こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
新会堂用地の所有権移転登記が、11/30付けで完了しました。長かった・・・。実際には、9月上旬にこの不動産物件を初めてネットで見てから、3ヶ月のあいだの出来事なのですが、教会の中に新会堂建設へのヴィジョンが示されたのが2009年の修養会のときからですので、12年ということになります。そのあいだ、議論が煮詰まってしまってこれはもう無理ではないかと正直思ったこともありましたが、まったく予想もしていなかったところから、神さまは手を差し伸べてくださいました。今日は建設準備委員会の有志と、元教会員の建築士さんといっしょに、残されている民家の修繕箇所をチェックに行きましたが、結局チェックはほとんどしないままに、二時間あまり話し込んでしまいました。古い建物なのですが、縁側とか茶室風の入り口とか、前所有者がこだわりをもって作られたところもあって、なんか落ち着くのです。いずれは壊さなければならないのかなとも思いますが、それまで何か地域の憩いの場として生かすような方法はないのかなということも考えさせられています。そのうちに、許されるならば写真もアップします。
明日は、新発田友の会でのクリスマスメッセージです。忙しいけれども、主から託されている働きは楽しいものです。週報はこちらです。
今週から、教会の暦はアドベントに入ります。漢字に直すと「待降節」となりますが、文字通り、イエス・キリストの降誕を待ち望む季節という意味です。四週間のあいだ、イエス様のお誕生を深く心に刻みながら、一日一日をかみしめながら歩んでいきたいと願います。
今日はまず、祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦に与えられた神の恵みを一緒に見ていきましょう。彼らは子どもが与えられないまま、もう出産を期待することもできない年齢に達していたということが記録されています。子どもは神の祝福であると聖書にも書かれていますが、人は弱いもので、逆に当時の社会ではこどもがいないことは神から祝福されていない、という偏見を生んでいました。しかし神は、ザカリヤとエリサベツ夫婦をおぼえておられました。彼らに与えられる、ヨハネという子どもを通して、やがて生まれる救い主を世界に紹介する者とされる、というすばらしい祝福を用意しておられました。しかし悲しいかな、そのすばらしいメッセージを伝えるために大天使ガブリエルが神殿の中に現れたとき、祭司であるザカリヤは喜ぶよりも、むしろ恐れてしまったのです。
ガブリエルが語った、祝福された人生への招待状に対して、ザカリヤが答えた第一声は何だったでしょうか。18節にそれが記されています。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています」。
聖書は、ザカリヤと妻エリサベツのふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた、と書いています。ところがそのザカリヤさえもが、神のことばを単純に信じることができなかった。しかしだからこそ、私たちはどんなに正しい人であっても、救いが必要なのです。なぜザカリヤほどの正しい人であっても、神のことばをそのまま信じることができなかったのでしょうか。その答えは、私たちにははっきりとわかりません。しかしみことばを信じることができなかった彼は、御使いが現れたことを恐れた。それだけははっきりしています。私たちが神のことばを信じることができないときに、そこには恐れが生まれます。そして恐れは、せっかく私たちに与えられた神の恵みをぐらつかせてしまうのです。私たちが恐れを抱いてしまうとき、いくつもの予防線を張ろうとします。神の恵みにただ信頼することよりも、それだけでは足りぬとばかりに、人間の貧弱な知恵を駆使して、保険や保証を得ることに奔走するのです。しかし人間がどんなに走り回っても、最後には神のことばだけが実現するのです。
神のことばをそのまま信じることができなかったザカリヤの姿は、私たち自身の姿でもありましょう。そして神は、私たちもまた神のルールを学ぶために、ザカリヤを通して、ひとつのさばきを示されました。それが、彼が子どもが生まれるまで、ことばを一切発することができなくなるというさばきでした。ザカリヤは祭司でした。祭司が神殿の中で香を焚いているあいだ、民は祝福を求めて祈ります。そして祭司は香を焚き終わると外に出て行き、祝祷をもって民を送り出します。しかしそれらの一切の栄誉と特権、しかもザカリヤ自身だけでなく、民も祝福の言葉を受け取ることができないままに神殿を後にしなければならない。それが、ザカリヤが一時的とはいえ、みことばを信じなかったことによるさばきでした。
私たちプロテスタント教会の中心的な教えの一つに、「万人祭司」というものがあります。あらゆるクリスチャンは、神と直接交わりを持つことが出来る者とされた、という意味です。だれか他の人の仲立ちがなければ神とお話ができない、という者ではなくて、すべての人間が、神と直接繋がることのできる祭司となりました。それが万人祭司です。もしそうだとすれば、祭司ザカリヤが神のことばを信じなかったがゆえに口を閉じられた姿は、牧師や宣教師という特別な人々だけではなく、すべてのクリスチャンに当てはまる警告と言えるのではないでしょうか。
私たちはみな、イエス・キリストを救い主として信じる信仰のゆえに、救われました。それは、神が私たちを通してさらに救いを広げていくことを願っておられるからです。そしてもし私たちクリスチャンが、自分が経験した救いを、この世界に伝えることをしないのであれば、世界はますますキリスト教に対して誤解と敵意を強めていくでしょう。語らなければ、語り続けなければ、世界は変わらず、自分自身も変わっていかないのです。神が祭司ザカリヤに対して、聖書に類がないほどに厳しい、ことばを閉じるというさばきを与えたのは、まさにそれは彼に与えられている特権、恵みを今一度思い起こさせるためでした。ことばが話せなくなった彼は、そこでようやく気づきました。自分たちにいったいどれだけの恵みが与えられたのか。この年老いた夫婦に子どもを与えるという恵みを神は与えてくださった。しかもその子どもは、イスラエルの民が何百年も待った救い主の、道を整える者となるという子とも約束してくださった。彼は大声で恵みを叫びたかったでしょう。しかし彼はその約束を、たった一度とは言え、疑ってしまった。そのさばきとして、ヨハネの誕生まで約一年近く、彼は一言も発することができなくなってしまったのです。
ザカリヤに与えられた、一時的とはいえ、このさばきをおぼえるときに、私たちが恵みを語ることができる、ということはどれだけの特権なのかということをおぼえたいと思います。神は私たちにいのちを与えてくださった。主イエス・キリストの十字架を通して、私たちは救われた、と叫びたいのです。このクリスマスこそ、私たちの主イエス・キリストが人としてお生まれになったことを世の人々に大胆に語ることのできるチャンスです。十字架で私たちの罪を贖い、命を与えるためにイエスは生まれ、そして死に、よみがえられたのだと伝えることができる時です。どうか、まわりの人々にイエス様の恵みを語っていってください。みなさんが語っていかなければ、みなさんの周りの誰も変わっていきません。私たちクリスチャンが語らなければ、誰も本物のクリスマスを知ることはできないのです。どうか今日、私たちがことばに生きる者であることをこの心に刻みつけることができるように。そしてこの一週間を通して、イエス・キリストを伝えていく機会が与えられますように。お祈りします。
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