こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
記念日としてはちょっと過ぎてしまいましたが、1702年12月14日は何の日か、ご存じでしょうか。おそらく即答は無理でしょう。
しかしこれを元禄15年12月14日、と言い換えると、「忠臣蔵!」となるのですから、元号というのは便利です。
元禄時代と言えば、平和な江戸の象徴のような言葉。吉良邸に討ち入りを果たした赤穂浪士47人のうち、刀は持っていても実際に戦った経験のある者はほとんどいなかったそうです。しかしその中で唯一、堀部安兵衛だけは若い頃に武者修行でならした人であり、彼はここ豊栄の隣、新発田市の出身でした(新発田藩主・溝口家の流れをくむらしい)。12月になると商店街には待ってましたとばかりに「堀部安兵衛まつり」というのぼりが立ちます。ちょうどアドベントの時期と重なっているので、そのうちにイエス・キリストと堀部安兵衛の共通点(どちらも33歳で亡くなりました。イエス様は推定ですが)を書いたトラクトを作ろうかなと思っています。ただ、堀部安兵衛はどちらかというとイエス様より直情型のペテロに似ているような気がしますが。
この吉良邸の討ち入りは、もともとは赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介を切りつけて、藩が取りつぶしになったことに起因しています。しかしなぜ浅野内匠頭が、我々同盟教団で言えば指導教師にあたる吉良先生を切りつけたのかはいまだに論争が続いているようです。執拗なパワハラを受けたとか、もともとメンタルが弱かったとか、幕府の陰謀とか色々な説があるようですが、私が小学生の頃に読んだ、学研の学習雑誌では「吉良が赤穂にスパイを送り込んで塩の製法を盗み出し、それを浅野が恨んだ末の行動である」という短い児童小説が載っていました。結構、大胆な仮説ですが、作者がわかりません。昭和40年代生まれの方で、覚えている人がいたら、情報求む。
いま、中国でこの「忠臣蔵」を扱った本がベストセラーになっているようです。あまり良い噂を聞かない日中の関係ですが、これを通して少しでも雪解けに向かえばよいと思います。
「忠臣蔵」が中国で人気のなぜ 発行部数が日本の8倍に著者が驚き
1.
私の父は、戸籍上での誕生日は1月3日ですが、じつはその日より一週間前に生まれていたそうです。何でも生まれたとき大変な未熟児だったそうで、お医者さんからは「もって三日」と宣告された。出生届を出しても、すぐに死亡届を出さなければならない、親としてそんな悲しいことはありません。そこで両親は出生届を出さないまま、死にかけた子どもを見守り続けました。そのうち年末年始に入り、あれ、この子元気じゃん、ということになり、正月明けに急いで出生届を出したそうですが、そのときに成り行き上で生まれた日が1月3日になったそうです。その父も来年で79歳、人のいのちもからだも、神様が導いてくださるのだということを知ってほしいと願っています。
さて、ユダヤでは生まれてちょうど八日目に、男の子は名前をつけられて、割礼という儀式を受けることが決まっていました。また男の子の中でも最初に生まれた子は神にささげられたものという教えがあり、その長男を神さまから買い戻すためのいけにえをささげることが決まっていました。イエスの両親は、貧しいながらも、それらの教えをことごとく忠実に行いました。
イエスの両親が、子どもをささげるために神殿に入っていったちょうどそのとき、ある老人が聖霊に導かれて、やはり神殿に入ってきました。その老人の名はシメオン。聖霊により、救い主を見るまでは死を見ることがない、と約束されていた人でした。イエスを見たとき、聖霊はシメオンに語りかけました。見よ、この子だ、と。そしてマリアの手からイエスを受け取り、懐に抱きかかえたシメオンの唇からは、神への讃美が尽きることなく溢れていきました。
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を」。
2.
