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2021.12.5主日礼拝説教「選ばれたマリアが捨てたもの」(ルカ1:26-38)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 いよいよ2021年も最後の月となりました。昨年の今頃、「今年は新型コロナウイルスを言い訳にして、トラクト配布もほとんどしなかった。悔い改めて、来年はガンガン、オリジナルチラシを作っていきますぞ!」と総会資料の原稿にも書いたのですが、この一年も結局、つくりませんでした。
 昨年は新型コロナウイルスが言い訳でしたが、今年は会堂用地の取得を言い訳にしてしまったのではないか、と前年同様、悔い改めております。驚くばかりの恵みによって、用地を無事取得できたのは感謝でしたが、事務処理がこんなに大変だとは思いませんでした。もちろん教会員の方々は「先生、大変だったら手伝いますよ」と言ってくださるのですが、手伝えるたぐいの仕事もけっこう限られているので、やはり自分で動いたり、回ったりしなければなりません。まあ、当たり前ですが。
 しかもそれで十分かというと、どうにも心許ない限りです。新しい用地の周辺の方々にも、できる限りで回りお菓子を配ったりしましたが、この場所に教会ができるということをどう受け止めてくださっているのでしょうか....会堂が建つのは数年後としても、我々はすでにどういう団体なのか、注視されている状況にあります。これからが会堂建設準備委員会の正念場です。そしてそのために教会員ひとり一人が、この神から始まったプロジェクトに対して信仰によって応答していくことも、来年度の重要な課題です。
 そんなわけで、当教会はいまだに分散体制が続いております。今年は一堂に会してクリスマス集会がしたいと思っていましたが、やはり20人以下の集会に限定です。それでも、せめてものクリスマスチラシを作りました。いつものように「ラクスル」のロゴが入っております。
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メッセージもなんとなく昔どこかで聞いたような話ですが、あまり気にしないでください。
今回のセールスポイントをあえて挙げるならば、真ん中の見出し「本当のこわれものは私たち人間なんだ」のフォント。なんとアニメ版「鬼滅の刃」で使っているのと同じものです。某年賀状ソフトを購入したら、おまけでついてきました。
12/12(日)に近隣住宅の新聞に約2000枚ほど折り込みます。たとえ一人でも二人でもだれかの目にとまり、イエス・キリストが生まれたという良い知らせを知っていただきたいと願います。週報はこちらです。




1.
 来年の4月1日に民法が改正されて、法律的に大人とされる年齢が20歳から18歳になります。そして同時に女性が結婚できるようになる年齢も、16歳から18歳へと変わります。女性が16歳になれば結婚できる、というこの決まりが作られたのは、じつに明治9年、約150年前です。おそらく16歳になるのを待って、親が決めた結婚相手のところに、顔も知らないまま嫁いでいくということが当たり前のような時代があったのでしょう。今日の聖書箇所は150年どころか二千年前の出来事ですが、マリアがこのときいくつだったかは聖書に記されてはいません。しかし古くからある言い伝えでは、12歳とされています。いずれにしても、まだ大人というよりは子どもと呼ぶのがふさわしい年齢であったマリアでした。そして御使いが「おめでとう」と語った、これから少女の上に起こる出来事は、聞けば聞くほど重すぎる内容でした。
 マリアには、まもなくヨセフとの普通の新婚生活が始まるはずでした。しかし御使いが語った言葉は、普通の生活からの決別を迫るものでした。神がイスラエルの民に約束し続けてきた、救い主、ダビデの子、この方があなたから生まれる。あなたは救い主の母となる。マリヤの心は、そのすばらしい名誉に高揚したでしょうか。いいえ、それは、御使いが言うような「おめでとう」と単純に受け止めることができるものではありませんでした。「私は男の人を知りませんのに」と口にしたマリヤにとって、自分が神の子を宿すということは、むしろ自分が今までよりどころとしているものを失うことにさえなることでした。いったい誰が、日々大きくなっていくおなかに宿ったものが神の子だと信じてくれるでしょうか。まだヨセフと婚約中であるマリヤが子どもを身ごもる、それはイスラエルでは石打ちの刑にあてはまるような、恥ずべき、許されざるべきものでした。

2.
 神が私たちを選び、招いてくださるということは、私たちにそれまで持っていた何かを「捨てる」ことを要求します。それは、よく言われる、「罪の悔い改め」に限りません。マリアは、救い主の母となるために、彼女が思い描いていたヨセフとの普通の生活を捨てることを求められました。典型的なユダヤ人女性としての人生は、その一部だけを残し、彼女から取り去られました。子どもを産んだ直後に、幼子の命を付け狙う王からその命を守るために、外国へ逃げなければなりませんでした。やがてその息子が、十字架で体を貫かれる瞬間を、真っ正面から見つめることになりました。それは彼女が望んだものではありません。しかし神が彼女に求めたものでした。そしてマリアはそれに従いました。
 私たちにとって「普通の生活」とは何でしょうか。クリスチャンホームではない、クリスチャン一世にとって、かつて教会とは関係ない生活を送っていたとき、それこそが普通の生活だと信じていました。神さまはふだんは神棚の中にいて、正月と祭りの日にお会いするくらいです。99%の日本人にとってそれが普通の生活です。しかし私たちが真の神を信じたとき、普通と思っていたほうが普通ではなく、普通でないと思っていたクリスチャンの生き方のほうがむしろ当然である、と知りました。信仰生活とは、それまで普通だと思っていたものを捨てて、代わりに神だけが与えてくださる喜びといのちを、日々常に新しく受け取り続ける生活です。そして付け加えるならば、そんな一世のクリスチャンとは違って、生まれたとき、あるいは幼い時から、まことの神さまを礼拝することを知っていて、それがはじめから普通の生活として刻まれている、クリスチャンホームの子どもたち、孫の世代の姿に、励ましと希望を受け取っています。

3.
 マリアが捨てたものは、普通のユダヤ人女性として、まだ十代半ばの心の中に思い描かれていたヨセフとの結婚生活でした。そしてそれは、御使いが運んできた、神の子を産むという知らせによって砕かれました。しかしマリアは、その驚くべき知らせに対して、さらに驚くべき信仰をもって答えたのです。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。どうかおことばどおりになりますように」。
 ここに私たちは、彼女は確かに御使いが言ったように「恵まれた方」であったのだということに気づくのです。それは、救い主を宿すために選ばれたから恵まれている、というだけではありません。救い主を宿すという特権に伴う、世の人びとから受ける中傷や迫害も、普通の結婚生活は望めなくなることも、ありとあらゆる恐れを彼女は信仰によって飲み込みました。神が与えてくださる恵みを、まさに信仰によってすべて受け止めることができる、そんな恵み溢れた者に、私たちもなりたいと願います。まだ年端もいかぬ少女でさえその信仰にあずかることができたとすれば、同じ恵みを受け取っている私たちもまた、内なる御霊を通して、同じ信仰にあずかることができるはずです。
 彼女が最後に口にした「はしため」という言葉は、英語の聖書では「メイドサーバント」と訳しています。それはただ身分が低い女性という意味ではありません。どんなに身分が低くても、主人のために働いている女性、それがメイドサーバントです。説教の最後に、私たちはこの言葉からこう決心しましょう。どんなに私が小さな者であっても、神のみわざに加わり、神のために働くことができるのだ、と。神のみわざ、それは私たち救われた者を通して、イエス・キリストの救いをひとりでも多くの人びとに伝えていくことです。神がゆだねられたこの恵みに答えて、これからの一週間を歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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