ、動くことのない「山」そのものでした。私たちと同じ聖書を開きながらも、彼は山の向こうにあるもの、いや、山そのものを作り出した方に対して、目が開かれません。そしてそれが、この新潟に、日本に、数え切れないほどひしめいている人々の姿です。変えられない自分、変えられない社会、変えられない未来、その前に人々は絶望しています。しかも絶望していることに自分自身が気づかない、霊的盲目の中にいます。天才の名をほしいままにした太宰でさえ、目が塞がれて、絶望を抱きかかえたまま死んでいきました。だからこそ私たちは、どんな時代にあっても、この聖書を開いて、こう伝えていかなければなりません。「あなたの助けはどこから来るのか、知っていますか。あなたの助けは、天地を造られた主から来ます。この方こそ、あなたの罪の身代わりとして十字架で命を捨ててくださった方、イエス・キリストなのです」と。
 忘れられない出来事があります。村上教会に土地を譲ってくださる方の所に挨拶に行ったときのことです。その方、Aさんは、村上を何十年も昔に離れて、今は東京にお住まいの方でした。市営団地に娘さんと一緒に暮らしておられ、鼻にはチューブが繋がれていました。そしてかすれた声でこう言われました。「私も長くないし、娘も村上には帰らない。あの土地を残して娘に多額の税金がかかるよりは、教会さんに有効に使ってほしいと思っている。」同席した娘さんも、私もそれでいいと言われました。未信者の方から、こんな申し出があったことに、ただ驚くしかありませんでした。

3.
 しかし本当の驚きは、この後だったのです。村上に戻って、土地の登記簿を調べると、土地の一部が、Aさんの弟さんでその土地のすぐそばに住んでおられる、Bさんとの共有財産であることがわかりました。そしてまずいことに、その土地には大きな古い物置が建っていて、それを移設、または取り壊さなければ重機がその先に入っていけないのです。そこで移設を願いに、Bさんの所に行きました。しかしけんもほろろに断られ、こう言われました。「東京の兄からは何も聞いていない。どこの馬の骨かも知らぬ、あんたらに土地を勝手に譲るなんて、兄はいったい何を考えているのか」。
 私はただ平謝りしかできません。しかし困ったなあと思いながら、神が始められたことだからこのままでは終わらないという確信もありました。大事なのは、自分はここから何をしたらよいのだろうか、と祈ることでした。何日か祈り、神が心に示されたのは、正直な思いを何も隠すことなく、手紙に書いてBさんに送るということでした。
「お城山の頂からよく見えるこの場所に、子どもたちが喜んで集まることができるような教会を建てたいのです。そのためにどうかお許しいただけないでしょうか。私たちにできることは何でもさせていただきますから」。
 手紙を出して数日後、日曜日の村上での礼拝が終わった後、Bさんの家を改めて訪問しました。すると奥様が出てこられました。ここで驚くことが起きたのです。奥様が言われました。「主人も私も、手紙を読ませてもらった。教会さんの気持ちがよくわかった。私たちもお義兄さんと同じように、あの場所を教会さんにお譲りします。」。手紙には、移設か一部取り壊しを依頼しただけだったのですが、それ以上のことを神はご計画しておられ、ご夫妻の心もしかるべき時に導いてくださったのです。

結.
 このとき、神は確かに語られました。わたしが始めたことは、何があっても必ずやり遂げる、と。Bさんの家の玄関先からも、お城山がよく見えましたが、そのとき「山は動いた」と思いました。必ず神は、ここに教会を建て、この古い町を支配している、霊のなわめは取り除かれる、と信じました。イエスは言われます。「あなたがたが信じて疑わないならば、この山に向かい、立ち上がって海に入れ」と言えば、そのとおりになるのです」と。実際、そのとおりになったのです。それから数年のあいだに、村上教会を通して生み出された数々のみわざは、まさに信仰によって生み出された、神の奇跡です。
 そして村上に起きた神のみわざは、豊栄の上にも起こります。今がそのときです。豊栄の中でも最も歴史が古い、中心的な場所に、いま神は土地を示してくださいました。信じるならば私たちをそれを得ることができるばかりか、教会堂を通して町の活性化に貢献する者となれるでしょう。しかし信じなければ、それは得られません。
 豊栄は、何十年もの間、新潟市のベッドタウンと呼ばれてきました。ベッドタウンというのは褒め言葉ではありません。眠るためだけの町、という意味です。しかし現実においても、霊的な意味でも眠り続けている町を揺り起こすための、神のご計画がいま始まろうとしています。山は動きます。山よりも遥かに大きな、私たちの神が、新しいみわざを始めてくださいます。この土地との出会いにおいても、すでに証しがいくつも生まれていますが、それはまた来週の礼拝説教の中で触れたいと思います。来週の主日午後、臨時教会総会が開催されます。これからの一週間、神のみこころを祈ってまいりましょう。

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posted by 近 at 14:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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