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2021.12.19主日礼拝説教「神さまからのプレゼント」(ルカ2:1-20)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 2008年に行われた総務省の調査では、1年以上継続するブログは全体の3割、3年以上ともなるとわずか3%ということです。この調査自体が十数年も前なので信憑性はどうなの?という感じですが、そんな弱肉強食のブログ界に駆け抜けるそよ風のような存在、わが『豊栄の風』はなんともうすぐ開設十周年を迎えます。ところがどうにもいただけないのがコメント数。記事数はコツコツと580記事を数えるのに、コメントはたった30あまり。しかもその半数は私のお返事。やる気出ぬこと、このうえなし。しかしクリスマスが近づく中、動かざること山のごとしのコメント欄に大きな変化が。なんとわずか二日間のあいだに、5人ものコメントが来ているではないですか。しかも私が寝ている間にも、次々と増えています。
 どうやら、中○あたりの悪い人たちから、サイトへの誘導のためのコメント爆撃が始まったようです。一つ一つ削除するのも大変なので、とりあえず放置しておきますが、決してリンク先をクリックしないように気をつけてください。ウイルスにやられることはありませんが、彼らのアフィリエイト(特定のサイトに誘導することで得る収益)に協力することになります。このような迷惑行為を助長することは気分が悪いですしね。
 ただ不思議なのは、当ブログ記事の中でほとんどアクセスのない「異端者ペラギウス」ばかりに集中してコメントを投下してくること。もっとよく見られそうなトップ記事にコメントすればよいのに、と思いますが、そこらへんは彼ら独特のセオリーがあるのかもしれません。個人的には、礼拝説教だけではなく、もっとさまざまな分野からの記事を書いていきたいなあと思い、わざわざ『牧師の雑談部屋』という別ブログを作ってバナーまで貼り付けたのですが、結局めんどくさくて、ほとんどいじっていません。それでも十年続けることができたのは、神様と、読者の皆様のおかげです。これからも応援してください。あと、まっとうなコメントを募集中です。週報はこちらです。




1.
 クリスマスおめでとうございます。先日、ある教会員のご家族から、クリスマスプレゼントをいただきました。何でも家族会議を開いてプレゼントが何がよいかを話し合ってくださったそうで、添付されていたカードも、ご家族ひとり一人の寄せ書きになっておりました。たいへんうれしゅうございました。何やら他の教会員にも催促しているような感じですが、一応、私の鞄の中はまだ若干の余裕がございますので、25日までは受け付けております。
 贈りものには愛があります。その贈り物を通して喜んでもらいたいという愛がこもっています。私たち人間でさえ、贈り物にそれだけの愛を詰め込むのだとすれば、ましてや愛そのものである神さまは、いったいどれだけのものをその贈り物に詰め込んでおられることでしょうか。二千年前のクリスマスの夜、神さまは、とっておきのプレゼントを、その愛するすべての人間たちに贈ってくださいました。それが、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたみどりご、イエス・キリストです。
 愛の使徒としてクリスチャン以外にもよく知られているマザー・テレサは、生前このような言葉を残しました。「愛するとは、傷つくまで与え尽くすことである」。そして多くの人々が、彼女の生き方を指して、まさにマザー・テレサこそ、傷つくまで与え尽くした愛の人であったと言いました。しかし彼女が語った愛とは、自分自身が示した愛ではなく、彼女の人生を変えたイエス・キリストの愛です。イエス様は、傷つくまで与え尽くした救い主でした。愛が傷つくまで与え尽くすことだとすれば、イエス・キリストはこの地上に生まれたとき、すでに神としてのすべての特権、富、力、栄光、あらゆるものを捨てておられました。そして十字架でご自分のいのちさえも捨てられたのです。キリストこそ、私たちにあらゆるものを与え尽くしてくださった人生でした。

2.
 イエスの両親であるヨセフとマリヤは、宿屋に泊まることができず、家畜小屋へと身を寄せました。そしてそこで生まれたイエス様は、産湯につかることも許されず、布にくるんで飼い葉桶に寝かせられました。家畜小屋も、飼い葉桶も、最も神にふさわしくない場所の象徴です。糞尿の臭いが漂う家畜小屋の、唾液がこびりついているような粗末な飼い葉桶、しかしそこに救い主は生まれてくださいました。そしてそこから始まるキリストの生き方は、常に神にふさわしくないような場所におられる生活でした。罪なき方でありながら、罪人、取税人、遊女、社会からのけ者にされ、さげすまれていた人々に寄り添い続けてくださったのです。当時の偉い人たちはそれを見てこう考えました。もしイエスが本当に約束された救い主であれば、こんなつまらない人間たちの仲間になるわけはない。なぜなら救い主はこの全世界の王なのだから。
 しかし彼らは勘違いしていたのです。神が真っ先に助け出そうとしていたのは、正しく生きている人々ではなく、人生を踏み外している人々でした。当時の人々がそっぽを向いていた、そんな人々にイエス様は手を差し伸ばし、傷つくまで愛を与え尽くしてくださいました。
 その愛が、私たちひとり一人に向けられているのです。その愛を、私たちひとり一人は受け取ることができるのです。イエス様が向かっていった先は、飼い葉桶よりもさらに神にふさわしくない場所であった、十字架でした。そしてその十字架の上で、神のひとり子イエスは、神にのろわれた者として死なれなければなりませんでした。罪を犯したことのないお方が、罪人として死ななければなりませんでした。それは、私たちすべての人間の罪を、身代わりとして引き受けるためでした。そしてそれを信じる者は、すべての罪を許されて永遠に生きるのです。これほどのすばらしいプレゼントはありません。

3.
 私たちは生まれながらに罪を抱えています。大人になるにつれて着飾ることを覚えていきますが、光に溢れた神さまの前では、どれだけ装ってもあわれで、みすぼらしい者です。しかし自分のみじめさを認めている人は、最も神さまに近づいている人です。二千年前のクリスマスの夜、神さまから真っ先にプレゼントのお知らせを受け取ったのも、自分たちが貧しくあわれな者であることを知っている、羊飼いたちでした。み使いは彼らにこう告げました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」。そして羊飼いたちは、さっそく立ち上がって出かけ、イエスを探し当てたのです。
 今日、みことばを聞く私たちにも、想像を遥かに超えた、信じられない知らせが贈られています。それは、あなたが、このイエス・キリストを救い主として信じるだけで、あなたは永遠に、そして完全に救われるという知らせです。神の言葉を聞いてください。あなたの罪の身代わりとしてわたしはわがひとり息子イエス・キリストをあなたに与える。あなたが自分の罪によって永遠に滅んでしまうことをわたしは喜ばない。十字架で自分のいのちを捨てるイエス・キリストによって、あなたの罪をすべて赦そう。たとえあなたがどのような者であろうとも、ただキリストの十字架によって、私はあなたを赦し、愛し、すべての恵みを与えよう、と
 クリスマスに、イエス・キリストがお生まれになったということ。それは、私たちを無条件に救いの中に招こうとしている、とっておきのプレゼントです。イエス・キリストを信じる者は、誰であっても罪赦され、救いをいただけるのです。どうかひとり一人が、このプレゼントを受け取ってくださいますように。

posted by 近 at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ
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