いよいよ、新会堂用地(と築50年の民家)の引き渡し時期が近づいてきました。残金の支払いと所有権移転登記は来週なので、ここではまだ物件を明らかにすることはできませんが、今後はブログに会堂建設のコーナーを作り、情報公開(そして献金とお祈り)を行っていきたいと思います。すでに、ブログやオンライン礼拝を通して、外部の方から献金をいただいております。この場を借りて、心から感謝いたします。
築50年の民家は、当初、取り壊して更地にするというのが売主様の意向でした。しかし取り壊さないで現状有姿で引き渡してほしいとお願いしたところ、承諾と共に、取り壊し費用の百数十万円を減額してくださいました。これが高いか安いかは置いておくとして、この減額分がなければ、実際は手持ち資金がぎりぎりだったことは確かです。この民家をリフォームするか、いずれやはり更地にするのかは、これからの話し合いになるのですが、もし何らかの原因で火災が起きてしまったら大変です。建物本体の補償は最低限でよいが、隣家に延焼した場合の補償はしっかりしなければ、と思って、火災保険について調べてみました。
すると、日本には「失火責任法」という独特の法律があることがわかりました。以下はソニー損保のホームページからの引用です。
失火責任法は、正式には「失火ノ責任ニ関スル法律」といい、明治32年に定められた法律です。この法律では、「失火(過失による火災)の場合は、損害賠償はしなくて良い。ただし重大な過失の場合を除く」といった内容が定められています。つまり、自宅の火災で隣家に火が燃え移ってしまったとしても、「重大な過失」がなければ隣家への賠償はしなくて良いことになります。しかし逆に言えば、隣家の火災で自宅が損害を受けても、火元の家主からは賠償してもらえない場合がある、ということです。自動車保険とは違うのですね。しかし実際に火災が起きて隣家に延焼した場合、もし隣家が火災保険に入っていなかったら、まったく補償がないわけで、それからのお付き合いに甚大な影響があります。そこで各保険会社では、特約として「類焼損害補償」や「失火見舞費用」などをつけているそうですが、それをつける人は全体の二割に満たない、ということでした。個人的にはリフォームすればまだまだ住める建物と思っていますが、もしかしたら取り壊すことになる可能性もあります。その建物にあえて保険をかけて特約をつけるかどうかは、これから委員会や役員会での話し合いになりますが、宗教施設が地域にできるというだけで反対運動が起こることもある昨今、私たちもあらゆる事態を想定していかなければなりません。ひとつひとつの問題に、信仰と誠実をもって歩んでいくことができるように。週報はこちらです。
1.
先週の礼拝説教では、イエス様が行われた最初の奇跡であると言われている、「水をぶどう酒に変える」という出来事について一緒に学びました。今日の王室の役人の息子のいやしという奇跡は、同じカナの町で、時間をおいて行われた奇跡であると書かれています。そしてその二つの奇跡をこうして並べてみると、たいへんに似ていることがわかります。「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に訴えたマリヤも、「下ってきて私の息子をいやしてください」と頼んだこの王室の役人も、どちらも同じように、イエス様から、一見拒絶と思われるような言葉を受け取っています。しかし彼らが、その言葉を信仰によって受け止めたときに、想像もつかないような方法で奇跡が起こったのです。
その奇跡とは、時間や空間という制限を超えて、神のみわざは働かれる、ということでした。極上のぶどう酒は、熟成するまでに、何十年もかかります。しかしイエス様は一瞬で、ただの水から、極上のぶどう酒を作りあげました。またこの王室の役人の家があるカペナウムの町は、カナの町から30キロ以上離れていました。しかしイエス様は、わざわざカペナウムに行って、死にかけている子どもの体に触らなくても、ただみこころだけで、そのいのちを死から救ってくださったのです。私たちは、イエス・キリストのみわざは、時間や距離といった限界を超えて働かれるのだ、ということを改めて信じましょう。そうすれば、私たちは今日においても神のみわざを体験することができるのです。
しかし、その信仰にたどりつくためには、さらに私たちが乗り越えなければならないものがあります。それは、私たちがイエスに近づくことを妨げているものを、自分の中から取り除くこと、そしてイエスに近づいたならば、何の保証がなくても、ただ神のことばだけを信じる、ということです。
2.
