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2021.10.31主日礼拝説教「礼拝はささげるもの」(創22:1-5)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。





1.
 先週の主日、私たちの教会では臨時総会を開き、新会堂用地として具体的に示された物件を正式に購入することを決議しました。当教会の財政や教勢から言えば、身分不相応と言われても仕方のないほどの、広い場所です。しかし駅から六分、葛塚の中心地を得ることができました。まだ契約していないので、少し気が早いのですが。
 韓国の教会には、教会成長のための三条件が次のように言われています。良きメッセージが語られ、良き聖徒の交わりがあり、そして良き場所に建てられていること。立地というのは日本の教会ではあまり強調されません。どんな場所でも、そこが最善の地であると言われます。確かに、立地を理由にして、伝道不振の責任転嫁をすべきではありません。しかしヨシュアがカナンの地の真ん中にあるエリコを最初に取り、パウロがエペソやコリントのような当時の大都市を拠点としたように、立地について祈り、良き場所を得ることを求めることは決して聖書に反していることではありません。
 しかし教会の場所がここであれ、新しいその場所であれ、立地は変わっても、私たちが一番大事にしなければならないことは変わりません。良き説教と良き交わりがなければ、良き立地は何も生み出しません。そして良き説教と良き交わりが出会うところ、それが礼拝です。
 もちろん、私たちは今までも礼拝を何よりも大事にしてきました。しかしあえてこう叫びます。礼拝こそ、苦しめる世の人々の傷が癒やされる場所であり、そして私たちキリスト者が自らを傷のない者として神にささげていくための訓練の場なのである、と。

2.
 私が牧師になる前、まだ神学生のときに初めてこの教会に来たとき、感銘を受けたことがありました。壮年男性たちが、みな会堂の一番前の席に、電線の雀みたいにずらりと横一列に座っていたことです。先ほど韓国の教会の話をしましたが、日本の教会でよく言われるのは、「婦人会を制する者は教会を制す」という言葉です。それだけ日本の教会では婦人たちの発言力や企画力が強くて、男性は隅っこで固まっているのです。しかし礼拝の中で、壮年男性が一番前に座っている、というのは、礼拝をささげる者たちの姿を、他の人々に証ししているのです。そしてこの姿が、求道者や子どもたちの信仰継承のためにはなくてはならないものです。
 私の出身教会の牧師は、まだ存命ですので下手なことは言えませんが、説教が下手でした。この前、点滴針を打つときに、外したらごめんね、と最初に言い訳する医者の話をしましたが、まさにそのタイプ。優しいのですが、はじめから言い訳して語るので、どうもすっきりしない説教でした。しかし私がこの牧師から教えられたのは、言葉を通してではなく、聞く姿勢からでした。当時は、教会同士の垣根があまりなくて、土曜夜に松浜教会で特別伝道集会があると聞くと、山の下教会の私たちまで求道者を連れて参加する、ということが当たり前だったりしました。そしてうちの牧師は講師が初対面であってもすぐに仲良くなって、なぜか最前列に講師と並んで座ってたりしました。ただ教えられたのはそこではなくて、私は前から5列目くらいに座っているのですが、一時間の講師のメッセージのあいだ、うちの牧師は微動だにしない。後ろから見て、うつむいたり、横を見たりすればはげ頭が動くはずですが、まったく動かない。これがみことばを聞くということなんだ、ということを私は彼の背中から学びました。

 この牧師や豊栄のかつての壮年たちの共通点は、一番前に座り、ぴしっとしていたことです。最近オンライン礼拝も礼拝として認められるようになりましたが、オンライン礼拝の欠点のひとつは、説教者や司会者は見えても、他の人の姿が見えないということです。礼拝は人を見るものではなく神を見るのですという方もいますが、むしろ私たちは、人が礼拝をささげる姿から、正しい礼拝の姿を教えられ、正しく神を見つめることを学んでいきます。ですから、求道者の方はなるべく後ろに座っていただいた方がよいとさえ思っています。あまり前に座られると、クリスチャンがどのように礼拝をささげているのか見えませんので。同じように、小さな子どもをもつ親御さんたちも、自分たちが礼拝を献げている姿が、やがて子どもたちが自分で決断して信仰告白するために用いられる神の鏡なのだということを覚えるべきかもしれません。
 私たちが生きるというのは、多くの苦しみや生きづらさとも向き合うことでもあり、その中で人々は礼拝へ集まってきます。そして礼拝の中で、今の自分にぴったりの言葉が語られることもあれば、そうでないこともあるでしょう。しかし私たちが、礼拝で何かを受け取ることばかり考えていたら、先週の礼拝は恵まれたから○、今週の礼拝は恵まれなかったから×、という審査員みたいな礼拝者になってしまいます。礼拝は、受け取ることもありますが、むしろ大事なことは、与えることです。自分自身をいかに神にふさわしいものとして、神にささげるか。そのために神よ私を砕き、きよめ、傷のないものとしてくださいと祈りながら、礼拝をささげる。そうです、礼拝はささげるものなのです。1節、2節をご覧ください。
 「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

3.
 理解できない、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で、彼は一晩中苦しみ、しかし翌朝、彼はイサクを連れてモリヤの山へ向かいました。聖書記者はこれを試練と記しています。しかしアブラハム自身はこれを試練とは呼びません。むしろ「礼拝」と呼んでいるのです。5節をお読みします。「それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。」
これは決して嘘をついたわけではありません。彼にとって、イサクをいけにえとして神にささげるというこの出来事は、確かに、礼拝であったのです。
 ヘブル人への手紙によれば、彼はこのとき、イサクが死からよみがえることを確信しながら、モリヤの頂上への道を一歩一歩進んでいった、とあります。しかしそれは、どうせよみがえるんだから殺したってへっちゃら、というものでは決してありません。彼はイサクを連れて登っていく間も、イサクからいけにえはどこにいるのと聞かれたときも、イサクの前で刃を振り上げたときも、自らの心にひたすら問いかけていました。おまえはこの礼拝の中で、何を神にささげるのか、と。恵まれるためではなく、恵みに報いるために、受けるためにではなく与えるために、彼にとっての礼拝は、命がけのものでした。言うまでもなく、それは私たちにとっての礼拝はいかなるものか、ということをひとり一人に問いかけているのです。

結.
 私たちが礼拝を第一とし、そこに命をかけていくならば、必ず神の計画が実現していくことを、今日のみことばは教えています。「私たちは礼拝をし、必ず戻ってくる」。私たちも力強くそう告白しようではありませんか。私たちはこのたびの土地を神の約束された地と受け止めたからこそ、そこを得ることを決断しました。それはもちろん駐車場とか地域の方々にとかいろいろな活用はありますが、結局の所は、より主に喜ばれる礼拝をささげるために、というところにあります。どこに教会があっても、私たちは礼拝に生きる教会、として証しを立てていきたいと願うのです。教会は今までも大きな痛みを経験してきました。しかしそれでも人々はここに集まり、礼拝をささげ続けてきました。その先には、痛みの経験さえも証しせずにはいられない、神の驚くべきみわざがあります。ひとり一人が、礼拝を通して主にふさわしい者として整えられ、受けるよりも与えるほうが幸いであると告白できる、そのような人生を歩むことができますように。

posted by 近 at 17:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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