最近の記事

2021.11.7主日礼拝説教「代わることのできない身代わり」(創22:6-14)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 この一ヶ月間、会堂建設(用地取得)に向けての奨励が多かったため、「十字架を語っていない!」というお叱りの声があったかどうかはわかりませんが、ひと月ぶりの伝道的説教です。逆に創世記の箇所から、ほとんどの話が十字架のイエスについてなので、逆に「釈義がおかしい!」というお叱りの声もあるかもしれませんが。
 今回のメッセージの中ではイエスが「神にのろわれた者となられた」ということについて強調しています。福音は「神が私のために死なれた」ということですが、イエスにとって死よりも過酷なものは、「三位一体の神として、永遠に父と一つであられた方が、一時的とはいえ神にのろわれ、切り離されるものとなった」、それが十字架でした。その意味で、私たち説教者は、キリストの痛みや犠牲について語ることは多くあっても、「のろわれた者となった」ことは薄めてしまっているのではないかと自戒させられる説教でした。
 もちろん、そののろいは、キリストが十字架に至るまで父のみこころに従ったことによって取り去られ、キリストはよみがえられ神の右の座につかれた、ということなのですが、愛である神が私たち罪人への愛のあかしとして御子を十字架に差し出し、かつそれは御子がのろわれる者となることであったというのは、人間の感情や知識では理解し得ないことだと思っています。それを自らのものとなし得るのは、やはり信仰によるとしか言えません。私たち教会は、今日、伝道説教でさえ人間の知恵をこらした例話や、わかりやすい組み立てといったものを用いて語ろうとしていないか、改めて問われます。週報はこちらです。




1.
 ある週刊誌の中で、シリーズで宗教が特集されたことがありました。その中で、聖書にある、このアブラハムのいけにえについて、取り上げられていました。記者はその中で、アブラハムについて、神を盲目的に信じるあまり、善悪の判断を見失っている人の代表として書いていました。例えば古い話ですがエホバの証人の輸血拒否事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件、またイスラム原理主義者の自爆テロ、それらに通じるものである、と。そんなことを聞いたら、私たち聖書の民は黙っていられません。しかし実際のところ、自分の子をいけにえとしてささげるなど、現代で言えばカルトやマインドコントロールと言われても仕方がないことです。ではアブラハムは、信仰のゆえに気が狂っていたのでしょうか。いいえ、彼はイサクに刃を振り下ろす刹那、天からアブラハムと呼ばれたときに即座に「はい。ここにおります」と答えています。もし彼が自分を失っていたのであれば、神の御声を聞きとることはできなかったでしょう。しかし彼には聞こえた。そして神は彼に語られた。12節、「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」。

 アブラハムは、自分のひとり子さえ惜しむことがなく、神の命令に従いました。これは、聖書に書かれてあるもう一つの出来事を彷彿とさせます。言うまでもなく、イエス・キリストが私たちのためにご自分のいのちをささげてくださった、十字架の出来事です。父なる神は、私たちひとり一人を愛し、救おうとして、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけました。そしてイエスご自身もまた、私たちへの愛のゆえに、自分のいのちを惜しむことなく、十字架へと向かわれました。しかしイサクは、刃がからだに突き立てられる直前、神の御声によって死から救い出されましたが、イエスはそうではありませんでした。イエスの両手、両足に太い釘が打ち付けられるのをとどめるものはいませんでした。だれもが、このイエスは殺されるにふさわしいと、歯をむき出して、十字架の前を通り過ぎていきました。イサクの身代わりとして、神は雄羊を備えてくださいましたが、イエス・キリストの身代わりとなるものはありませんでした。なぜなら、私たちの罪は、罪を犯したことがないお方である、このイエス・キリスト以外には、誰一人として身代わりになることができないからです。決して代わることのできない身代わり、それがイエスです。だからこそ、このイエスを救い主として信じるならば、誰であっても必ず救われるのです。

2.
 父なる神は、イエスの十字架をいったいどのような思いで見つめておられたのでしょうか。クリスチャン歌手の岩淵まことさんが、それを思い巡らして作った「父の涙」という歌があります。
心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
 私たち人間には、このときの父なる神の痛みはわからず、想像を膨らませるだけです。しかし聖書は、私たちが想像するよりもはるかに暗く、重たいことを記しています。それは、イエスは十字架の上で、完全に神にのろわれた者として扱われたということです。イエスは十字架の上で叫びました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。そうじゃないよ、父なる神はあなたを見捨ててなんかいないよ、そうではありません。確かに、イエスは十字架の上で、父なる神からも見捨てられたのです。あらゆる人の罪をすべてかぶり、のろわれた者となったのです。イエスは人の姿をとって地上に来られる前から、永遠に存在されているお方です。三位一体という言葉を聞いたことがあるでしょう。父なる神、子なるイエス、聖霊は、この世界が作られる前から存在しておられ、いつもひとつでした。イエスが十字架にかかる前、「この苦しみの杯を私から取り去ってください」と祈ったのは、死を恐れたのではありません。死よりもつらい、たとえ一時であろうとも、神から引き離されること、その苦しみのためにイエスは祈られました。

 おそらく生まれつきの人間は、一生かかっても、イエスのこの苦しみは理解できないでしょう。何十年付き合ってきた仲間や、血をわけた家族でさえ、自分の都合で簡単に切り捨ててしまうような人間たちに、この神の苦しみがわかるはずがありません。しかしはっきりとわかることは、イエスは私たちの身代わりとして、神にのろわれることさえも受けとめてくださった、ということです。そしてこれを信じるとき、人を切り捨てて生きてきたような人間が、人を信じ、人を愛することができる者へと変えられていくのです。神が私の身代わりとして十字架の上でのろわれたという事実は、もはや私は神にのろわれるような者ではなくなった、ということです。キリストが苦しまれたことにより、私たちは平安をいただきました。キリストが死なれたことにより、私たちはいのちを受け取りました。そしてキリストがよみがえられたことにより、すべては真実であることが保証されました。アブラハムが最後まで神を信じて、イサクを取り戻したように、私たちも、イエス・キリストを信じましょう。

 イエス・キリスト以外のだれも、私たちの罪の身代わりとなることはできません。そして、イエス・キリストを信じることも、誰かに代わりに信じてもらうことはできません。親が信じているから私も救われているとか、友だちにクリスチャンがいるから私も救われている、ということはありません。イエス・キリストはあなたのためにいのちを捨てられました。それに答えるためには、あなた自身が一対一で神に向き合い、私はイエスを信じますと告白することです。どうかひとり一人が、このイエス・キリストを改めて心にお迎えしましょう。そうすれば、私たちには決して消えることのないともしび、永遠のいのちが与えられます。

posted by 近 at 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189131469

この記事へのトラックバック