まず、私たちが神のみわざを体験するためには、自分自身を縛り付けているものを捨てなければならない、ということを、この王室の役人の姿から学びましょう。「王室」とは、幼子イエスを殺そうとした、あのヘロデ大王や、バプテスマのヨハネを宴の余興として殺害したヘロデ・アンティパスといった、ヘロデ王朝の人々を指します。この役人自身は、そのような王室の振る舞いに加担はしていなくても、ヘロデ一族に仕える者が、私の息子を助けてください、とイエス様に公に願い出ることは、自分の仕事や立場を危険にさらすことでした。それだけではなく、ヘロデから命を奪われても不思議ではないことでした。しかし彼は、ヘロデ王室に仕える者である以上に、ひとりの父親でした。今、自分の息子が死にかかっている、この子を助けるためであれば、自分の仕事、立場、いや、自分の命さえも惜しくはない、そのような思いをもって、彼はカペナウムからカナまで足を運び、イエス様の前にひれ伏しました。
新約聖書の中には、彼と同じように、イエス様から家族の命を救ってもらった人々が数え切れないほど登場します。そしてそこに共通するのは、主に近づくための障害となる、財産や地位への執着、偏見や葛藤、恐れの束縛、それらをかなぐり捨ててイエスに近づいていった人々の姿です。しかもほとんどの人々が、イエス様から厳しい言葉で迎えられるのです。母マリヤには、「あなたは私と何の関係があるのですか」、そしてこの役人には「あなたがたはしるしと不思議を見ない限り、決して信じない」。しかしもしそこでムッとして、イエスの前を立ち去るようであれば、まだ自分の誇りを捨てていない、ということ。あるいは、「そんなことを言うんだったら他の所に行きますよ」と言うならば、それはイエス以外に頼りとするものをまだ抱えている、ということです。
3.
しかし次のことを忘れないでください。もしイエス様から助けをいただきたいと心から願うのであれば、イエス以外の選択肢を捨てなければなりません。数ある助けのうちのひとつとして私はイエスを選ぶ、という態度は、いやされる信仰とはまるで遠く離れています。この方以外には救いはない、この方を離れて私はどこに行けるのか、そのようにイエス以外には選択肢を持っていない人々だけが、逆にイエスから選ばれるのです。
聖書に書かれている信仰とは、元来そのように厳しいものです。今日の時代は、「多様性」という言葉に象徴されるように、社会、生活、世界、どこの分野にもさまざまなあり方が認められています。それはむしろ良いことだと思います。「みんな違って、みんないい」という相田みつをさんの人生観を、私も大いに共感しています。しかし救いに関してだけは、「イエス・キリスト、この方以外には救いはない」というペテロの信仰告白を決して曖昧にすることはできません。独善的と言われても、偽善ではありません。救いを受け取りたいのであれば、このイエスのもとに来るしか道はありません。そしてイエスの言葉がどれだけ厳しく、受け入れがたいものであったとしても、神のみこころは私よりはるか上に広がっていることを信じ、イエスから離れるべきではありません。この役人の姿から学びましょう。子どものために、自分を捨てる覚悟をもってやって来た彼に対して、イエス様は辛らつな言葉を返されました。「あなたがたは、しるしと不思議を見なければ、決して信じない」。しかし、それでもなお、彼はあきらめなかったのです。あきらめたら、どこに行けばよいのでしょうか。彼は一つ覚えのように、「どうか下ってきて、息子をいやしてください」とひたすら懇願するしかありませんでした。しかしそのとき、イエスはこう言われたのです。「行きなさい。あなたの息子は治ります」。
結.
治るという保証はどこにあるのでしょうか。そこで私たちは、もう一つ段階の信仰の訓練を受けるのです。あらゆる目に見える保証を放棄し、ただ神のことばだけを信じる、ということです。この父親は、「しるしと不思議を見なければ信じない」人に終わらず、何のしるしもないまま、ただ神のことばだけを信じました。そして同時に、イエス様が下ってきて手を置いてくださらなければ息子は治らないという思い込みから解放され、このお方が空間を越えて働かれる神そのものなのだという信仰へとたどり着いたのです。
信仰は、チャレンジを受けてこそ、成長します。たとえ神が導かれている道が、自分が要求し、思い描いている道とは違っていたとしても、ひたすら神のことばだけを信じるならば、そういう人の信仰は成長していきます。神のみこころは、私たちには想像さえ届かないほどに、あまりにも深く、高く、広いのです。神のことばを受け取るために邪魔をするプライド、その他のものを捨て去り、そして神のことばだけを信じる。そうすれば、神は私たちの予想を遥かに越える祝福をすでに送り出してくださっていることに気づきます。
ただみことばだけを信じて、カペナウムに向かったこの父親を待ち受けていたのは、イエスの言葉が語られたちょうどそのときに息子が癒やされたというグッドニュースだけでなく、家族や使用人をはじめとしてみながイエスを信じた、という祝福でした。私たちも、それを受け取ることができます。ひたすら、この方を、そのみことばを、信じて歩んでいきましょう。