シメオンは、「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」と書かれています。シメオンが生きた時代、それはまさにイスラエルから正義と信仰が離れかけていた、闇の時代でした。表向きはヘロデ王のもとで政治的に安定しているように見えましたが、それは暴力と恐怖によって民を押さえつけている、偽りの安定でした。祭司や律法学者たちの多くは、そのヘロデ王を苦々しく思いながら、彼の恐怖政治に対して声を上げようとしませんでした。みなが自分のことばかりを考え、神も、神のことばも求めていなかった時代、それがイエスの生まれた時代のイスラエルでした。
そのような闇の時代の中で、シメオンが願っていたこと、それはイスラエルが慰められることだったのです。彼は人の力にではなく、神のあわれみに望みをかけていました。この闇の時代だからこそ、必ず救い主が現れてくださる。この救い主を見るまでは死なないと、神は約束してくださった。この目がかすんで見えなくなり、この舌がもつれて話せなくなるほどにからだが衰えたとしても、私は救い主を見るまでは死ねない。それがシメオンという人でした。
私たちもまた、今が闇の時代か、光の時代か、と尋ねられれば、私は闇の時代だと言わざるを得ません。ジェンダー平等、多様性の時代、かけがえのない個人、聞き心地の良い言葉が昔よりもよく聞こえるようにはなりましたが、現実はそれとは逆であるからこそ、ますます声高に叫ばれなければならないのでしょう。しかし礼拝説教もそれと似たところがあるのですが、どんなに言葉を大にして叫んだところで、それだけでは人は変わらないし、動かないのです。聖霊が私たちの心を作り変えることがなかったならば、どんなものも理想でしかありません。だからこそ、私たちはシメオンのように、この国の人々が、聖霊とみことばによって慰められていくことを待ち望みつつ祈るのです。
3.
赤子を天に掲げて神をたたえていたシメオンは、やがてマリアの目をじっと見つめました。聖霊がその口を通して語られた内容は、母マリアにとってあまりにも厳しいメッセージでした。ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
シメオンには見えたのです。やがてカルバリの十字架の前に集まる人々の姿が。この懐に抱いたみどりごが、その真ん中の十字架に釘で打ちつけられている姿が。全人類の罪を背負う、そのとてつもない重圧のゆえの、苦しみの姿が。その前には、着物をくじでわける兵士たちがいます。十字架から降りてみろ。そうしたら信じるから。と嘲り顔で叫ぶ指導者たちがいます。そして怒りをあらわにする群衆たちに交じって、悲しみにくれる母マリヤの姿もまた、シメオンの目には映っていました。
まるで剣で刺し貫かれるような、母の痛み。それは、多くの人の心のうちの思いがあらわになるためだ、とシメオンは語りました。「多くの人」。それは決して二千年前の人々のことだけではありません。今日に至るまで、十字架は、あらゆる人々の心をあらわにし続けてきました。イエスの十字架の話を聞いても、自分には関係のない話だ、とまるで心を震わせない人もいれば、あるいはこの十字架を通して、死ぬことしか考えていなかった人がいのちの喜びへと変えられていくこともありました。それは、まさに神の奇跡です。私たちも、かつてはこの十字架とは一切関わりのない生き方でした。その先に永遠の地獄が待っているなどとは考えもしない、神を悲しませる歩みでした。しかし今は違います。シメオンの姿を心に刻みつけてください。
結.
シメオンにとって、この世はいつまでもとどまる場所ではありませんでした。しかし彼はこの世のために祈り、慰めを待ち望むというその生き方を捨てる道を選びませんでした。クリスチャンにとって、この世は永遠の御国への通過点でしかありません。しかしたとえ通過点だとしても、目の前に誰かが倒れていたら、駆け寄って、助け出そうとします。通過点だからと言って、見て見ぬふりをすることはできません。どのようにして助けることができるのでしょうか。私たちに、誰かを助ける力はなくても、私たちが知っている方は、助けることがおできになります。それがイエス・キリストです。ですから私たちはイエス・キリストを語り続けるのです。十字架に示された神の愛を。十字架にかけられ、よみがえられた主キリストを。
私たちがゆだねられている福音のことばは、多くの人の心の思いを露わにします。今まで福音を伝えて、反対を受けたことがある人もいるでしょう。いや、福音を伝えて、反対を受けないことなどあるわけがないのです。しかし反対を受けるというのは、その相手の心がむき出しにされる、ということです。むき出しにならなければ、自らの罪を知ることはありません。罪を知ることができなければ、救いを受け取ることもできません。私たちにゆだねられているみことば、それがどんなに厳しく見える言葉であろうとも、それは人々を祝福する言葉なのです。たとえ人々の心をかき乱す言葉のように見えても、救いを与えることのできる祝福の言葉です。これからも、ひとり一人がこの祝福の言葉を携えて、証しのわざに励んでいきましょう。
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